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榎野英彦さんによりますお題もの書き2004年11月テーマ企画「クマ」参加作品です。
その日、俺は、久々に登録センターから回ってきた家庭教師の仕事に向っていた。
家庭教師登録センターから送られてきたコメントを見ると、俺を選んだのは、どうやら最近この街に引っ越してきた、ちょっとした資産家の家で、その家にいる十五歳の娘に「読書技術」を教えてくれ、という依頼らしい。
世の中の人々は、携帯端末の液晶表示画面に映る三行から五行の文字列だけが知識であり情報だと信じている。そして、それだけしか知らなくても生きていける世の中なのだ。
でも、それは消費者として生きていけるということであって、何かを創り出し、その対価で生きていくことができる、というわけではない。金を稼ごうと思えば、お手軽な、誰でも手に入る無料の情報ではない、もっと深い知識が必要となる。
そして、そういった知識や情報が欲しければ、データや本を読まなくちゃならない。四十字以内で表示されるその何十倍もの知識や情報を読み解く能力が必要になる。
そこで、俺のような「読書技術一級」の資格を持った人間の出番がくる、というわけだ。
……昔、そう、大昔、まだ本が紙だった頃には、俺のような「読書」の技術を持っている人間はごく普通にいて、「読書」とは履歴書の「特技欄」ではなく「趣味欄」に書く文字だったそうだが、そんな時代なんか想像もできないな……。
目的地の家の玄関には、一頭の灰色熊が座り込んでいた。
置物でも、ぬいぐるみでもない、れっきとした灰色熊だ。
顔の真ん中にある黒目がちな奥目から意思を読み取ることはできないが、不用意に近づけば、間違いなく飛び掛ってくるだろう。
それがあの「番熊」の性質だからだ。
昔、こういった資産家の家では、招かざる客を追い返すために「番犬」と呼ばれる犬を飼っていたそうだ。
犬は飼い主に忠実で、不法侵入者に対しては、激しく咆えてその存在を知らせることができるし、それでも侵入してくる者には、攻撃することもできる。
しかし、犬の咆え声は近隣騒音になるし、不法侵入者が武装していれば、小さな犬では、いくら攻撃しても逆に殺されて終わりだ。
警備会社と契約を結んで、ガードマンが駆けつけるとしても、到着するまでには数分から十数分は必要となる。
そういった治安の悪化に対応するために、バイオテクノロジー会社が造りだしたのが、あの「番熊」というヤツなのだ。
あいつは身体は熊だが、頭の中は犬なのだ。つまり、飼い主に忠実で、言うことを聞き、逆らわず、そして敵に対しては実に勇敢に戦う、という犬の特性を植えつけられた熊である。
知能は高く簡単な複合命令、つまり、○○に行き、××を持って来い、××が無ければ△△を持って来い、という選択肢を含んだ命令でも理解し、遂行することができる。
……さて、と、どうするかな。
俺は門の前で考え込んだ。
この家には門柱のところにインタホンがない。あるのは玄関ドアの脇だけだ。
つまり、事前に何らかの方法でアポイントメントを取っていない客は相手にしない。という意思表示なのだろう。
アポなしでやってきたセールスマンや宗教の勧誘は、門を開けて玄関まで行かねばならない、しかし、その玄関の脇には、灰色熊が陣取っている、というわけだ。
考えあぐねていると、いきなり玄関のドアが開いて、この家の主人らしい中年の太った男が顔を出した。
その男は俺を見るなりいきなり言った。
「おい、君、何をやっているんだ! 待っていたんだぞ早く来い!」
ずいぶんぞんざいな呼びかけ方に、俺は一瞬むっとしたが、その表情が顔に出ないように気をつけて門を開けて庭先に入った。
番熊は、俺が近づくのと同時に目をそらし、ずりずりと後ずさりを始めた。
良く見ると細かく震えているのがわかる。
……なんだ、こいつ、ずいぶんと臆病な番熊だな。
俺は、そんなことを考えながら家に入った。
応接室に通された俺が、出された紅茶のカップに口をつける暇も無く、主人の男が言った。
「今のままでは使い物にならんのだ! ぜひ、あんたにきっちり仕込んでもらいたい!」
俺は驚いた。
いくら怠け者でぱっぱらぱーな頭の持ち主でも自分の娘だ。いきなり使い物にならん、とかきっちり仕込めとか、ずいぶんと厳しい父親だ。
「わかりました、こう見えてもちゃんとした国家試験をパスした男です、それなりの成果を上げてご覧に入れます」
主人は、満足そうに微笑んだ。
「おお、そうか、それは実に頼もしいな。ちゃんと成果を上げてくれれば、報酬ははずむぞ」
「はい、がんばります。で? まずどのようなことからお教えすれば良いでしょうか?」
「うむ、そのことなのだが、あれは実におとなしくて引っ込み思案でね、傍で見ているこっちがイライラするくらいなのだ。だから、まず積極性を植えつけて欲しい」
「はあ……」
俺は一瞬考えた。
俺の仕事は読書技術の家庭教師であって性格の矯正は専門外だ。
でも、俺は考え直した。この親父さんが言っているのは、知識欲とか、探究心とかに対する積極性のことなのかもしれない、それなら話はわかる。
「……わかりました、積極性についても努力します……他には?」
父親は、目を輝かせて言った。
「それから、これは私の子供の頃からの夢だったのだが、私の命令に忠実に従うようにして欲しい。そうだな、私が『それ!』と声をかけると、相手に飛び掛り、喉笛を食いちぎるような獰猛さを教え込んで欲しいのだ」
考えてみれば、このとき、父親が俺の職業を勘違いしていることに気付くべきだった。
俺は、気付かぬまま家庭教師を続け、そして、当然のようにクビになった。
失敗したからではない。
……成果を上げてしまったからだ。