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Date: Fri, 11 Feb 2000 01:27:36 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00421] [NOVEL] 手帳
To: すとらんげーじ <stlg_ml@cup.com>,        <bun@cre.ne.jp>
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 手帳



 駅のホーム。
 背中合わせのベンチ。
 背後に三人の女子高校生。
「ねえ、美里おー、最近あれいじってるうー?」
「あれ? もちろんいじってるわよ。あれいじってるとすぐにぬるぬるした液が出て
きちゃってもう体中で救急車のサイレンの音がびんびん鳴っちゃうのよね。うへーっ
て感じ」
「あれって何よ、急に。美里も江里も。私にもわかるように話してよね」
「えー!? 幸子、あれいじったことないの、もしかして? まったく遅れてるわね
え。最近じゃあ中学生だっておしゃべりの代わりに授業中にあれいじって暇つぶして
るのよ」
「そうよ、あれあれ。世の中にはあれ以上にどろどろした自分の存在のこと忘れさせ
てくれるもんはないのよ。なんだったら私たちが幸子のあれいじってやろうか? 私
たち上手よねえ。なんてったって小学校二年生の時からもう毎日毎日あれいじって生
きてきたんだからねえー」
「やだもう、江里ったら言いすぎよ。私は少なくとも小学校三年生からよ。えへへへ
へー」

 あれってなんだろうか?

 俺はホームに滑り込んでくるいつもと違う列車を見ながら考えた。
「ええー、ただ今ー、三番ホームに到着いたしましたのはー…」
 駅員のアナウンスが無機質な声音で人々のざわめきの中心へと割り込んでくる。

 その子たちは、『みんなにはあれが見えないの? ねえ、あれが見えないの?』と
繰り返していたんだよ。始めのうちはね。

 おじさんにあの話を聞いたのはいつのことだったろうか。
 俺はまだ鈍く痛む左の頬を押さえて考え込んだ。
「最低だな。おまえとはもう二度と口をきかねえ。絶交だ」
 そんなにたいしたことをしたつもりではなかった。
 ただ偶然にもその手帳が真琴のバッグからこぼれ落ちていた。
 手にとって読んでいると面白いことがたくさん書いてあって、やがて俺のまわりに
は何人かの人間が集まってきて、次に気がついた時には俺は左の頬を押さえて倒れて
いた。
 幼い頃からの無二の親友…に…。
 まさかあのような冷たい眼差しを向けられる日が来ようとは…。
「本当はちゃんとした奴だと思っていたが…。どうやら俺の勘違いだったらしい」
 真琴は床に転がった手帳を拾って教室を出て行った。そしてその日は二度と学校に
戻らなかった。



 始めのうち学会では当然のごとくそれをただの精神病だと判定していたよ。
 なんで今ごろになって俺はこんな話を思い出すのだろうか。
 同じ症例が世界各地の異なった地方の異なった環境の人間から発見されるようにな
るまではね。
 頭の中にいつかのおじさんの声が響き渡る。
 患者はすべて女性。まだセックスの経験のない、ほとんどが十歳前後の女の子だ。
 彼女たちは皆一様に、視界に入るすべての人間がナイフやハンマーなどの武器を
持って常に休むことなく手当たり次第に回りの人間に攻撃を仕掛けてはどちらかが死
ぬまでその戦いを続けているのだと言い張る。
 あれは確か三年くらいまえ。正月に親戚一同が集まって宴会を開いた時のことだっ
た。
 東大だか西大だかいうところで人間の精神について研究をしている、えらい先生の
おじさんが教えてくれた。
 少女たちは人々が二通りの派閥に分かれて戦っているのだと主張するんだ。
 大きなボールを抱えてまっすぐにどこかを目指して歩いている人たちと…。
 何も持たずに身軽な格好でふらふらと当てもなくあたりをうろついている人たち
と…。
 そしていたるところで彼らは戦いを繰り広げている。



「なあ真琴。球技大会の練習なんてかったるくてやってられねえっての。隙を見て二
人で逃げようぜ。おまえも興味ねえだろ。くだらねえ青春ごっこの真似事なんてよ」
 掃除の時間にホウキの端で真琴のしりをつつく俺。
「ああ、別にいいけど…なんか俺ちょっと腹減ったな。帰りに茶店でも寄ってかねえ
か?」
「決まりだ。じゃあ、あとでな」
 俺たちは小さな頃からずっと二人で一緒に成長してきた。
 俺も真琴も何をやっても努力なしで軽々と人並みのラインを突破する。
 俺にとって真琴以外の奴なんてのはほとんど虫けら同然だ。
 一生懸命やればなんだってそこそこにうまくなるのはあたりまえのことだから…。



 おじさんは続けて説明した。
 彼女たちは口をそろえてこう言うんだ。
 何も持っていない人たちは皆一様に何も持っていないが、ボールを抱えている人た
ちは色も形も大きさも実に様々な種類のボールを抱えて歩いているのだと。
 俺は訊いた。
 だったらたぶんでかいボールを持っている奴ほど戦いに負ける可能性が高いんだろ
うね。だって動きにくいしさ。
 おじさんは楽しそうに指を振る。
 ちっちっちっ。
 真治くん、そこが彼女たちの話の面白いところなんだよ。
 ある程度までの大きさのボールを抱えて歩いている人たちは確かに弱いんだ。動き
が鈍いし、片手もふさがっているから、簡単に敵の一撃によって殺されてしまう。
 でもね、時々びっくりするような大きさのボールを抱えて一歩一歩ゆっくりと確実
に他の存在を圧倒しながら歩いている人たちがいると言うんだよ。そしてその人たち
はこっちが目を覆いたくなるくらいにひどい刺され方や惨い殴られ方をしたって決し
てそう簡単には死んでしまうことがないらしいんだ。
 彼女たちのうちの一人は確かそういう人たちのことを‘賢い虫けら’と呼んでいた
ね。
 賢い虫けら…
 真治くん、わかるかい? ‘賢い虫けら’ってどういう意味か?
 おじさんの目がきらりと光る。
 俺は正直な感想を述べた。
 わかんない…。でも、それよりさあ、まず始めに、その女の子たちって本当にただ
のパープリンなんじゃないんだろうねえ? 本当にさあ?
 おじさんはくすくすと笑って俺の目を見つめた。



 ありふれた倦怠感の漂う喫茶店。
「なあ、世の中なんてぜんぜんおもしれえことがねえもんだな、真琴よお」
 じゅおおおおー
 俺は言い終わってから一気にコカコーラの黒い液体をストローで吸いこんで体を震
わす。
「そうか? 俺にとっては世の中は面白いことばっかで困るくらいだ。球技大会、合
唱コンクール、定期テスト、実力テスト、受験、学校際、三者面談、毎日の昼休みの
あとの掃除。次から次へと目玉のイベントが目白押しなんで正直言って困るね、まっ
たく」
 今思えばあの時の真琴の目は本当に輝いていたような気がする。
「何言ってんの君? 今言ったの全部まじめにやってないじゃんよ。俺とまったくお
んなじでさ」
 あきれ返って右手の人差し指でテーブルの上をたたく俺。
「まあね。そう言われてみれば反論はできないんだけど…」
 真琴は楽しそうに笑う。



 大丈夫だよ、真治くん。彼女たちはパープリンなんかじゃない。一定期間家や病院
など人それぞれの場所に閉じこもったあとは皆一様に普通の女の子に戻ってもとの社
会の中に溶け込んでいくことがわかっているんだ。誰もがその、‘賢い虫けら’など
と呼ばれる圧倒的な存在にあるひとつの質問をしてからね。

 おいおい、教授さんよ、あんまりいいかげんな話をつくって真治のことをからかっ
てくれるんじゃないぜ。そいつはもとから少々頭の出来がよくないんだからよ。

 酔っ払った親父が離れたところから野次を飛ばしている。
 俺はうるさいよ、親父、今いいところなんだから黙っててくれと言って無視した。
 それで何なの? その質問て?
 勢い込んで尋ねる俺。
 はは、いいかい? それはこうだよ、真治くん。
 とても嬉しそうな顔をして答えるおじさん。

 あなたたちは何者なの? なぜみんながみんな、毎日毎日意味もなくお互いを殺し
合って過ごしているの?

 真治くん、君は彼女たちがいったいどのような眼差しでこの質問を放ったのか想像
できるかい?
 …
 私は思うんだ。それはもう美しく穢れのないきらきらと輝く瞳だったのではないか
とね。
 おじさんは本当に楽しそうに遠い目をしてこのセリフを言った。
 俺はこれだからえらい人っていうのは訳わかんないんだよなと思ったのを覚えてい
る。
 おじさんさあ、そんなこと俺には想像できないし、だいたい始めからどうでもいい
ことなんだけどさあ、でもそれで何て答えたんだい? そのどでかいボールを抱えた
おっさんたちはさ?
 ははっ、おっさんとは限らないよ。いろんな人たちだ。女性とか子供とかね。
 おじさんはそう言って少し笑ってから、わきに置いてあったコップからビールを一
口飲んだ。
 ひとしきりうまそうに唇をなめてからすぐに続けてしゃべり出す。
 まあ、聞いてくれ。とにかく彼らはこう答えたらしいんだ。

 ハエ、蚊に対しておまえは誰だと尋ねたところで気の利いた答えが返ってくるはず
もない。我々が殺し合っているのは、心臓を動かしているだけでは何も得ることの出
来ない存在が空気に溶けてなくなってしまわないためだ。相手に尋ねている暇があっ
たらまずは自分で手にとって確かめてみるほうが早い。

 どうです、真治くん?
 君はこの言葉から何かを学ぶことが出来ますか?

 こら、バカ真治! 教授さんはよう、おまえのことをどうしようもない虫けらだっ
て言ってんだ! わかってんのか、このタコが!

 親父がまた茶々をいれる。
 俺はおまえのほうがよっぽどタコだろうがこのくそ親父めと言い返してから黙り込
む。

 心臓を動かしているだけでは何も得ることの出来ない存在。
 相手に尋ねている暇があったら自分で手にとって確かめる。

 本当か?

 一瞬俺の体の中で何かがざわりと音を立てて動く。
 けれど、その気配も次の瞬間にはすぐに消えうせて俺はあたりを見まわす。

「できます。おじさん、俺はその言葉からとても大切なことを学びとることが出来ま
す。つまりその女たちは正真正銘ただのパープリンバカ女たちだったのです。危うく
騙されるところでした。まじで危なかったです」
 おじさんはひとしきりげらげらと笑ってから、立ち上がった。
 親父のほうを向いて、この腐れ外道が! 今そっちに行って酒を注いでやるから
待ってろよと言いながら歩き去って行く。
 俺は何か落ちつかない気分になりながら、目の前に置いてあった寿司の皿をつかん
で自分の部屋へと戻って行く。
 視界の隅で親父が、よく来た馬鹿教授、と唾を飛ばしながら、おじさんが手に持っ
たコップにビールを注ごうとはりきっていた。



 ふと気がつくと、あたりはもう完全にラッシュアワーの時間を過ぎていた。
 あれいじりの好きな女子高生たちももちろんすでに帰ったあとだ。
 人がまばらになった駅のホームを、単調なリズムで吐き出されるいくつかの白い息
が蹂躙してゆく。
 時刻は午後十一時ちょうど。
 俺は、あと三十分以内に、いつもの自分が使っているホームに戻らなければならな
い。最終電車に乗り遅れれば、当然のごとく家まで歩いて帰らねばならないことにな
る。

 うーーーーー
 あーーーー
 あーーーーー

 俺はひとつ大きく伸びをしてから立ち上がって、公衆電話のところまで歩いて行っ
た。
 受話器を取って、暗記している真琴の家の電話番号を押す。
 ぷるるるる…
 はい、もしもし。
 一発で真琴とわかる声。
 息を飲む、俺。

 ああ、俺、真治。今日は悪いことした。だから一応あやまっておこうと思ってさ。
ごめん。俺が悪かったよ。

 ぐだぐだ言うのは趣味じゃないので開口一番軽く流す。
 それで駄目なら別に絶交したっていい。

 ああ、あれね。実はあまり気にしてない。俺も殴ることはなかったかもしれないと
思って反省しているよ。明日からはまた何にもなかったことにして楽しくやろうぜ。
だいたい本当にたいしたことじゃなかったんだしな。へへっ。

 言葉の最後を流れた小さな吐息。
 一瞬の空白。

 ああ、そうだな。じゃあ、また明日な。

 ああ、じゃあな。

 俺はぶるぶると震える体を必死で押さえながら受話器を置いて踵を返した。
 そのまままっすぐに改札口に向かって進んでいく。
 駅を抜け出して我が家を目指して歩き出す。

 まったく世の中ってやつは…
 どうやらそう簡単には楽をして生きて行くことが出来ないように仕組まれているら
しい…。

 大通りに出たところでふと立ち止まると、少し離れたところに寝転んでいたホーム
レスのじじいに声をかけられた。
「兄ちゃん、どうしたんだい? 暗い顔しちゃってさ。女にでもふられたのかい?」
 無視して歩き出そうとしてなぜか突然気が変わる。

「女じゃねえよ。男だ。男にふられたんだよ。それも親友にな」

 この腐れ外道が! 今そっちに行って酒を注いでやるから待ってろよ

 いつかのおじさんの笑い声が、今度は確かに、確実に、間違えようのない嘲笑の
ニュアンスを含んで蘇ってくる。

 一人黙々と歩き出した俺の背中を、セックスの経験のない、幼いパープリン女たち
が見送って微笑んでいる。

 みんなにはあれが見えないの? ねえ、あれが見えないの?

 見えるさ…。
 だがそのかわりにとてつもなく大切なものを失っちまったかもしれないがな。

k




    

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