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Date: Fri, 18 Feb 2000 01:03:49 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00427] [NOVEL] なまいき
To: すとらんげーじ <stlg_ml@cup.com>,        <bun@cre.ne.jp>
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 なまいき



「エンジンが才能で運転技術が努力の賜物だとしよう」
 淡いオレンジ色のキャンバスいっぱいに線が一本横に引かれる。
「原付でもいい。ポルシェでもいい。君は何かエンジンのついた乗り物に乗ったこと
はあるか? 運転したことがあればなおいいが」
 線の真中の上部に濃いオレンジ色の半円が描かれる。
「先生、俺高校二年すよ。運転なんてしたことないに決まってるじゃないですか。エ
ンジンがついた乗り物なんて今時目えつむってても知らないうちに乗ってますよ」
「黙って聞け。警察に突き出されたいか」
 『俺』と言った少年はこぶしを握り締めて目の前の教師を睨みつけた。
「質問したのはあんただろ…」
「ま、まあそうだが…」
 二人以外は誰もいない美術室の一角を夏の日の夕暮れの、乾いた風が通り抜けて行
く。
「ところで先生、何描いてるんすか?」
「アフリカだ」
 教師の手は洗練されたすばやい動きで淡いオレンジ色の世界に黄金の首長の動物を
描き出す。
「これが太陽で、これが地平線で、これが麒麟だ。麒麟というのはキリンと読む」
 教師はひとつひとつ指で指して生徒に説明した。
「何言ってるんすか先生…。そんなの見ればわかりますって。第一今俺たち会話して
るんすよ。読み方の説明なんていらないっす…」
 窓の外では現実の太陽が難儀そうに大地の下へとその姿を隠そうとしている。
 教室の中の空気が、教師がキャンバスに描き出したものと同じ色に染まり始める。
「そうか…。説明はいらないか。それは悪かったな。すまんことをした。いや本当に
すまんかった。…ところで、それじゃあそろそろ話を元に戻そうじゃないか。一応お
まえにも訊いておくが話を元に戻してもいいか? 絵の話からさっきのエンジンと運
転技術の話に…」
 教師はキリンの横に白と黒の縞縞模様の動物を描き始めながら言った。
「…いいよ、別に…」
 生徒は興味なさそうに言って教師が描くキャンバスの中の世界を見つめた。
 教師の細長い指の先で縞縞の動物はすぐに出来あがって、オレンジ色の光の中で新
たなる仲間の登場を待った。
「さっきおまえはエンジンのついた乗り物など目をつむっていても知らないうちに
乗っていると言ったな? それは確かだな?」
 教師と生徒の間を吹き抜けてゆく一陣の涼風。
 生徒は大げさに自らの手で自らの肩を抱いて震えながら言った。
「あー、なんか寒くなってきたね、先生…」
 教師は返事をしなかった。
 生徒は返事をしない教師の顔をしばし見つめてから言った。
「ところでさあ、先生…。俺、いつも思ってんだけど何で大人って自分の言いたいこ
とを言いたいことだけずばっと言うことが出来ないのかなあ? 校長も教頭も生徒指
導主任とやらも学年主任とやらも毎週毎週飽きもせずに朝礼んときに全校生徒の前に
立ってだらだらだらだらとなんかわけわかんないこと言ってるけどさあ、でもあいつ
らは本当にあんなこと言ってそれが俺たちに伝わるとでも思ってんのかなあ? 先
生ってのは子供にもの教える仕事してるんだからさあ、たぶん少しは普通より頭がい
いわけしょう? でも俺にはどう考えたってあいつらが利口だなんていうふうには思
えないんだよね。っていうかほとんどバカだよ。何にも現実が見えてないとしか思え
ない。あんたら人生最初からやり直したらって思っちゃうね。まじで…。ねえ、どう
なの? あんたは今俺のことを美術部の顧問として、俺のクラスの担任として、教師
としての権限をぞんぶんに使って今この時間に俺のことをこんなところに呼び出して
何か言いたいことがあるらしいんだけどさあ、それって本当に俺のためになると思っ
てやってることなの? あんたが言いたいことは本当におれの心に届くことが出来る
んだなんて信じて、こういうことやってるわけなの? ねえ、言ってみてよ。俺はエ
ンジンとか運転技術とか才能とか努力とかそういう話には興味がないんだよ。俺が興
味あんのは本当にあんたら大人は救いようがないくらいのバカなんじゃないだろう
かってことなのよ。ねえ、どうなの? こんな状態になっていてもあんたには何か俺
に対してしてやれることが残っているとでも言うの? さあさあ教えてよ。もうエン
ジンとかアフリカとかの話はどうでもいいからさ…」
 教室の中に舞い込んだ風は教師の眼差しの中にどのような光を見たであろうか。
 生徒はいくつかの椅子と机を吹き飛ばしてぶっ倒れた。
 静まり返った美術室の中に耳をつんざく轟音が溢れかえる。
 いつー、とつぶやきながら振りかえった生徒の鼻の下に一筋の赤い液体が流れ落ち
る。
 生徒がその血液の感触を自らの手で確かめようとした瞬間に教師は続けざまに十二
発のパンチと十三発の蹴りを生徒の顔と胴にそれぞれ順番に叩き込んだ。
 生徒は今度は言葉にならないうめき声を発して起き上がることすら出来なかった。
 今や、サルやライオンやカバやハイエナなど、たくさんの仲間たちを手に入れたア
フリカの動物たちが静かな眼差しで、倒れたままの生徒と、荒い息をしながら立ち尽
くす教師の姿を眺めていた。
 教師はおもむろに生徒に近づいて彼を助け起こして椅子に座らせた。
 生徒の顔がぐしゃにぐしゃに歪んでいる。
 教師は何事もなかったような静かな呼吸に戻って、自らもまた自分の席についた。
「黙って聞けと言ったはずだ。俺は今俺の全人生をかけておまえのエンジンを救おう
としている。それがすべてだ。だがおまえにはこれだけの言葉では何がなんだかわか
るまい。今のパンチとキックは世の中のほとんどのガキどもがそれをもらえずに腐っ
て汚い大人になって行く。それほどに貴重な財産だと思え。明日からはその傷が一日
でも長くそのわからずやな頭にムチを打ってくれることを祈りながら生きるがいい。
今から少し時間をやる。五分たつうちに人の話が聞ける状態に戻れ」
 教師は黙って再びアフリカの動物たちを描き始めた。
 生徒は教師の傍らでぼこぼこの顔を夕暮れの涼しい風に吹かれながらキャンバスの
中のアフリカの風景を眺めた。
 すぐに五分が経過して教師が言った。
「おまえは私が今キャンバスの中に何を描いているかわかるか?」
 一秒か二秒の間があってから生徒が言った。
「アフリカでしょ。あんたがさっき自分で言ったんだ」
 少しろれつの回らない声であったが、気力はしっかりと充実していた。
「ではもうひとつ訊くが、おまえにはこのアフリカの動物たちが今何を思って何を感
じながらこの太陽に照らされているかわかるか? これについては私はまだ一言も説
明をしていない」
 生徒は今度は十秒か二十秒くらいの間黙ってアフリカの風景を眺めてから言った。
「…あったかいね、今日も一日が終わったねってみんなでしゃべってるんだ。何も感
じてもいないし、何も思ってもいねえ。ただみんなでそうやってしゃべってるだけ
さ。アフリカの動物に何かを感じたり何かを思ったりする段階があるかっつうんだ。
そんなことするのは動物園の動物だけさ。だから大人はバカだっての」
 教室は今や教師が描いたキャンバスの中とまったく同じ色の世界の中に染まってい
た。
 教師はおもむろに生徒の頭に手を置いて言った。
「おまえのエンジンはでかすぎる。あちこちにぶつかってその特性を覚えないことに
はおまえはいつまでたってもそのエンジンの使い方を習得することが出来ないだろ
う。だがこれだけは覚えておけ。その貴重なエンジンを壊すようなぶつかり方だけは
するな。何をやってもいい。だがおまえはおまえの自分の意思でこの美術部に入った
のだということを忘れるな。卒業するまでこの美術部をやめることは私が許さん。警
察に捕まればもちろんおまえはもう美術部どころかこの学校にもいられなくなる。今
日のことは私一人の胸の中にしまっておいてやる。二度と同じことを繰り返すな。い
いな」
 生徒は黙って刺すようなきつい眼差しで教師の顔を見つめた。
 そして束の間のときが過ぎてから荒々しく自分の頭に置かれた教師の手を払いのけ
て立ち上がった。
「だから教師ってのは嫌いなんだ。なんでおまえの才能は惜しいから頼むから無茶は
するなって正直に頭を下げることができねえんだ? そういう、自分の気持ちをごま
かしてえらそうなものの言い方に変換するテクニックにはうんざりだぜ。俺は自分が
描きたいときに描く。描きたくないときには描かない。だから描きたくても描くこと
ができないような状態になるのはごめんだ。そんなことは言われなくたってわかって
ることだ。今日のはちょっと魔が差しただけだ…。次からはもう二度としねえ。気が
向いたらまたこの部活にも時々は顔を出すさ。それまでにあんたも変なテクニックは
捨てて自分に正直に生きられるようになっとくんだな。そうすりゃあそこにいる動物
たちだってちっとは活気づいて檻ん中から出ていっちまうことだって出来るかもしれ
ねえってもんだ。ま、せいぜいがんばんなよ。そいじゃあな」
 生徒はくるりと踵を返して美術室から出て行った。
 夕日のオレンジ色に変わって、夜の薄闇が教室の空気を覆い尽くそうとし始めてい
た。
「檻の中か…」
 教師は力なくつぶやいてゆっくりと右手に持っていた筆を置いて薄闇の中にたたず
んだ。
 翌日から生徒は休むことなく部活に出席して卒業するまで毎日毎日教師の傍らで目
を見張るように生き生きとした絵を描きつづけた。
 傍らの生徒が描く、胸を打つような躍動感にあふれる絵を見ながら、教師は日々
刻々と自らの中で静かなる変貌を遂げる熱い塊があることに気がついた。
 そして生徒が卒業する間際、胸の中の最後の熱い塊を、まったく新しい未知の価値
観に基づいた存在へと昇華し終えた教師は、そこで自分が新たなる才能を手に入れた
のだということを実感した。
 学校を去るとき生徒は教師に向かって一言だけ、ありがとうございましたと言って
右手を差し出した。
 教師は目の前の若き尊敬する芸術家に向かって、同じく一言だけ、こちらこそと
言って微笑んだ。
 二人は熱い握手を交わして、それぞれの才能を生かすためのさらなる人生へと出発
して行った。
 アフリカの動物たちは美しくオレンジ色に染まった世界の中でひっそりとまぶしく
瞳を交し合って、また新しい一日が始まったねとつぶやいた。

k




    

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