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Date: Mon, 7 Feb 2000 07:02:29 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00420] [NOVEL] 会話によって失ったもの、もしくは個人的な闇の効果
To: すとらんげーじ <stlg_ml@cup.com>,        <bun@cre.ne.jp>
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 会話によって失ったもの、もしくは個人的な闇の効果



 小学二年生のときにポチが死んだ。
 あれは確かまだ春の日差しがちょうどいいくらいの温度を保ってくれている時期
で、僕たちの家族は四人そろってドライブに行くためにいつもよりも早く起きてごそ
ごそと動き回っていた日曜日だった。
 出かける前に餌をやっておかなくちゃということで妹が外に出ていって冷たくなっ
ているポチを見つけた。
 ポチはまったく苦しんだ様子がなくて、まさに眠るようにして静かに横になって死
んでいた。僕は妹にそれを知らされて、びっくりして外に飛び出していったけれど、
いざポチの小屋の近くまで来るとどうしても足がすくんで走るスピードが落ちてし
まったことを覚えている。
「おい本当に動かないのか?」
 僕は走りながら妹に聞いたが、妹はそれには答えずに真剣な様子で僕の前を走って
行った。
 そして僕はポチの小屋の前に辿り着いて、実際にポチの頭をひと撫でして、もう彼
が二度と僕と一緒に散歩にいくことが出来ない状態になってしまったことを知った。
「悩んでいるんだね」
 それ以来僕は少しずつ言葉を発することを控えるようになっていき、両親が医者に
連れて行くことを決心した頃にはもう完全にしゃべるという行為を放棄していた。
 医者はいつも、悩んでいるんだね、とか、苦しいだろう、とか言って、何とかして
僕をしゃべらそうと努力していた。僕はその医者のことが嫌いではなかったけれど、
だからと言って、そこでその医者のために僕がしゃべったとしても、それは何の問題
の解決にもならないのだということを知っていた。僕はやがて、自分が言葉を発しな
いということから来るまわりの反応に対して、さらに自分の心の傷に追い討ちをかけ
るプレッシャーを感じるようになっていった。両親や妹や医者が本心から僕のことを
心配してくれていることはわかっていたけれど、でもだからと言ってそれがなんの役
に立つんだろうと思っていた。 彼らがどんなに僕のために何かをしたって、何かを
言ったって、惜しみなく愛情を与えてくれたって、結局は僕だっていつかは死ぬ。彼
らだっていつかは死ぬ。その間の過程の時間にどのような変化や感動があったところ
で、死んで冷たくなったポチはもう二度と何も言わない。僕は本当に強く心に誓っ
て、自分の中にあるかつては常に飛び跳ねていたものを絶対に二度と外に出さないよ
うにと気をつけて過ごしていた。両親はポチがいなくなってすぐに新しいポチに似た
犬を買ってくれたけれど僕はひそかにその犬のことを憎んでさえいた。飛び跳ねて外
に出ようとしているものたちが、何で俺たちは外に出られないんだ、あの犬のせい
か、あの犬が憎いからおまえは俺たちを外に出してくれないのかと、夜が来るたびに
僕の中から僕ではないものの声が聞こえてきた。
 そんな風にして刻一刻と致命的な自滅への道を辿っている頃に、僕はあるとき桂木
紗枝という女の子に出会った。桂木さんは近所に住む僕と同じ小学六年生の女の子
だった。僕は以前から桂木さんのことを知ってはいたけれど、それまでは彼女のこと
を気にとめたことは一度としてなかった。僕がそのときに彼女の本質を見ることが出
来たのは、たぶん僕がその頃本当に深いところまで行っていてもう完全に目に映るも
のの影響を受けない領域にまで入り込んでいたからではないだろうかと思う。学校に
も通っていなかったし自分の部屋から出ることもほとんどなかった。毎日毎日部屋の
窓から外を眺めながら、母親が持ってきてくれた食べ物を食べて過ごす日々だった。
はじめのうちはゆっくりと移ろいで行く山の景色や空気の匂いを楽しんでいるのと同
じようにその桂木さんの登下校の様子を眺めているだけだった。夜になれば死んだポ
チの冷たい体や、僕がしゃべらなくなってからうまくいかなくなってきた家族の悪い
雰囲気などがいやでも体中の穴という穴から僕の中に入り込んでくるので、そのころ
僕が生きている理由はまさに、心臓が勝手に動くからというものと、季節の移ろいが
まだ僕の中に飛び跳ねていたものがあった頃のことを思い出させてくれるからという
二つの事柄だけだった。
 理屈から言えばぜんぜんたいしたことじゃない一匹の動物の死がなぜこんなにも一
人の人間やその人間を含む小さな集団の運命を変えてしまうものなのだろうかと考え
ながら僕は変わっていく山の景色を眺めていた。桂木紗枝が歩く姿を眺めていた。
 彼女の表情の少し奥にあるものの躍動感に気がついたのは、両親が与えてくれた何
匹目のポチの代わりの犬を殺したあとであっただろうか。僕はいつしか、迷うことな
くポチの代わりに対する憎しみを発散することを覚えて、さらに両親たちを僕の本質
から遠ざける行為を繰り返した。そのような行為は決してその頃の僕にとっては異常
なものではなかったし、罪悪感も抱かなかったけれど、だけど、桂木さんの無表情な
顔の奥に隠された躍動感を知ったときだけは、僕は間違いなく何匹かの犬たちの断末
魔の痙攣の感触を思い出して震えた。

 あれは悪いことなのだ。
 やってはいけないことだったのだ。

 桂木さんはいつも楽しそうに歩いていた。
 彼女は友達と一緒に学校に行くことはなかったし、帰ってくることもなかった。け
れど、その表情はその道を通る他の誰よりも楽しそうで嬉しそうで生きている躍動感
に満ちていた。
 これは何なんだろうと思って、いつしか僕は山の景色そっちのけで彼女の表情に見
入る毎日を送り始めた。そしてやがて僕は彼女のほうも窓から覗いている僕の存在に
気がついたことを知った。桂木さんは一度だけチラッと僕のほうを見た。そこには、
あれ、誰かに見られているような気がする、とか、なんだか落ち着かないわね、とか
いうような、あいまいな種類の動作に付属する不安定な要素はひとかけらもなかっ
た。彼女は一切の無駄な動作をなくして、ただ貫くように一瞬だけびしりと僕のほう
に視線を送った。
 『びしり』と。
 僕はその瞬間に自分の体に電気が走ったのを覚えている。僕はとっさに窓から離れ
て、桂木さんから見えないところに隠れたけれど、もちろんそのときにはすでに桂木
さんは僕のことなんて見てはいなかった。僕が再び窓の外に顔を出したときには桂木
さんはもう視界から消え去った後だった。僕は高鳴る心臓を押さえながら布団をか
ぶってごく個人的な闇の中で、明日を、僕の家の前を通る新しい桂木さんを待った。
 桂木さんはそれ以来二度と僕のほうに顔を向けることはなかったけれどその顔は確
かに僕に見られているのだということを知っているぞという顔をしていた。僕にはそ
のことがわかったし桂木さんも僕のほうを見なくても僕に見られているということを
感じることが出来ていたのだろうと思う。僕たちはそのようにして無言の、視線も交
わさないコミュニケーションを何ヶ月も続けた。
 そして僕がそのことを知ったのは中学生になって市内の特別な学校に入学すること
が決まったときのことだった。その学校は僕のように皆何かの問題を持った子供ばか
りが集まる学校でその問題は心の問題であったり体の問題であったり人によってそれ
ぞれまちまちであった。そして桂木さんの場合は目だった。僕はそこの入学式のとき
に桂木さんの姿を見て目が飛び出るほど驚いたのだが、桂木さんにはもはやこの世界
のいかなる風景をも永久にその瞳に映し出すことは不可能なのだということであっ
た。
 僕たちは偶然にも同じクラスになって、毎日自然な形で顔を合わせるようになった
けれど僕は一度として桂木さんに対して話しかけるということをしなかった。桂木さ
んも僕の存在を知ってか知らずか相変わらず孤独なしかし確かに楽しそうな穏やかな
表情で日々の学校生活を過ごしていた。
 あるとき、その頃には自分の意思で医者に通うほどに回復していた僕に向かってか
かり付けの担当医が言った。
「君自身はまだ気がついていないかもしれないが、実際には君はすでにとても強い人
間に成長している。だからもう何も怖がることはない。これから先もしも君が気をつ
けなければならないことがあるとしたら、それは常に挨拶をしていなければならない
ということだけだ。こんにちは、おはようございますだよ。ただそれだけをしっかり
しておけばいい。それ以外はどんなにわがままをやったって私はいいと思う。人間な
んて所詮は自分勝手な生き物だからね。これからは友人として会うことにしよう。も
う君はここに来なくちゃならないというわけではないんだ。来たいときに来て、来た
くないときは来なくていい。ぜんぶ君の自由だ。でもたまには来ておくれよ。私だっ
て時にはさびしいことがあるからね」
 医者はふふふと笑ったけれど、その笑いは本当にさびしそうであった。それ以来僕
は彼のところにとても頻繁に通うようになって両親とも妹とも円滑なコミュニケー
ションをとるようになった。学校での成績や生活にも何の問題もなく、平和な毎日が
過ぎていった。二年生になったときに桂木さんとは別のクラスになったけれど僕は
時々朝や夕方にひっそりと自分の部屋の窓から彼女が学校に登下校する姿を見送っ
た。その歩く速度やリズムは相変わらず楽しそうで彼女だけが知る喜びに満ち溢れて
いたけれどなぜかもう彼女が僕の存在に気がついている気配はなかった。彼女は一人
だけで歩いていた。それは決して悲壮感のある姿ではなかったけれど彼女はただ一人
だけだった。そして僕の存在に気がつかない彼女の姿を目にするようになってから僕
ははじめて本物の不安というものを知った。その頃にはすでに僕には再び家族がいた
し愛すべき新しい犬もいたし僕が殺したすべての犬への償いとして出来る限りその犬
を愛するようにもしていた。けれどなぜか僕は生まれて初めての、どうしようもない
不安感にさいなまれてその年を、中学二年生の一年間を過ごさなければならなかっ
た。
 そしていよいよ桂木さんとはじめて言葉を交わすことになった中学三年の春がやっ
てきた。僕は自分が彼女と再び同じクラスになったのだということを知ったとき、瞬
間的に、もうこれ以上彼女と話さないでいることは出来ないのだと悟った。僕は医者
に言われたようにまずは挨拶からはじめることに決めた。それまで医者の言いつけを
守ってしっかりと挨拶をしなかった唯一の相手である桂木さんに心を込めて毎日挨拶
をすることに決めた。朝教室で会ったときと夕方教室から出て行くとき、不自然でな
い状況であれば必ず僕は挨拶をした。いや、少しくらい不自然であってもがんばって
挨拶をした。それは僕にとってはとても勇気のいる行為であったけれど、同時に目の
前にある壁を打ち破って彼女の物静かな返事の挨拶を得られる喜びは何物にも勝る感
動であった。そしてその感動が徐々に、さらなる会話への欲求に高まっていったある
とき、思いがけず、桂木さんのほうからその糸口を与えてくれるチャンスが巡ってき
た。
 桂木さんはどう見ても見えているとしか思えない目を僕のほうに向けて言った。
「あなた、もしかして、いつもあの窓から山の景色を見ていた人?」
 僕は赤い夕日が差し込んだ教室の中で、ふっくらとした彼女の頬を眺めて息を呑ん
だ。
「あの頃は私もまだ少しは遠くのものが見えていたの。違うなら違うと言って。でも
今のほうが感覚はずっと鋭くなっているはずだから間違えはしないと思うんだけ
ど…」
 桂木さんは所在なげに左手で教室の出口のところにある机の角をさわっていた。僕
は長いこと何も言うことが出来ずに彼女と僕がいるところの間にある距離の問題につ
いて考えていた。今は赤い夕日が埋めてくれているこの距離が僕をかつてとは違う種
類の不安の中に追い込むんだと。そしてふと、このままでは夕日さえもが僕を置いて
どこかに行ってしまうかもしれないと思って僕は口を開いた。
「そうだよ。あそこからずっと景色と君の歩く姿を見ていた。君は僕に見られている
ことを知っていたの?」
 桂木さんはしばらくのあいだ黙って僕のおでこのあたりを見つめていた。見えてい
ないことは間違いないが、だからこそ自分には見えないものを見られているような気
分で不安だった。
「あなたは私を見ていたの? 違うでしょう? あなたは景色を見ていたんじゃない
かしら。私はあの道が特別に好きだったから、たぶんあそこの景色の一部になること
が出来ていたと思うの。今はもう私の個性というか人間性みたいなものがはっきりと
してきちゃったから、もう昔のようには景色の一部になることは出来ないと思うのだ
けれど…」
 桂木さんの目は少し潤んでいた。潤んだ瞳が教室の中の夕日の赤の最後のかけらを
映し出している。僕は自分の体の中から何かが勢いよく飛び出していくのを感じた。
ずっと押さえつけていて、いつしかそれ自体が死んでしまって動かなくなっていた何
かが再び自分の居場所を見つけて飛び出していくのを感じた。
「そう…。それで君はあんなにも楽しそうだったんだ。僕はずっと君が僕の視線を
知っているとばかり思っていたけれどそれは違ったんだね。僕もあの窓から見える景
色は大好きだよ。あの道も、あの道を通るいろんな人たちもね」
 人間には自分の意思で回復に向かおうとする力がしっかりと存在しているのかもし
れない。僕には僕の視線を感じてくれる誰かが必要であったし、彼女には…。
 桂木さんは毎日少しずつ視力を失っていく過程でどのようなことを考えたのであろ
うか。何を感じ、何を思ってあの道を穏やかな表情で歩いていたのであろうか。
「よかった。私と同じようにあの道を、あそこの景色を愛してくれる人がいてうれし
いわ。私は不幸にも目に映る風景の輝きを失ってしまったけれど、でもその代わりに
幸運にもいろんなものごとの感触を手に入れることが出来たの。人の気持ちの温度や
季節が移ろいで行くときのリズムや太陽の光が万物の闇の側面を取り除いていくとき
の音を手に入れたの。そういうものたちの存在を感じるのってとても切ないことだけ
ど、でも同時にとても楽しいことでもある。あなたには私と同じようにそういうもの
ごとを感じ取る能力があるんじゃないかしらって、あのときチラッと見ただけのあな
たのシルエットで思ったんだけど…これは私のほうの勘違いかしら? 勘違いなら勘
違いって言ってね。私が視力を失ってから、多くの人々は私に対して正直でなくなっ
てしまったから…」
 教室の中はもう赤くはなくて薄闇が息を潜めて僕たちの足元まで忍び寄ってきてい
た。僕は早くここを去らなければと思って何かいいセリフはないものかと考えていた
けれど適当な言葉はどうしても浮かんで来なくて、最後には力なく、わからないよと
だけ答えた。言った僕自身でさえそれはちょっとひどいだろうと思った言葉ではあっ
たけれどでも本当にそんなことは僕にはわからないことであったのだからしょうがな
かった。わかるのはただ彼女は間違いなく一人なのだろうということだけだった。僕
だって実際には一人ではあるが、僕の一人と彼女の一人の間には永遠の時間をかけ
たって埋まることがないような溝があるように感じられた。僕は、そう、あなたは正
直ねという彼女の言葉を聞いた。その頃には薄闇はもう完全に僕たちの体を包んでい
た。それは絶対の存在ではないけれど存在していることだけは確かだった。僕は暗く
なるからもう帰ろうと言って彼女と一緒に帰った。彼女が好きだと言った道を僕が好
きだった彼女と一緒に歩いているというのに僕はまったく楽しい気分にはなれなかっ
た。そして彼女の表情も楽しそうではなかったし穏やかでもなかった。僕も彼女もも
う普通の人になってしまったのだろうか。僕たちは今日会話をする前までは確かに
ちゃんと目には見えない何かでしっかりと二人一緒にこの何の変哲もない道と景色に
結び付けられていたのだろうか。あるいはこれはただ単にひとつの恋が終わったのだ
という合図なだけであるのだろうか。
 僕は精一杯の力を込めて別れの挨拶を交わしてから桂木紗枝さんと別れた。そして
そのまままっすぐに自分の部屋に帰って行って個人的な闇の中に逃げ込んだ。僕はそ
の闇が自分をどこにもつれて行ってはくれないことを知っていたし少しも救ってはく
れないことも知っていた。けれど、ただまた明日からあのさびしそうな医者が言った
言いつけを守っていろんな人に元気よく挨拶をするためだけに一時的にこの個人的な
暗闇が必要なのだと思って頭から布団をかぶった。
 その日の翌日以降は、僕はただのクラスメイトとして桂木紗枝さんと会うようにな
り、少しずつではあったけれど多少なりともは彼女の見えない目が見ているものの感
触をつかめるようになっていった。それは彼女が言ったように本当にとても切ない気
持ちになる行為ではあったけれど同時にまた他のいかなる経験からも得られないよう
な特別な震えを僕の心にもたらしてくれた。僕たちが中学を卒業して高校に進学する
頃には彼女の目はもう十センチ先のものでさえはっきりと捕らえることが出来なく
なっていて、彼女はもうすぐ盲導犬を飼うことになるのよと言っていた。それは一般
的に見ればとてもかわいそうなことのように思われるかもしれないけれど、そのとき
の僕の目からすれば彼女はまた彼女だけの新しい世界を手に入れて前に進んで行くん
だなとしか思われなかった。僕たちは薄闇と陽だまりに挟まれたような不安定な状態
のままで二人一緒に中学を卒業していった。彼女は目が見えない人が集まる専門の学
校に進学して、僕は近所の公立高校の普通科に進学した。
 それ以来彼女とは何度か手紙のやり取りをしているだけの関係になっているけれど
高校を卒業して大学の獣医学部に進学した今もまだ、僕の心の中には彼女のための場
所がとってある。その場所にはいつだって幻の彼女を失ったときに見た、教室にいる
僕たちの足元に忍び寄る薄暗い陰がこびりついていて、その陰が今でも自分の中にあ
ることによって僕はおそらくは常にいつかの穴倉の中での生活に舞い戻る危険性をは
らんでいるかのように思われる。けれど僕は決してその彼女のための場所を忘れ去ろ
うとは思わないし、その薄闇を追い払おうとも思わない。なぜならそれは僕の家にま
だポチがいたときにだって実際にはずっと僕のそばに寄り添って存在していたものな
んだし、仮にもしあの朝ポチが死ななかったとしたって薄闇は間違いなく他の場所で
僕か僕以外の誰かの腕を掴んで穴倉の中に引きずり込んでいたのだろうと思われるか
ら。僕はその存在をあえて否定しない勇気を持つことによって不安定な状態ながらも
今もまだあの医者の言いつけを守って、前を向いて生活を送ることが出来ている。獣
医学部の講座で動物の死体を解剖したりしているときなどには時々もう何もかもを捨
ててどこかに逃げていってしまいたいような気分になることもあるけれど、でもこれ
もすべてはいつか病気で死にかけている犬やその他の動物たちを救ってやるために必
要なことなのだと思って踏みとどまって生活している。

「おい、午後の実習、解剖だったよな」
「ああ、今日の獲物は飛び切り新鮮だって、さっき教授が言ってたぜ」
「まじか。今日って誰の担当だったっけ?」
 同じ科の仲間たちの噂話。
 過ぎて行く昼休みの時間と食堂の中を行き交う人々。
 チャイムが鳴り、人々が集い、準備が整う。
 僕の目の前に、まだ死んだばかりの犬の死体が運ばれてくる。

 後悔して済まされるような問題ではない。
 けれど僕にはああするしかなかった。

 だらりと垂れた舌。
 まだ固まっていないだろうと思われる四肢。
 僕はゆっくりと息を吸い込んでから右手に持った銀色の器具を閃かせる。
 引き裂かれた肉の間から滑らかなスピードでわずかに残った生命の残像が滲み出
る。

 もう何も言わない。
 血…。
 死…。

 視界に広がって行く赤。そして僕の中に広がっていく黒。
 けれど、いつしか黒はゆっくりとしたスピードで晴れていって、僕は限りなく落ち
着いた気分で、目の前にあるただの肉の塊を分解していく。
 もう語りかけてはくれないけれど確かに今も、彼らはここに、僕の心の中に存在し
ているのだから。

k



    

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