創作論 LOG 003

創作論の2000年01月20日から2000年02月06日までのログです。


2000年02月06日:04時03分07秒
RE:プロの泣き言はみっともないと思いますが / KOU
まあ、まったくもってそうですね。

  ただ、僕が思いますに高田氏は、「毒舌」という「キャラ」が
売りの「芸風」(語弊があるかもしれませんが・・・)だと思いますので、
本人も「また極端な事言ってやがる、ばかだなぁ」という
ツッコミを受けるのを前提に話してると思うのです。
 で、そのなかで、「ん?でも完全に笑い飛ばせるかな?」
って感じに聞いてる人に考えさせて、問題提起にする・・・
という手法なのではないかと。(テリー伊藤氏なんかもそんな感じですが。)
 
  え〜、何が言いたいかというと、本人も多分ツッコまれるつもりで言ってることだと
思うので、もちろん泣き言は泣き言なんですけど、
そう額面通りに責めると、お笑いさんとしてはちょっとかわいそうかも・・・
などと思ってしまったわけです。
(そんなに高田氏を擁護することもないんですけど。^^
 そういうことも含めて伝えられなければ実力不足・・・
 と言われちゃうとそんな気もしますし。)

  あとは、もっと極端な言い分で「文壇」など?「権威」に
蔑まれつづけてた「お笑い」の、逆説的、ブラックユーモア的
反抗なのかなぁ、とか思うのです。
2000年02月04日:23時43分31秒
儀式はどうしてますか? / 鐘辺 完
 プロの小説家の方とかもそうらしいのですが、執筆に入る前に、なんらかのアクション(雑誌を読む、とか、手と顔を洗う、とか)をして精神を作品執筆に向けるようにすることを「儀式」と呼んでいますが(って私が名付けたんじゃないですよ)、そういうものはみなさんにもあるんでしょうか?
 これは結構切実な質問でして、「うりゃ」とやる気になるタイミングを計るためにもいい「儀式」を見つけたいのですよ。
 昔、私には、「テトリスする」というのがよく効きましたけど。今はいいのがありません。
 単にやる気がないだけって言われると返す言葉もありませんが。
2000年02月03日:21時20分42秒
ジャンルのハイ・ブリッドについて(Re:勉強になりますね…。) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>美樹本優輝さん
 こんにちは。少し余裕ができました、美樹本さんの「勉強になりますね…。」 (当掲示板,2000年01月29日:00時57分16秒)、にResをさせていただこうと思います。思いますが……、なにをお話しましょう?(苦笑)
 
 申し訳ないのですが、アタシは「[ジャンルについて]まー、作品ごとにいろいろかと」 (当掲示板,2000年01月30日:11時29分29秒)、で書きましたように、ジャンルについては、あまり重視していません。無視もしてないつもりですが。ジャンルの枠におさまらないような作品や、積極的にハイ・ブリッドされた作品が割と好きです。
 
 ですので、美樹本さんの同人小説はアタシの目からみますと、「営業的にうまくいってる」かのように思えてしまうのですが。
 
 んー、想像するに、作者である美樹本さんが読んで注目して欲しいところに、読者が注目してくれない、とゆー事でしょうか。
 それは、……、うーん。
 無責任なようですが、「どっちつかず」とゆーのは、読者のワガママからゆーと、ちょっと喰い足りないかもしれませんねー。
 
 うーん。「どっちつかず」は、ジャンルがハイ・ブリッドした作品のリスクであるとは思います。
 アタシは、SFミステリみたいのでおもしろいと思ったものにあたった事がありません。あー、小松左京の中編でちょっとおもしろいのがあったかなー(記憶がさだかでなーい)。
 作家さんは、ハイ・ブリッドさせる両方のジャンルを分析して、戦術を練る必要があるのかもしれません。タイヘンだと思います。
2000年02月03日:20時58分42秒
プロの泣き言はみっともないと思いますが(Re:ジャンルで格が決められている) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
#鐘辺 完さんが、「創作小説雑談所」から持ってこられた、「純文学と娯楽小説の違いって?」 (彬兄さん記,創作小説雑談所,2000年02月02日:18時21分55秒)、の話題についてです。
 
@鐘辺 完さんWrote
>私はお笑い小説書いてます。別に私の作品の地位が低くてもいいです。けど、お笑いって本来高度なものですよね。
 〔中略〕
>だからお笑いは大変なんですって。
>私は好きでやってるからいいけど。
>というより、途中でギャグのひとつも入れずに小説書けませんから、私。
>で、これ、グチですか?
 
 「お笑い」に関して。「ジャンルで格が決められている」かのような慣習があるとゆう事も含めて。
 「お笑いは大変」、「日本でのお笑いの地位は分野を問わず、総じて低いです。国民性のようですね」と言った話にはうなづけますし。
 「お笑い」に限らず、ジャンルで格が決められている、なんてゆーのは、おもしろくない因習と思います。
 総じて鐘辺 さんのご意見には賛成です。鐘辺さんの言ってられることはアタシは愚痴では無いと思います。
 
 ですが、それはそれとして、プロの泣き言はみっともよくないと思います。
 なんてゆーか、プロにはかっこよく振る舞ってほしーです。
 読者(受け手)としてのワガママでしょうけど。
 
 高田文夫の発言は、アタシのはちょっとわからないところがありまして。TVの世界では、放送作家と脚本家(シナリオ・ライター)とゆうのは職種が違うのでしょうか?
 そこがわかりません。
 シナリオ・ライターを観てますと、シリアスだからと言って「ラストは殺しゃいい」なんてものではないと思いますが。
 アタシには高田文夫のプロらしくない愚痴・ヒガミに聞こえてしまうのですが(←コレはアタシがTVの世界の事をよく知らないから勘違いがあるかもしれません)。
 
 中島らもの発言の方は、もっとどうしようもないですね。
 例えば、サイコ・ミステリーってゆーのは、現代風の新しい「悲劇」の型と言えると思います。えぇ、もちろんアタシの意見ですが。
 
 トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』とか、『レッド・ドラゴン』とか。D・L・リンジーの『悪魔が目をとじるまで』とか、悲劇でないとは誰にも言えないのではないかと思います。
 「新しい悲劇をさがしている悲劇作家はいない」などとゆーのは、プロの・くせに・無知であるか、または、感受性が乏しいか、はたまた愚痴か泣き言と思います。
 どれにしたって、みっともよくないと思います。
2000年02月03日:19時45分18秒
ジャンルで格が決められている[Re:純文学と娯楽小説の違いって? / 彬兄さん] / 鐘辺 完
>よく、純文学に比べエンターテイメント小説はレベルが低いなんていう人がいますけど、
 というのを読んで思ったんですが、日本では、お笑い系の地位がとても低いです。
 芸能人でもお笑い芸人を格下に見たり、共演をいやがる人がいます。誰って? 小柳ルミ子。
 小説でも、お笑い小説、ギャグ小説よりは、まじめぶったおちゃらけひとつない小説の方が高級だと思っている人が多いんじゃないでしょうか。
 日本でのお笑いの地位は分野を問わず、総じて低いです。国民性のようですね。
 私はお笑い小説書いてます。別に私の作品の地位が低くてもいいです。けど、お笑いって本来高度なものですよね。
 放送作家の高田文夫が言っていました。
「シリアスの放送作家はいいよな。ラストは殺しゃいいんだもの」というような意味合いのこと言ってました。
 中島らもも言ってました。
「新しい笑いを探すお笑い作家はいるが、新しい悲劇をさがしている悲劇作家はいない」
 だからお笑いは大変なんですって。
 私は好きでやってるからいいけど。
 というより、途中でギャグのひとつも入れずに小説書けませんから、私。
 で、これ、グチですか? 
2000年02月03日:00時32分25秒
関係性での描写・暗示:事例(Re:ティーンズノベルに対して、僕が思うジレンマ) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 前の投稿書いてる内に思いついた事があるので、先に書いた「関係性での描写・暗示」について、品崎さんが、「ティーンズノベルに対して、僕が思うジレンマ」 (当掲示板,2000年02月02日:01時55分46秒)、で出されたTRPGの事例を使わせていただき「関係性での描写・暗示」を考えてみたいと思います。
 これがもし、品崎さんの書かれた小説の事例でしたら、とても失礼すぎるのでやらないと思いますが。品崎さんには、ご容赦くださるようお願いします。
 
 ここでは目的を、中年の刑事の女子高生に対する予断と、女子高生が中年の刑事に対する予断との食い違いを描写・暗示すること、と限定してみます。
 
 ひとつの方法として、刑事は女子高生に会えて、公園とかで聞き込みができる展開を考えてみます。

 刑事は袋からシュークリームを出し、「食べるかね?」と女子高生に差し出しますが、彼女は首を左右にふります。
 「ダイエットしてるし」
 「してるし、なんだい?」
 「知らない人から物貰うほど子供でないですよ、ボク」
 「知らない人って、警察手帳みせたじゃないかね」
 「うん、一応信用してるけど。でも本物かどうかわかんないもん」
 ここで、刑事はおもむろに差し出していたシュークリームを食べ始めます。
 「おじさん、糖尿とかダイジョブなの?」
 
 とか、まぁ、小説的な表現・描写は、アタシはできないので悪あがきしませんでしたけど(笑)。
 こんなやり方も、ひとつの方向としては、あるのではないかなー、と思います。
 若い読者には若い読者なりにウケ、オトナの読者にはオトナの読者なりにウケる、って戦術のひとつとしてですね。こーゆー方向もあると思います。
 
 小野不由美に『ゴーストハント 悪夢の棲む家』ってゆうのがありますけど。割とこうゆう戦術が多用されてると思います。
 
 僭越ですが、品崎さんが言われる、「無言だからこそイイと思うわけです」ってゆうのは、品崎さんがハード・ボイルド小説お好きだって事を割り引いても、アタシわかる気しますし。賛成です。
 
 ティーンズ・ノベルズの文学性が低く言われる理由のひとつに、「なんでもかんでも、テクストの表面(直接記述)で説明しすぎ」ってゆうのがありますよね。
 実際、読解の楽しさが無い作品が多すぎる、って気はアタシもするんです。
 
 ですので、月並みですが、品崎さんには初志貫徹で頑張っていただきたいと、思いますです☆
2000年02月03日:00時11分20秒
関係性での描写・暗示(Re:ティーンズノベルに対して、僕が思うジレンマ) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@品崎さんWrote (「ティーンズノベルに対して、僕が思うジレンマ」,当掲示板,2000年02月02日:01時55分46秒)
>僕はすごく難しいと思います。αのタイプ〔「若い時にもオトナになってもそれぞれに異なった感動のできる作品」類型:カンナ補記〕は。
 
 えぇ、実作される方にとってはとてもチャレンジングと思います。アタシも含めて読者はワガママですから。
 
>すぐに思いつく安易なやり方としては、作品の中で"オトナウケするシーン"と"より若年者にウケるシーン"などと明確に区別して描き分けておいて、全体としての評価を高めるとか、ですかねぇ。
 
 なるほど。
 オトナらしい観点と若者らしい観点のズレや矛盾を個別にではなく、関係性で描写し、若者・オトナそれぞれのにんげん性を一挙に暗示する、方法があると思いますが。いかがでしょうか。
 いろいろあるだろう戦術の中のひとつと思いますが。
 
 ここで、「ズレ」、と言っているのは「(お互い)どことなく、今ひとつ話が通じてないな、って感じを抱きながらも続いていってしまう会話」とかです。この場合「今ひとつ話が通じてないな、って感じ」が、直接テクストで説明的に書かれるので無く、暗示されていると、読解や読者の想像力が働く余地が確保されると思います。
 
 「矛盾」と言ってるのは、わかり易いと思います。実作しない立場で気楽に書くと、矛盾の解消方法が、「若者がオトナの観点を納得する」とか、「オトナが子供の観点を理解する」とかだと、α.「若い時にもオトナになってもそれぞれに異なった感動のできる作品」にはならないと思います。
 作品中のできごと(=ストーリー)のレベルでは「矛盾」も解消・解決されないと困るかもしれません(特にティーンズ・ノベルでは)。けれど、動機付けや、にんげん関係や、物語内容のレベルでは、「矛盾の原因になった『ズレ』」は型をかえても解消はされない。こーゆー方向が、α.「若い時にもオトナになってもそれぞれに異なった感動のできる作品」にあり得る方向性のひとつと思います。
 
●事例
 具体例を出してみます。まず、小説ではありませんけど、TVドラマ『踊る大捜査線』。
 あのドラマでは、「(お互い)どことなく、今ひとつ通じてないな、って感じを抱きながらも続いていってしまう会話」が凄く上手に多用されてます。
 ファンの間で“スリー・アミーゴーズ”って呼ばれてる中年の管理職と、主人公、それから、主人公より若い世代の登場人物の間での会話には、ほとんど必ずチグハグなところがあって。それがコミカルな味を出してるんですけど。
 ギャグのネタであると同時に、キャラクターのにんげん性暗示の材料にもなっていて、もうひとつゆうと作品の主題への関わりも深い。 そこら辺の発想・構成力やテクニックが優れてると思います。
 
 小説の事例を出すと、丁度今、アタシ、笠井潔の「私立探偵飛鳥井の事件簿」って連作(←個々作品の独立性の高いシリーズ)に凝ってるんですけど。ちょっと引用してみます。
 
 「看板には国際調査って書いてあるけど、国内の仕事もやるんでしょ」
 〔中略〕
 「なんでも引き受けることにしているが、結婚のためでも離婚のためでも、素行調査の類はやらない」
 〔中略〕なにも偉そうに構えているのではない。趣味的に仕事を選んでいるのでもない。長時間の尾行が必要であるような調査は個人営業の私立探偵には不向きなのだ。
 探偵だって眠らなければならないし、食事もしなければならない〔中略〕
 「それなら外国人の浮気調査はやるの」
 「昔はね。今は、もう、やらない」
 「どうして」
 「昔は、東京に住んでる外国人の数も少なかった。今は二十年前の百倍もの外国人が東京にいる」
 〔中略〕
 「ようするに平凡な調査はしたくないのね」
 
 うえの引用部分、押さえられたヒューモアがある部分で。読んでも笑わない人は笑わないだろうけど。おかしみは豊富な個所です。
 ここでのおかしみは、二十年前の東京を知ってる中年の探偵と、知らない女子高生の来客。生活の為の職業として探偵をやってる主人公と、「小学生のときから、この道を通るたびに看板を見あげて、いつも考えていたんだ。探偵ってほんとにいるんだなって」とゆう女子高生。
 二人の考えてることがかなり喰い違ってるのに、会話は普通に続いてくっておかしみです。極端な言い方すると、相互理解でなくって、相互誤解ね(笑)。
 こーゆー発想や技法は、α.「若い時にもオトナになってもそれぞれに異なった感動のできる作品」に有益かと思います。
#引用した笠井の作品は『三匹の猿』って小説ですけど。←コレがαタイプの作品、と断定しているわけではありません。
#作品から取り出したテクニックについて述べてみました。
 
 もちろん引用した笠井の『三匹の猿』はティーンズ・ノベルとは認められないと思います。
 多分、うえに述べたような発想・技法をティーンズ・ノベルに適用するときに、工夫がいる難点は、ティーンズ・ノベルでは主人公も大抵ティーンズって事情かと思います
 主人公がティーンズでなければならない、ってわけでもないでしょうけど。やっぱり、ティーンズになりがちですよね。
 
 ティーンズである主人公の、人生経験の無さ、みたいな面と、だからこそのポジティブな側面とを、どぉ兼ね合いとってプレゼンテーションしてくか。その辺が作家さんの工夫のしどころ・腕の見せ所ではないかと思います。
2000年02月02日:01時55分46秒
ティーンズノベルに対して、僕が思うジレンマ / 品崎
 鍼原さん。レスありがとうごさいます。
 1コ前の記事も興味深く拝見させていただきました。
 鍼原さんの書きこみにくらべ、驚くほど言葉が少なくて、非常に恐縮なんですけど(泣)、

 ♪「作品構成はシンプル」で、「読解されるストーリーもシンプル」で、かつ「『物語内容』の個々の読解に大きな差違が生じる」作品

 っていうのもアリだよなあ、とあとで気付き、赤面しました。
 ふと、例題を引こうかと思ったんですが、また混乱したらナンなので。次の話に移らせていただきます。

 今回の本題は「ティーンズノベルと、物語内容が多彩な作品」についての話です

 僕は以前の書きこみで、「物語内容」が個々の読者によってバラエティに富んでいるものや、何回もの再読に耐えられるものが“良い作品”だという考えは万人が感じていることかという問題をなげかけました。

 それに対し、鍼原さんから「〔何回もの再読に耐えられる作品〕は"生命力"が高いが、例えばその世代に非常にウケの良い作品などもあるので"万人が良いと認める"ワケではないというレスをいただきました。(まとめてみました。もし違ったら、ツッコンでください)

 そうだよなぁ、とうなづきながら、ふと振りかえると、
 僕は漠然とした不満を問題の投げかけとしたんじゃないかと思えてきました。

 僕は実のトコロ「物語内容が個々で違う作品」や、「読者に想像の域が残された作品」が大好きなんです。今までもずっとそういう作品を書いていきたいのです。
 でもティーンズ・ノベルというものに、そのやり方が通用しないのではないかという不満を感じていたのです。
 最近はそうでもないな、と考えを改めましたけど。それでもやはり僕の好きなやり方でティーンズ・ノベルを書くのは難しいと思います。

 実例をあげましょう。実際は僕がTRPGでやった演技ですが、まあ小説だと思って聞いてください。

 ──女子高生に話を聞きたい中年の刑事が、近所のコンビニにふらりと寄ってシュークリームを数個買って、その女子高生の通学路の公園で1人時間をつぶします。でも女子高生が来ないので、彼は1人でシュークリームを食べ始めます──
 こういったシーンを僕は人物の感情描写を全くなしに演じました。
 すると、若い観客(ティーンズ・ノベルの主読者といってよいでしょう)は、こう考えたのです。
 ──この刑事は甘党だ──
 確かにそういう見方もありますけど(笑)、でも僕は
 ──その女子高生のために、よく分からないけど女の子の好きそうなものを買ってはみたけど、結局ムダにしてしまう不器用な中年刑事──
 を演じたつもりでした。
 たぶん感情描写を交えて演じれば(コンビニで"仕方ねえなあ"とぼやくなど)、ティーンズ・ノベルの主読者にも意図を気付かせることができるでしょう。
 しかし僕としては、そんなこと書きたくないワケです。無言だからこそイイと思うわけです。
 この例でいうなら、感情描写を抑えることで様々な解釈を可能としたつもりなんです。

 僕は主にこういった手法でα.「若い時にもオトナになってもそれぞれに異なった感動のできる作品」(→鍼原さんWrote)を表現するつもりでいます。

 一例をコネくり回してもナンですけど、
 確かに解釈はいろいろできても、"この刑事は甘党だ"なんて解釈では、ドラマは生まれないわけです。つまり、"面白くない作品"になってしまう。

 それはつまり、γ.「若いときには受け入れられなかったけど、オトナになったら感動できる作品」(→鍼原さんWrote)になっているだけの話なのかもしれません。

 だから僕はすごく難しいと思います。αのタイプは。
 すぐに思いつく安易なやり方としては、作品の中で"オトナウケするシーン"と"より若年者にウケるシーン"などと明確に区別して描き分けておいて、全体としての評価を高めるとか、ですかねぇ。

 いや、長々と書いていて思うのは、やはり小説は100%テクニックですね。
 いかに見せ方をコントロールするかにかかっているんだなあ、としみじみ思います。

 と、いうわけで、長々と僕のジレンマについて語りました。
 僕自身は素直にティーンズ・ノベルを書くのをやめればいいのですけど(笑)。
 とりあえずこの掲示板を見る方にはティーンズ・ノベルを書く方が多いようなので、こんな話題にしてみました。
 みなさんはどうお考えですか?

2000年02月01日:10時40分11秒
繰り返し読むに耐える作品について(Re:低年齢者層向けの小説はこれからどう変わっていくか) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@品崎さんWrote (「低年齢者層向けの小説はこれからどう変わっていくか 」,当掲示板,2000年01月21日:23時36分10秒)
>前に鍼原さんは「物語内容」が個々の読者によってバラエティに富んでいるものや、何回もの再読に耐えられるものが“良い作品”だとおっしゃられていたと思うのです。(違っていたらごめんなさい)
>僕も同感ではあるのですが、
>でも、それって万人がそうだと認めるような“相対的に”良い作品なのでしょうか?
 
 アタシが思うに、引用した個所で品崎さんは、アタシ達みんなが共通に直面してるもんだい状況に触れてられる気がします。
 
 まず、アタシの考えを書いちゃいますね。
 ごく大ザッパに言って、A.「ある世代グループ100人に支持される作品」と、B.「異なる世代グループ4つに25人ずつ(総計100人)に支持される作品」を比較したら、後者の方により強い作品生命力(作品として優れている)を期待してもよいと思うんです。
 もちろん、異なる世代グループ4つに100人ずつ、総計400人に支持される作品があったら、その方が凄いのですが(笑)。
 
 ニホンの物語商品市場の基調は、消費による前進のメカニズムと思われます(物語市場に限りませんけど)。
 世代を越えて読まれる作品ってゆうのは、消費されづらいので主流にならないって状況があると思います。←コレが、物語作品に関してのもんだい状況と思います。
 
 作家さんに関して言えば、そうした市場の現実的な基調のどの辺で、どーゆースタンスを持って実作をされるのか、それぞれの方の戦略が必要なのだろうと疎推測されます。
 どの戦略を採るにしても、それぞれにリスクはあるはずですので、ホントにタイヘンと思います。
 
 えーと。学生のときとかに読んだ作品を数年後に読み返して、「昔は何に勘当したのかわからない」作品もあるし、「昔は自分は何にも読めてなかった」と思う作品もありますよね。
 
 アタシは、品崎さんが言われるように「繰り返し読むに耐えて、読むたびに新しい発見がある作品ほど優れている」とゆう立場です。
 ただ、この「読むたびに新しい発見がある」ってゆうのは、ちょっと大げさな言い方ではあります。
 
 実際は、受け手(読者)であるアタシの観点の変化(成長みたいなもの)に応じて、読解される物語内容もちゃんと応じてくれる、って構造を持った作品が優れてるのだと思います。
 
 ですので、「ストーリーと物語内容に大差の無いような作品」はアタシは、受け手(読者)の観点の変化に応じないので、作品の生命力(作品として優れてる)は、弱いと思っています。
#誤解されるかもしれませんけど。アタシも個人的に好きなストーリーはあります。
#例えば、笹本裕一の「エリアル」のシリーズなんて、アタシはどーしょもなく好きなんですけど(笑)。
#でも、「アタシの観点が変化するに応じて変わって観える物語内容」とかが「エリアル」にあるとはアタシには思えません(苦笑)。
#アタシ的には、それとこれとは別リーグって感じなんです。
 
 アタシ的はそーゆー考えですので、作品のよしあしとゆうのは、短期期間に限定して観れば、「万人に認められる」とは限らないと思っています。←コレは、もちろん「逆は真ならず」で、「万人が認めないもの」だから、「よい作品」だなんて事は言えませんケド(笑)。
 
 えーと、α.「若い時にもオトナになってもそれぞれに異なった感動のできる作品」、β.「若いときには感動できたけどオトナになったら飽きる作品」、γ.「若いときには受け入れられなかったけど、オトナになったら感動できる作品」って類型を考えると。
 
 αは、文句無しにβやγの類型より優れてると思います。
 
 ただ、βとγは、これは、たんじゅんに比較するべきものではないと思ってます。
 “青春の文学”みたいに言われる作品は昔からあったわけで。今そうしたニーズの一翼をティーンズ・ノベルが担ってる、って事はあると思いますし。
 個別の作品を観るべきで、類型で論じるべきでは無いとも思われます。
 
 で、やっとティーンズ・ノベルの話に戻れる(苦笑)んですけど。αタイプの作品とβタイプの作品と、どっちの戦略でゆくか、ってあたりが作家さんの考えどころかと思います。
 
 アタシはもうティーンズではありません(笑)ので。読者としては、ティーンズ・ノベルにもαタイプが増えてくれると嬉しいです。
 アタシの好みでゆうと、小野不由美とかよいですよね。後、宗田理とか。マンガだと小説よりαタイプも目立つ(多い?)気がします。
2000年02月01日:09時00分55秒
ゲスいクイズのテクスト論(笑)(Re:あえて歪んで読ませるのもあり?) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>鐘辺 完さんへ
 あははは☆
 
 いや、鐘辺 完さんの挙げられた「ゲスいクイズ」の例がおかしくって。
 普通、「応えは×××?」、「違うよ〜◎◎◎だもんねー」と、こーなるわけですよね。
 
 えーと、ムリヤリにテクスト論にあてはめると。
 
 「〜でなぁに」って問いに対する応えが、同等の権利で複数成り立つわけで。
 「意味決定不可能なダブル・ミーニングのおかしみ」とは言えます(ゲスなものはゲスですけど:苦笑)。
 
 えーと、アタシが「ストーリーはシンプルだけど、物語内容の個々の読解に大きな差違が生じる」作品の例として考えていたのは、例えば「象徴性が顕著に含まれた寓話」だったりします。その事例が『あかいろうそくと人魚』なわけです。
 
 アタシの場合「繰り返し読むに耐えて、読むたびに新しい発見がある作品ほど優れている」とゆう前提(立場)なので、鐘辺さんの挙げられた例のようなタイプは考えていませんでした。
 挙げられた事例では、ダブル・ミーニングのからくりを一度知ってしまえば、二度目からはおもしろみが半減するからです。
 
 「ウテナ」に関しては、アタシもあーゆー構造の作品が、TVアニメ業界の主流になることはないと思います。
 TVってゆうのは、基本的に常に新作を提供することが主流になって廻ってゆくシステムになってますので。
 
 ただ、DVDソフトの市場が今みたいな調子で堅調に整備されていったら、あーゆー方向性の作品が増える余地も拡大するかな、と期待しています。
 
 『忍風 カムイ外伝』のDVDソフトが割と一般的な店舗の店頭にも出回っていたりしますよね。
 DVDはLDと比較して価格はともかく、省スペースな商品形態なので。これまでのマニアックな購買層以外の広い購買が期待できるのではないかと思うからです。
#ちょっと甘い期待かもしれませんけど。
 
 それにしてもあくまで、「余地が広がる」だけで、市場全体で主流になるとは思いませんけど。
 この辺もアタシの予想は、小説形態の市場での読み棄て商品と、繰り返し読むに足りる作品との関係と同型と思っています。
 
>鍼原さんの30日の[ジャンルについて]にも書いたんですけど、ログが飛んでしまったようです。  
#あ・それは残念です。どんな感じのコメントでしたのでしょうか?
2000年02月01日:03時12分32秒
あえて歪んで読ませるのもあり?(Re:作品構成と物語内容のヴァリアント) / 鐘辺 完
>「ストーリーはシンプルだけど、物語内容の個々の読解に大きな差違が生じる」
 というと、「意図的に描写を欠落させる」というコスい方法を思いついてしまいますが。
 まるで、「マで始まってコで終わる、いつも濡れてて周りに毛が生えてる体の部分はなーに?」ていうゲスいクイズのように。ああ、また例えが変!
 たしかにこういう造りの小説は低年齢者には向きませんね。(いや、クイズのゲスさも向かんけどね)

 「少女革命ウテナ」観ていて、「こんな作品と同系(同型ともいえるか)の作品が主流になったら、アニメ界は破滅やな」と思ったことがあります。

 すいませんねぇ。今回はかなりズレたこと言ってますね。私。

 余談ですけど、鍼原さんの30日の[ジャンルについて]にも書いたんですけど、ログが飛んでしまったようです。
2000年01月31日:10時41分55秒
作品構成と物語内容のヴァリアント(Re:低年齢者層向けの小説はこれからどう変わっていくか) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
#「ティーンズ・ノベルの将来」、の話にうまくつながるか少し自信ないですけど。ちょっと思ったことを書きます。
 
@品崎さんWrote (「低年齢者層向けの小説はこれからどう変わっていくか 」,当掲示板,2000年01月21日:23時36分10秒)
>自分で書いていても思うのですが、やっぱり低年齢層を対象にしようと思うと、どうしても読者の解釈が大きく個々で異なるような作品は書けないんですよね。
「物語内容」が個々で大きく異なる作品 = より難解で複雑
>っていう図式があると僕は思うんですよ。だから“こんなん書いても誰も理解できないぞ”とか自分で思ってしまうわけです。
 
●物語内容読解(解釈)の妥当な差違
 「より難解で複雑な構成の作品」は、「『物語内容』の個々の読解に大きな差違が生じる」とは言えると思います。
 
 ただ、「大きな差異」と言っても、普通はストーリーを共通の基盤にしているので、「個々の読解」に差異がいくらあっても、それはある構造態のヴァリアント−−比ユ的に言って写像変換された図形のような相互関係にあると言えると思います。
 
 ここでもんだいなのは、ストーリーに演出意図上、意図的に曖昧要素や矛盾要素が多く設けられたと思われる作品ですね。
 
 確かに最近目立つ気がします(はやってるかどうかは判断が分かれるところでしょう)。
 例えば、『新世紀 エヴァンゲリオン』(TVアニメ)がそうですし、『少女革命 ウテナ』(TVアニメ)もそうですし。後、数年前の作品ですけど、『沙粧妙子 最後の事件』(TVドラマ)なんてゆうのも、ストーリーに欠落部分や曖昧部分、矛盾部分が多く用意されてます。
 
 「読解されたストーリー」は「作品テクスト」の妥当な判断の結果でないといけません。
 「ストーリーをわかろう」とするあまり、演出意図的に用意された曖昧部分、矛盾部分や、欠落部分に強引な判断を下すことは、これは妥当なストーリー判断とは言えません。
 
 「[ストーリーと物語内容]ケーススタディ『大きな古時計』の物語」 (当掲示板,カンナ記,2000年01月29日:08時31分26秒)、で事例を示してみたつもりですけど。
 「ストーリー読解(判断)」では、判断不能な曖昧部分や、欠落部分は、これは「判断不能」と矛盾要素については「決定不能」なんだ、との判断をする事こそ妥当な読解であることがあります。
 
 ここで、ストーリーに強引な判断を混入すると、そのストーリーに基づいて解釈される物語内容は、作品テクストの「曲解」になってしまいます。
 この種の「物語内容読解(解釈)」は、「読み取り」、とゆうより「読み込み」と言われるべきで、不適当なものです。
 妥当でない「ストーリー読解(判断)」のうえに為された「解釈」も不適当なソレになっちゃうわけで。
#ここでは、ただ作品構成が複雑なだけで、大したストーリーも構成されてないもの、や、作品構成がたんじゅんに破綻してて物語内容と言えるほどのものがない、駄作は考慮していません。そうした類は、まぁ作品って言っても程度の低い作品なわけで、考慮外にします。
 
●シンプルなストーリーで、物語内容が豊かな作品
 「より難解で複雑な構成の作品」は、「『物語内容』の個々の読解に大きな差違が生じる」。
 しかし、「『物語内容』の個々の読解に大きな差違が生じている」作品が、必ず「難解で複雑な構成の作品」か、とゆうと、そうでもないと思うんです。
 
 例えば、物語内容に象徴性が顕著に含まれた寓話の類に「作品構成はシンプル」で「ストーリーもシンプル」だけど、「物語内容の解釈の幅は豊か」なものがありますよね。
 アタシが好きなのだと、小川未明の『あかいろうそくと人魚』とか。
 
 ただ「寓話」ってゆうと、「喩話的に表現された教訓譚」って思われますし。実際そうゆう「寓話」も多くって。
 「喩話的に表現された教訓譚」は、「ストーリーと物語内容にあまり差異が無い」作品ではあります。

 でも、『あかいろうそくと人魚』みたいな作品は、ただの「教訓譚」だけでない、謎めいたことこがありまして。
 例えば、それは、人魚がストーリー上は単体(孤独)で、人魚の仲間とかが実際に姿を現さないところ(曖昧性または欠落部)とか、そうしたテクスト特性によってて。物語内容に含まれる象徴性が「多様な解釈」を許容してるんだと思います。
#例えば、「作品終盤で語られる『嵐』って何を象徴し得るだろうか」みたいなことで、多様な解釈が成り立ち得ると思います。
 
 「複雑な作品構成」で、「ストーリー読解も困難」で「『物語内容』の個々の読解に大きな差違が生じる」作品を書くのはタイヘンだと思います。
 でも、「作品構成はシンプル」で、「読解されるストーリーもシンプル」で、かつ「『物語内容』の個々の読解に大きな差違が生じる」作品を書くのも、また別種のタイヘンさがあるのだろうなぁ、とは想像します。
 
 アタシは以前は同人マンガを描いたりしてましたけど、今は実作はしないので、気楽な立場(苦笑)から言うのですが。「ストーリーはシンプルだけど、物語内容の個々の読解に大きな差違が生じる」作品ってゆうのも好きです。そーゆーのも読みたい気分のときもあります。
2000年01月30日:11時34分48秒
[ジャンルについて]「ジャンル」って言葉アレコレ / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 ジャンルについてひとつ言えるのは、「ジャンル」って言ったときに、ほんとは五つくらいのレベルがあるのに、普段はゴチャゴチャに使われてることなんですよね。ある程度は文脈から判断されますけど。
 
1.語りの形式による分類:文体、とか、長さとか、そーゆーのです。
 「スタイル」って言われることもありますけど。散文、韻文、ってゆーのは「ジャンル」ですよね。1人称小説、3人称小説、ってゆうのもジャンルですし。文体模倣小説、文体混交小説、ってゆうのもそれぞれジャンルです。
 
2.題材によるもの:普通いわれるジャンルってこれが多いですよね
 探偵小説とか、怪奇小説ってゆーのがそれぞれジャンルと言われますよね。
 
3.主題(と期待されるもの)によるもの:これも普通いわれますよね
 恋愛小説とか、冒険小説、ってゆうのは「主題(と期待されるもの)」によるジャンル分けですよね。

 「JUNE小説」がジャンルとか言われますけど。このジャンルの用語法は実はすごく曖昧で、「JUNE小説」には時代物とか、探偵ものとかいろいろありますよね。だから話が混乱する。
 余談ですけど、「耽美小説」って書店店頭に書いてあるけど、ジャン・ジュネとか泉鏡花とか、置いてないよね(苦笑)。多分読者の人たちの大勢が期待してるものと関係ないんだと思います。
 「架空戦記」ってジャンルわけは、この主題と期待されるものによるわけかたなんだと思います。
 
4.物語内容の類型によるもの:
 ロマン、とか写実小説、とか、民話、とか、そーゆーわけ方です。
 
5.想定される読者層によるもの:
 児童文学、とか、ティーンズ・ノベルとか、少女小説とか、そーゆーわけ方。
 
 文芸批評的な視座から言っちゃうと。1.でジャンルをわけるのが一番話が明瞭で。次にいろいろな分析が必要だから異説も出るけど、4.の意味でジャンルを分けるのがまぁ明瞭。
 例えば、「ライト・ノベル」って言葉が今イチ流通しそうにないんですけど。アタシが思うにアレは、文体で分けると割と話がはっきりするのではないかなー、とか思います。
 
 5.のわけ方は割と明瞭なようで、実はいかがわしいとこがあって。誰が、読者層を想定したのか? 作者か? 編集者か? 出版社か? それともPTAか? みたいなとこがもんだいと思います。
 1.2.や4.なら、読者が判断できるわけです。5.はね、なんてゆーか、押し付けがましいところがよくないジャンル分けと思います。
 3.も5.ほどでないけど、おしすけがましくなっちゃうときがあって。ちゃんと読むと、お題目と違うとこに主題があることとかありますよね。
 
 で、まー、やむを得ない面があると思うんですけど。普通は2.と3.とがごっちゃにされて「ジャンル」って言われてることが多いんで。それで、ジャンルについての話って曖昧化したり会話がスレ違いになったりしがち、って事はあると思います。
2000年01月30日:11時29分29秒
[ジャンルについて]まー、作品ごとにいろいろかと / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@鐘辺 完さんWrote (「ジャンルというもの」,当掲示板,2000年01月30日:07時37分02秒)
>まず作品ありき。ジャンルはあとで他者によって振り分けられるもの。と思ってますけど、みなさんどうですか?
 アタシは鐘辺さんの言われることはわかる気がしますし。どちらかと言うと、ジャンルにおさまらない作品の方が好きです。
 なぜかとゆうと、アタシが作品に期待するのは、固有性なので。ジャンルってゆうのは一般性にすぎないから、ですが。
#アタシが「伝奇ロマン」を好きな理由のひとつは、ジャンル越境性が強いからだったりします。
 
 ただ、それはそれとして、ジャンル小説の傑作、ってゆうのもあることはあるとは思います。
 ジャンルを越えて異なる観点からも評価される作品ではなく。ジャンル内の傑作です。
 例えば、 ハミルトンの『フェッセンデンの宇宙』なんて、ジャンル小説の傑作ではないかと思います。
 
 それからジャンルのコード(約束事)を徹底させてって、逆にジャンルに予想させる物語内容を逸脱してっちゃう戦術もあるようです。
 中井英夫が自作を指して提唱した「アンチ・ミステリー」って概念を笠井潔は、うえのように解説するのですが。これに関しては、そうゆう考え方もあるみたい、程度のアレですけど。
 
 営業的なことは、また別ではないかと思います。プロになる場合と、コミケとかで売る場合はまた別と思いますし。
 プロの場合はアレですね、前も書きましたけど、書店店頭で言われる「ジャンル」ってゆうのは、話題作りみたいなものなので、実は作品内容とはあまり関係が無い、とアタシは思っています。
 評価できて売れる作品は必ずジャンル越境性がある、とアタシは思います。
 いろんな要素が混在してるって言ったほーがよいかな。雑多とも言える要素の構成のさせ方も作家の腕前の内でしょう。
 
 うーんと、よくわかんないですけど。プロの人はジャンルが盛り上がる前から、取り組んでないとむづかしいのではないかなー。
 それとか、ジャンルと無関係にやってたとこにブームが来るとか。
 個人的な印象論としては、ブームだ、っつってから出される商業作品ってなぜかつまらないものの方が多いような印象を持っています。
 
 コミケみたいな市場は逆に商業市場で成り立たちにくい商品も細かくセグメント化されて成り立つ余地はあるんで、ブームに関係なくジャンルに拘る戦術も余地がある気がするんですけど。どーなんでしょー。
 
 まー、とりあえず「まず作品ありき。ジャンルはあとで他者によって振り分けられるもの」ってゆーのは、これは作品によって違う。 実作される方の立場で考えると、人それぞれってことではないかなー、と思います。
2000年01月30日:07時37分02秒
ジャンルというもの / 鐘辺 完
 美樹本さんのおっしゃる「ジャンル分け」に少し疑問を感じました。
 というのは、私は自分の書こうとする作品がある程度 できるまでは「ジャンル分け」できないのです。
 完成してさえどのジャンルになるかわからないこともあります。
 まあ、器用にジャンルを分けて書けるほうではないだけかも知れませんが。

 まず作品ありき。ジャンルはあとで他者によって振り分けられるもの。と思ってますけど、みなさんどうですか?

 こんな考え方なせいか私は「営業的」じゃないです。
 
2000年01月29日:08時31分26秒
[ストーリーと物語内容]ケーススタディ「大きな古時計」の物語(長文) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 嬉しいことに「『ストーリー(話)』と『物語内容』」についての話題に、関心を寄せてくだすってる方がおられます。
 ですので、このボードで少し続けさせてもらおうかと思っています。
 
 この話題が「創作論」かとゆうと、少し怪しい。アタシ的には、もちろん小説などの実作をされる方のご参考になるあたりを意識しながら話を進めてゆくつもりではいますけれど。
 ただ、一方で、こうした話題に興味をお持ちでない方もおられると思います。

 えーと、もし、「もっと『創作論』らしー話をしたい」って方がおられましたら、アタシは構わないので、別の話題でも、どんどん[識別子]とか使って出しちゃってくださいませ。
 
 んで、「『ストーリー(話)』と『物語内容』」なんですけど、アタシとしては、少し再整理して細かいとこもつめたいと思ってます。ただ、理論のとこだけで、話を進めても、抽象的になってアレかと思いますので。
 
 最近話題に出た大きな古時計の歌詞を、物語とみたてて、「ストーリー読解(判断)」と、「物語内容(解釈)」とを含んだ、分析・批評をやってみることにします。
 邪道ですけど、ケース・スタディって感じで。
 何が邪道か、と言うと、ご存知の通り、「大きな古時計」は、詩歌です。詩歌を、物語としてのみ分析するのは邪道ですよね。例えば、音曲のメロディーと、詩のイントネーションやリズム、韻の関連とかを分析の基本においたうえで、物語も分析するのが正道ですけど。ここでは、ケース・スタディってことで、あえて、物語分析・批評を試みることにします。
 
■ケース・スタディ:大きな古時計歌詞の物語分析・批評
#以下の批評文中、フォントカラーをインディゴに変更してある個所は、「ストーリー読解(判断)」の部分です。
#フォントカラーが変更されず、黒のままの個所は、主に「物語内容読解(解釈)」の部分と思っていただいて結構です。
 
 大きな古時計は、「おじいさんの時計」である「大きなのっぽの古時計」についての物語です。
 この物語では「大きなのっぽの古時計」についての語りに仮託して「おじいさん」の物語も語られます。
 
 作中の語り手が物語を語る時点は、「大きな古時計」が、「いまはもう 動かない」、おじいさんの死後の時点。
 
 「大きな古時計」の物語に含まれた「ストーリー(話)」の起点、ストーリーのもっとも旧い時点は、時計が買われてきた、「おじいさんの 生まれた朝」、であり、もっとも新しい時点は、この物語が語られている作中の「今」、古時計が「いまはもう 動かない」、「いま」です。
 
 具体的に、「いま」が死の直後であるかどうかは不明瞭な語りではある
んですけど。
 
 語りの時点が曖昧化されている事が、おじいさんの死に際して想起された回想・追想が、さらにその後、折りにふれ回想・追想されている・かのような効果を生んでいます。
 
 この反復され重層される、回想・追想の効果を他方で支えてるのが、繰り返される「いまはもう 動かない その時計  百年 やすまずに  チク タク チク タク おじいさんといっしょに チク タク チク タク  いまはもう 動かない  その時計」の語りですね。
 
 何度も繰り返される「チク タク チク タク」はゆうまでもなく擬音語ですけど、安定した時計の刻みを意味する、と同時に、語り手の「大きな古時計」への信頼感とでも言えるような情動を読み取れます。
 さらに、「いまはもう 動かない その時計  百年 やすまずに  チク タク チク タク おじいさんといっしょに チク タク チク タク  いまはもう 動かない  その時計」が反復されることで、その前後で語られる時間的には飛び飛びの過去の情景は、ただの記憶の飛躍ではなく、「おじいさんの時計」をきっかけにした回想の連想、である・かのような効果も、もたらされているわけです。
 
 語りは、「大きな古時計」は、「百年 やすまずに  チク タク チク タク」動き、「おじいさんといっしょに チク タク チク タク」動き、そして「いまはもう 動かない」と告げます。
 
 「大きな時計」がおじいさんといっしょに動いた時間が百年間だったのか、それとも、時計が買われてきてから動いていた時間が百年間で、おじいさんは時計が動かなくなった、ある程度前の時点で死去したのか。その辺、明瞭に語られていないのは、そこはこの物語の重要なポイントで無いからでもあるでしょう。
 
 おじいさんは実際に百年生き、そして死んだのかもしれませんし。また、おじいさんへの敬愛の念が、語り手に「百年」と語らせたのかもしれません。どちらにしろ「おじいさんの時計」は「いまはもう 動かない」。
 
 「いまはもう 動かない」「大きな古時計」が、「いま」どこにどのようにしてあるのかも実は語られてはいません。
 ただ、「やすまずに  チク タク チク タク」と動いていた時計のイメージが、繰り返し回想・追想される・かのように語られます。
 
 「大きなのっぽの古時計」を「おじいさん“の”時計」、と語る語りは、単に「『古時計』がおじいさんの所有物とされていたこと」以上の意味が含まれています。
 古時計が「やすまずに  チク タク チク タク」と動いていた時間が、語り手にとって、「おじいさんのいた時間として『おじいさんといっしょに』回想・追想される」、とそのような回想・追想の在り方を指して、「大きなのっぽの古時計」は、「おじいさん“の”時計」と語られているのでしょう。
 そして、そのおじいさんのいた時間は、「チク タク チク タク」とゆう語りが想起させるような、安定感のある時間として回想・追想されることが、暗示されています。
 
 「大きな古時計」で語られる物語内容は、「『百年 やすまずに  チク タク チク タク』『おじいさんといっしょに』」動き、そして『いまはもう 動かない』、『おじいさん“の”時計』についての回想・追想が、おじいさんのいた時間への安定感を伴った回想・追想として、繰り返され重層されてゆく」そうした内容と言えます。
 
◎つけたし
 まー、試みにってことで、凡庸な批評だと思います。
 特に間違いは書いていないと思いますけど。あえて、あらたに書くほどの価値がある事とも思われません。面倒な分析とかしなくとも、軽い感想で書ける程度の事しか書けていない、との自覚はあります。
 
 とりあえず、ケース・スタディとして観ていただきたかった目的としては、次のような事です。
●「ストーリー読解(判断)」は人によって違うとゆうことはなく、作品テクストに即して、判断の妥当さを確かめられる。
●「物語内容読解(解釈)」は、妥当に判断された「ストーリー」を踏まえたうえで、受け手の観点によって、多様に異なり得る。
●しかし、読解行為の過程では、「ストーリー読解(判断)」と「物語内容(解釈)」は相互補完的な過程として進展する。
●作品テクストの妥当な判断に基づいた妥当な「物語内容読解(解釈)」複数の間では、作品テクストを介在させた異なる観点の対話が可能になる。←この件がアタシ的に再整理でうまく採り込みたい主内容です。ですので、先々のお楽しみって事で、よろしく。
 
追記:>美樹本さんへ
 こんにちは。はじめまして。
 追記で失礼します。
 えーっとレスですか?(笑)。すみません、少しお待ちくださいね。
 ちょっと、「『ストーリー(話)』と『物語内容』」の話題を整理しながら、品崎さんが出された話題に触れたいことがあるものですから。アタシ的には。もしかしたら、美樹本さんのお話にも近い線かも、とかは思っていますけど。
2000年01月29日:00時57分16秒
勉強になりますね…。 / 美樹本優輝【みきもとゆうき】
 みなさん、お初です。美樹本と申します。迷い込むような形で、ここの掲示板にたどり着きました。
 私自身は、空想戦記小説を書いていまして、主にコミケで出展しているという程度の者です。
 みなさんのご意見を、ざっと拝見させていただきまして、「これからの小説がどう変わるか」というような内容を見つけましたので、私も論議に参加させていただけると幸いです。
 私は、軍記物の大家たる荒巻先生や、銀河英雄伝説などで著名な田中芳樹先生のような、文章的にも表現的にも、あるいは詩的にも優れた文章など、とうてい書けない人間です。
 そこで、というわけじゃないんですが、キャラクター重視、設定重視で文語(ここでいう文語とは文章語といういみです)よりも口語体で、会話文を多めにして…と、まあ一種、最近はやりのファンタジー物のようなノリで書いてみたところ、ねらっていた年齢層よりもずっと低い、中学生や高校生、しかも女性の方が買って行かれるんですね…。
 つまり、鍼原さんがおっしゃっていたように、想像の隙を与えず、こちらが「ヴィジュアル的な部分」を提供しているからに他ならないんですね。やっと得心がいきました。
 しかしそうなると「戦記」でありながら、当の読者さんの方は「戦略・戦術の巧緻さ」よりも「キャラクターへの親しみやすさ」みたいなものを主に求めてくるようになるわけで、私も、できるだけそれに応えるようにしていますと、いまひとつ、どっちつかず、というか、そのあたりの「ジャン分け」が中途半端になってしまっている気がします。
 鍼原さんのお言葉を拝借すれば、私の作品はジャンルが曖昧なので「営業的演出」に困るんでしょうね。そのあたりで「コミケ止まり」ということを自覚させられてしまいます…。
 と、こんなところです。
 鍼原さん、レスいただけると幸いです♪
 では、またちょくちょく見に参りますので、よろしくお願いします。
 
2000年01月28日:11時28分52秒
[「ストーリー(話)」と「物語内容」]整理の為の覚え書き / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 アタシが、「創作論 LOG 002」に投稿しました、「先行予見と読解行為」 (創作論 LOG 002,カンナ記,2000年01月14日:09時35分23秒) 、についてですが。できたらもう少しつめた方がよいように思えてきました。
 
 「先行予見と読解行為」の内容自体は、アレはアレでよいように思っていますが。
 鐘辺 完さんのお問い合わせにお応えしました、「[『ストーリー』と『物語内容』]『おじいさんの古時計』の歌詞の場合」 (当掲示板,カンナ記,2000年01月24日:00時44分20秒)で、書きました事は、内容はともかく、書き方がいささか曖昧だったと思われます。
 また、「先行予見と読解行為」と「『おじいさんの古時計』の歌詞の場合」の内容を併せ観ると、ちょっとおちつきが悪いですね。
#鐘辺 完さんとのコミュニケーションでは通じてる手応えを感じているので、その限りではかまわないと言えば、構わないと思うのですが。
 
 アタシ的には、少し時間をかけて考えを整理してみたいなー、と思っています。
 
 とりあえず、次のようなことは言えると思います。
 
 まず、「ストーリー読解(判断)」と、「物語内容読解(解釈)」とは、ある物語作品が読解されるとき、実態としては相互依存の過程を経て発見されます。
 読解行為の過程では、実は「ストーリー読解(判断)」が共同主観的だ、とゆう事も言い難い(なぜなら、「ストーリー読解(判断)」は、共同主観的ではない「物語内容読解(解釈)」にも依存して進む過程ですから)。
 
 ただし、ある物語作品の読解行為が一段落した段階では、判断された複数のストーリー読解(判断)の妥当性は、物語の作品テクストに即して共同主観的に判断し得ます。
 例えば小説なら、ニホン語ならニホン語とゆうラング(自然言語)で書かれていますので、読み手のラングへの習熟度に応じて、ストーリー読解(判断)にも差が出て来ますが。
 ラングの読解においては、「妥当な読解/不適当な読解」はあってもそれは、「正解/不正解」とゆう関係ではありません。これは、「客観的」な判断ではなく、共同主観的な判断と言われるべきです。
 
 「物語内容読解(解釈)」に関しては、妥当な「ストーリー読解(判断)」を踏まえたうえでも、受け手(読者)の観点に応じて、読解内容は多様であり得ます。
 しかし、作品テクストが充分になりたっている限りにおいては、多様な読解は、ある作品構造が写像変換されたヴァリアントとみなし得ますが。
 
 ただしこれは、「物語内容読解(解釈)」が妥当に為されている場合のことで。作品テクストの構成を無視した曲解や、「ストーリー読解(判断)」も不適当な誤読が、作品構造のヴァリアントとみなす事はできません。
 さらに、無数にあり得る妥当な「「物語内容読解(解釈)」に関しても、作中の事件に注目したもの、作中の人物に注目したもの、etc、それぞれに、より優れた読解(解釈)と、あまり意味の無い読解(解釈)の差は生じます。
 
 物語内容読解(解釈)において、唯一正解の解釈、とゆうものは原理的に考えられませんが、これは、「どのような解釈も同等である」とゆう事態は意味しません。
 
 覚え書き的に整理してみるなら、、、
 ストーリーは、「書かれたことから判断されること」+「書かれてないことだけど、書かれたことから妥当に判断されること」。ストーリー読解(判断)においては、読解が、受け手(読者)もよって人それぞれとゆう事は無い。共同主観的判断。
 
 物語内容は、語り口、プロット、作品構成、ストーリー、あらゆるレベルで、「書かれたことの含みが解釈されるもの」なので、これは受け手(読者)の観点によって多様であらざるを得ない。
 
 比ユ的に言うならば、「物語内容」とは「作品テクスト」とゆう想像上のレンズを通して観られるであり、ストーリーとは、「作品テクスト」とゆう想像上のレンズの外形である、とイメージされてもよいでしょう。
 これは、「物語内容」が観点によって多様な“像”が結ばれるものであり、何か唯一正解の“像”があるわけではないこと、同時に、あらゆる“像”(≒解釈)が同等なわけでもない事の比ユです。
2000年01月25日:23時40分10秒
「大きな古時計」歌詞勘違い / 鐘辺完
 ゴールドさんの指摘(01月25日:11時43分45秒 「おじいさんの古時計」)のとおり、おじいさんは思いっきり「天国へ昇」ってますねぇ。
 私のチェックが甘かったですね。反省してます。
 けどこの勘違いがないと、私の言いたかったことが伝えにくかったですから、ケガの功名ってことで勘弁してください。
2000年01月25日:19時56分26秒
【大きな古時計】歌詞 / ENT
ENT(エント)と申します。
創作小説とは直接関係有りませんが、話題に登りました『大きな古時計』は私も大好きな歌なのでご紹介します。
WEBで見つけた大きな古時計の歌詞です(Yahooで発見しました)。

お爺さんが最後に死ぬことばかりクローズアップされる作品ですが、1番2番3番を通じたこの歌詞は、人生全ての事象を歌い上げた素晴らしいものです。(原詩が知りたいですね)

以上参考になれば幸いです。


2000年01月25日:18時00分21秒
これからのヤングノヴェルについての話 / 品崎
 どうもです。品崎です。レス遅れてすみません。また吟味していました。
 ええと、いきなり違う話題になっているように見えますが、ちゃんと順番があります(笑)。
 
 まずこれからの低年齢層を対象にした小説の話をしてましたね。
 (はい。これはヤング・ノヴェルとかも言われる、ティーンズ向けの物語商品(≒小説)に ついての話でした。すみません、誤解されるような表現を使ってしまって)
 なるほど、そうですね。
 なんか自分の書きコミこそ吟味してから書くべきだったです。
 要約すると僕は単純な構成の小説ってのが衰退するんじゃないかって話をしてたんですが、
 確かにいつの時代でも“掃いて捨てられるような作品”ってのはありますよね。
 マアなんか複雑な気分です(笑)。
 僕も決して読み捨てられる作品ってのが好きなわけではないのですけど。
 
 それから、鐘辺 完さんがおっしゃったような、手法ってのも面白いですね。
 ♪文字だけ、文章だけの印刷された本でも、現在の小説本よりは読みやすいとっつきやすい ものをつくる余地があるはずです
 ──とのことですが、僕もそう思います。
 確かに文章だけで全てを“見せる”ことにロマンを感じたりもしますけど。それはそれとい うことで。
 新しい取り組みってのもいいものです。
 インターネットで実験できるんじゃないかな(笑)。
 オンライン小説っていろいろできてなかなか深いですよ。
 少なくとも、印刷されたものを読ませる従来のスタイルとは違った文体を要求されると思い ませんか?
 
 あと、余談ですが、鍼原さんの投稿である、
 「余談]「ストーリー(話)」と「物語内容」について 」についての話です。
 アア、すみませんでした(泣)。
 そうです。比喩的な意味で「数値的」という言葉を使いました。
 読後に再検証するときに0か1かハッキリ区別のつくものということで(笑)
 僕は自分が小説を書くときに、このへんに少しコダワって書くので、
 今度その手のお話もしたいです。(わりと最近忙しくて。ホントに)
2000年01月25日:11時43分45秒
「おじいさんの古時計」 / ゴールド
確か、「天国へ昇るおじいさん、時計ともお別れ」
というフレーズがあったような気がしたのですが・・・
こちらには初めての書き込みとなります。(しかも直接は関係ない話題ですいません)
それでは、失礼します。
2000年01月25日:00時34分22秒
RE:[「ストーリー」と「物語内容」]「おじいさんの古時計」の歌詞]以下略。 / 鐘辺 完
>鍼原神無さん
 こんばんわ、どうも解説ありがとうございます。
 文章に書かれていないことで、読者がそう思うことを逆手に取るような作品というのは、一部のミステリーなんかで使われています。
 そういう手法は、絵(というより英語のPictureの方がぴったりくる、広義の「画像」)を使わない、いや、音声も判別(声で性別や年齢がある程度推測できる)できないようにできる小説にしか使えないもので、これは小説というメディアにだけ許された手法ですね。
 私にゃ、うまく扱えませんが。
2000年01月24日:00時44分20秒
[「ストーリー」と「物語内容」]「おじいさんの古時計」の歌詞の場合(Re:書かれてないけどわかること) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>鐘辺 完さん
 こんにちは。はじめまして。
 「おじいさんの古時計」。寂しいことに歌詞がきちんと思い出せないのですが(gooで検索してみましたけど見つけられませんでした)。
 
 ですので、後で、訂正するかもしれませんけれど。一応、「おじいさんの古時計」で語られる物語には、「おじいさんが死んだ」って「ストーリー(話)」が含まれていると思います。はい、歌詞の「文章論理から推測・判断が可能なこと」と思っています。
 
 詩や歌詞の場合、読解行為の在り方は、小説のそれより論理性に束縛されないものが多いはず、と思うのですが。
 
 「おじいさんの古時計」ですと、「作中の語り手(←コレは必ずしも作者とイコールではない、とします)が次げる、おじいさんの古時計の大きさや、安定した刻みと、その語り口から感知される安心感・信頼感」とか、そうしたものを含んだ、作中の語り手の追憶の念、とかが「物語内容」に含まれる、と。とりあえず、そのように理解していただければ、と思います。
2000年01月23日:23時57分06秒
書かれてないけどわかること[Re:[余談]「ストーリー(話)」と「物語内容」について] / 鐘辺 完
 「おじいさんの古時計」という有名な歌がありますね。
 あれって、おじいさんが死んだというのは一言もなく おじいさんが死んだって歌ですね。
 鍼原さんのおっしゃる
>書かれていないことで、書かれていることの文章論理から推測・判断が可能なこと
 というのはこういうのも含むと考えてよろしいでしょうか?
2000年01月23日:20時08分06秒
[余談]「ストーリー(話)」と「物語内容」について / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 ちょっと余談になる投稿です。
@品崎さんWrote (「低年齢者層向けの小説はこれからどう変わっていくか」,当掲示板,2000年01月21日:23時36分10秒)
>読解行為についてよく分かりました。大変分かりやすいです。
>つまり(小説に限っていうと)「ストーリー」は“書かれてあること”だから、数値的なものですけど、
>「物語内容」は読者が受け取ったものだから、差異が出るわけですよね。
 
 えーと、引用個所後の品崎さんの論旨には関わらない事柄なのですが。
 「『ストーリー』は“書かれてあること”だから、数値的なもの」、実はアタシは、少しだけ違った考えでいます。
 
 ただ、アタシの元投稿「先行予見と読解行為」 (創作論 LOG 002,カンナ記,2000年01月14日:09時35分23秒) 、ではその辺あまり詳しく触れていません。
 それに、品崎さんが言われる「数値的」を比ユ的表現と解せば、そんなにもんだいが生じるわけではありません。
 コトに品崎さんの投稿の論旨には大勢影響が無いことなので、この投稿はクレームの類ではありません。
 
 ちょっと自意識過剰かもしれませんけど。意図してないニュアンスについてコメントしておかないと、将来行き違いが生じるかもしれないと思うので、少しだけ触れておきたいと思います。
 
 例えば、モデル化された典型的推理小説で、アリバイのような要素、様々な作中人物が、物語内時間である時刻にどこにいて、どこにはいられなかったか、こうした事象は数値的な事柄と言えます。
 
 ただ「ストーリー(話)」が数値的なものだけで表現しきれるか、とゆうと、そうとも限らない。
 「ストーリー(話)」は、数値的なものを含んだ文章論理的なものではあると思います。
 ある種の幻想小説なども、論理の体系にリアリズムのそれとは違いがある、とみなせばよいと思います。“幻想”の質によっては左記の説明、いささか苦しくなることもあると思われますけど、さしあたりはこう言っておいて構わないと思います。
 ストーリー性を破壊しようと企てる前衛小説の類は、コレは破壊しようとされているのですから、意図的に、ある程度以上のストーリー読解が不可能なように仕組まれてるわけで。この類については、この立場から考慮しても仕方ない。
 
 総合すると、「ストーリー(話)」とは、「『作品テクストに書かれていること』、と、『書かれていないことで、書かれていることの文章論理から推測・判断が可能なこと(及び決定不可能である、と明瞭に判断できること)』の総体」で、それは「数値的なものも含んだ共同主観的なもの」ってゆうのが、アタシの考えではあります。
 
 で、「物語内容」は、この「ストーリー(話)」に、受け手の解釈が加味されたもの、なんですけど。ここで言われる「解釈」は「文脈依存的解釈」だったり、象徴の解釈や、連想や、ダブルミーニングなどを含んだものですので、必ずしも文章論理に束縛されないものも「解釈」に含まれ得ます。
 
 けれど、この話をはじめると、たいへん長くなってしまいますので、今は、「アタシ的にはそう思ってます」って表明だけで。
 この件は、またいずれ、なにかの機会があったらにしたいと思います。
2000年01月22日:20時10分10秒
ティーンズ向け物語商品・小説の動向予想(長文) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@品崎さんWrote(「低年齢者層向けの小説はこれからどう変わっていくか」,当掲示板,2000年01月21日:23時36分10秒)
>単純で分かりやすく、「ストーリー」と「物語内容」に大差ない、つまり、
>=小説内で起こった事件が全て文章として書かれていて、読者にあまり想像の隙を与えないもの
>……は、衰退していくのでしょうか?
 
 結論から言っちゃいますね。アタシの意見では、全体としては衰退はしないと思います。
 
 ただ、「全体としては」ってことわりをつけるのは、書店店頭での“ジャンル”、ってゆうか、題材は常にはやり・すたりで変動してくと思うからなんです。
#書店店頭での“ジャンル”って、セールスのための話題作りで演出されるような面もあるでしょう。必ずしも物語内容に即してるとは限らないことが目立つ気がします。
 
 「はやり・すたりで変動」って具体例で言えば、ライト・ファンタジーがすたれて、架空戦記や、耽美小説がはやって、そして次ぎは……、みたいな事です。
 
 えーと、言及した、「ライト・ファンタジー」、「架空戦記」、「耽美小説」それぞれに、「『ストーリーと物語内容』に解釈の楽しみが大きく介在する。繰り返し読むに耐える作品もあるゾ」ってゆーのはわかります。
 
 ただ、市場の原理からいって、ティーンズ向けの物語商品(小説)に限らず、繰り返し読まれるよりも、読み棄てられてゆき、はやり・すたりの目まぐるしさで、消費されてゆくのが大勢なのだと思います。
 
 アタシの意見・イメージとしては、市場の原理が変わらない限り、大勢としての消費される(読み棄てられる)商品市場の一部で、読み捨てでない作品性も兼ね備えた作品も商品として発表されてゆくのではないかと思うわけです。
#「一部」でって言っても品崎さんが挙げられてる作品のように、高度な内容で、かつタイムリイなら、いわゆる“カルト”な感じで脚光を浴びたり話題をさらったりしますけど。
#例えば、小説ではありませんけど、例の『新世紀 エヴァンゲリオン』なんて大変複雑な物語内容で、アタシとか未だに、「コレ」と言った解釈を見定められないでいます(笑)。あーゆーウケ方の作品・商品はこれからも出るでしょうね。
#でも、売り上げとか、商品点数とかでみると、一部の超弩級売り上げ作品より、その他アレコレの総計の方が常にでかい。その代わり、その他のアレコレはいつもはやり・すたりが激しいけど、みたいなイメージです「一部」って言ってるのは。
 
 コミックの市場を観るとわかり易いと思います。毎月刊行される新刊と比べて、豪華版とか愛蔵版とかの形態も刊行されるのは、やっぱり「一部」ですよね。
#ちょっと余談になりますけど、「マンガは小説に比べて読むのが楽」とゆう説は、アタシは根拠の薄い偏見だと思ってます。
#えーと、「コミックのジャンルの方が、ストーリーと物語内容の差違が少ない」作品が目立つ」とは言えるかな。でも、コレって統計なんかとりようの無い事象で、どこまでいっても印象論でしか論じられないとは思いますが。
 
#小説の物語読解と、映画や演劇の物語読解では、解釈の方法論が異なります。ただ、優れた作品の読解に「解釈」が必要なことは変わらない。
#同様に優れたマンガには、小説と違った解釈のチャンネルが必要なわけで。マンガの読解方法を意識してない人が「マンガは小説に比べて読むのが楽」と言うだけ、ってのがアタシの意見です。
 
#具体例を挙げると、浦沢直樹とゆう作家はとてもマンガのうまい人で。あの人の『マスター・キートン』とか、『モンスター』とかを読んでると、セリフやキャプションで説明的なものが書かれてない場合でも、あるキャラがドイツ系か、イタリア系か、スラブ系かetc、といったことが察せるように描かれています。
#他にもいろいろあるんですけど、例えば「マンガの読解・解釈」とゆう事を論じるなら、そうしたチャンネルが着目さればくてはならないでしょう。
 
 話を戻します。
 例えば、小説形態のものでも、戦後「社会派ミステリ」のブーム、って呼ばれるものがあったようですが(さすがのアタシも覚えていません:笑)、今も文庫本で読めるものは、極わずかでしょう。新書本でたくさん出た「トラベル・ミステリー」についても同じような事が言えます。
 アタシが大好きな「伝奇ロマン」(笑)についても同じで、ブームのときに書かれたもので、既に入手困難なものは少なくありません。これからもどんどん淘汰されてくと思います。
 まー「『ストーリー』と『物語内容』に大差ない」ティーンズ向けの物語商品についても、構造的には、それと同型の事態が待ってるのではないかしら、って思います。
 
 ただ、うえの予想には根本的な大前提がひとつあります。
 それは制度が疲弊しちゃってる出版業界や書籍市場のシステムが、再版制度の実質撤廃とか、そーゆー大変動を乗り切れるかどーか、とゆー、大問題(苦笑)。こればっかりは、考えてみても個人には予想がつきません。 大手出版社の研究部門とか、経済企画庁とか、そーゆーところでないと信頼性のある予想はたたないと思うので。この方面については、アタシとかが考えても仕方ないと思うんです。
#いささか景気の悪い話ですけど。実際景気は良く無いんだからしょーがないです(苦笑)。
 
>品崎さんへ 品崎さんが言われる、「低年齢層向けの小説」をヤング・ノヴェルとかも言われる、ティーンズ向けの物語商品(≒小説)って判断して書いてみました。さらに低年齢層向けのものって話しですと、また少し感じが違ってくるかもしれません。
 
追記:>to ALL
 品崎さんが、「ちょっと鍼原さんの前の記事を読んでいらっしゃらないと分かりづらい内容かと思いますが」と言及してくだすっているのは、「創作論 LOG 002」に投稿しましたアタシの投稿の事です(品崎さんもご紹介くだすっていますけど)。
 「先行予見と読解行為」 (創作論 LOG 002,カンナ記,2000年01月14日:09時35分23秒)
 よければ、お読みいただけると幸いです。
2000年01月22日:07時25分58秒
これからの小説の行く末(私見) [Re:低年齢者層向けの小説はこれからどう変わっていくかRe: / 鐘辺 完
 あまり、品崎さんへのレスになっていないかも知れませんが。
 活字離れと言われて久しいですが、小説は結局文字だけなのですから、読むときに文章、描写を頭の中で再構成する作業は漫画より手間がかかります。
 最近じゃ漫画も売れ行きが落ちてるそうですが。
 読者の労力を極力抑えた作品というのが、今後の小説の生き残る道なんじゃないかと考えています。
 つまり、例えば、CD−ROM出版にして、キャラの 名前のところをクリックすれば、キャラの顔やプロフィールが見られるとか、固有名詞の解説が読めるとか。
 あと、常識的に出版されている小説は文字の大きさや並びに変化がありません。
 漫画でいう「手塚治虫以前」なわけです。セリフの文字の大きさが違うなどは漫画では当たり前になっています。
(すでにヤングアダルト小説なんかには文字が大きいのを使っているのもありますが)
 そういうのを小説に応用できないかと私は考えています。
 ワープロというのは、いろいろな機能があります。そのうち純粋に小説の制作のために必要な機能はわずかです。 つまり、文字だけ、文章だけの印刷された本でも、現在の小説本よりは読みやすいとっつきやすいものをつくる余地があるはずです。
ただし、これは現在の文壇からみたらただの邪道です。
 もちろん私は邪道を背負っていきたいです。大仁田厚じゃないけれど。
2000年01月21日:23時36分10秒
低年齢者層向けの小説はこれからどう変わっていくか / 品崎
 ええと鍼原さんのお書きになった
 2000年01月14日:09時35分23秒の[先行予見と読解行為(長文) ]の感想です。
 あと僕はフィクション小説に限っての話をします。ご了承ください。

 なるほど、読解行為についてよく分かりました。大変分かりやすいです。
 つまり(小説に限っていうと)「ストーリー」は“書かれてあること”だから、数値的なものですけど、
 「物語内容」は読者が受け取ったものだから、差異が出るわけですよね。
 
 ♪「物語内容」は、受け手自身が再構成した「ストーリー(話)」に、さらに受け手が解釈を加味したもの。
 ……という鍼原さんの定義をふまえて先にいきます。

 それでふと???と思ったことなのですが、
 確か前に鍼原さんは「物語内容」が個々の読者によってバラエティに富んでいるものや、何回もの再読に耐えられるものが“良い作品”だとおっしゃられていたと思うのです。(違っていたらごめんなさい)
 僕も同感ではあるのですが、
 でも、それって万人がそうだと認めるような“相対的に”良い作品なのでしょうか?
 
 今って、なんか「物語内容」が個々の読者によって大きく異なる作品が脚光を浴びていますよね。
 (僕は京極夏彦の作品や“ブキー・ポップ”シリーズなんかはそうなんだろうと思うんですけど。あと結末をわざとぼかしたホラーものとかってそうですよね?)
 そういうのがウケるのって、僕は単に時代の流れだと思っていたんですよ。今までは。
 でも、自分で書いていても思うのですが、やっぱり低年齢層を対象にしようと思うと、どうしても読者の解釈が大きく個々で異なるような作品は書けないんですよね。
 
 「物語内容」が個々で大きく異なる作品 = より難解で複雑

 っていう図式があると僕は思うんですよ。だから“こんなん書いても誰も理解できないぞ”とか自分で思ってしまうわけです。
 どうなんでしょうか? でも、前述のように複雑なのにウケている作品があるということは、
 これからは小説も成熟の道をたどって、
 単純で分かりやすく、「ストーリー」と「物語内容」に大差ない、つまり、
 =小説内で起こった事件が全て文章として書かれていて、読者にあまり想像の隙を与えないもの
 ……は、衰退していくのでしょうか?
 
 みなさんはどう思いますか?
 低年齢者層向けの小説がどう変わっていくか? という話です(笑)。

 
 ちょっと鍼原さんの前の記事を読んでいらっしゃらないと分かりづらい内容かと思いますが、ご容赦ください。
 あと、400字詰め原稿用紙で250枚ってのは、ご存知かと思ったんですが、雑誌で募集している投稿での“長編”の最低枚数なんです。大抵ああいうのは枚数制限が250枚〜350枚なんですよね。
 だから僕は別に大したことないって言ったんです。京極夏彦の処女作品なんか700ページくらいありますすし(笑)。ああ、僕もあれくらいバリバリと書けるようになりたいです。
2000年01月20日:03時00分42秒
創作論 LOG 002 / sf
 創作論 LOG 002として1998年11月12日から2000年01月20日までのログを切り出しました。
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