Index: [Article Count Order] [Thread]

Date: Mon, 24 Jan 2000 09:54:13 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00414] [NOVEL] 人は帰って来れるの
To: すとらんげーじ <stlg_ml@cup.com>,        <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <006301bf6607$045bea00$2fa999d2@k>
X-Mail-Count: 00414




 人は帰って来れるの



 桜咲く。
 季節。
 滅びの美を想うにはまだ早い。
 あなたの目には今何が映っているのですか?
 小さな公園に立つ一本の巨大な桜の木。
 いつからか人知れずそのごつごつとした巨木の肌に可憐な背をあずけてたたずむ少
女。
 去年一年間予備校に通う間、ほぼ毎日のように見てきたその白い肌の少女が実は僕
にしか見えない幻だったとは。
 はじめて彼女を見たのは雨が降る六月の日曜日だった。
 右手に傘、左の肩にリュックを背負って歩く僕の目の中に、少女は白く細かい雨に
けぶるシルエットとしてたたずんでいた。
 この雨の中でいったい何を?
 桜の木を見ているのです。
 僕の問いは発せられることなく、少女の声は雨に濡れる。
 君は桜の木に背を向けているじゃないか?
 まだその時が来ないから…
 僕は黙って公園の脇を通りすぎて予備校の自習室へと向かう。
 息を殺した気配が渦巻く教室。
 乾いた笑い声が響く廊下。
 自動販売機の前で交わされる会話は希望か絶望か。
 無気力か。
「よ、東大一直線!」
 帰り際に笑顔が似合う女の子に声をかけられる。
「がんばってるかい?」
 ほぼ同じ境遇で同じ環境。
 その瞳に迷いはなく、葛藤も見えない。
「自分ががんばってるのかどうかなんて自分じゃわかんないさ」
「あ、そう。じゃ、がんばってるのよ。また明日ね」
 ジャンプして友達の集団の中に戻って行く。
 また明日。
 何がある?
 今日と同じようにがんばってるかいと訊くのか?
 帰り道。少女はいなかった。雨が上がり、まだどんよりと曇っている空の下に一枚
の画用紙。
 濡れそぼって滲んでしまった濃い黒とグレーの色彩の中に一片のピンク色のつぶや
き。
 季節はもう夏になろうとしている。
 そのための雨。そして風。日差し。
 すべてがすべてを洗い流して新しい季節の到来を願う。
「よっ!東大一直線」
 アブラゼミの死体がごろごろと地面に転がっている。季節が来ても女の子のジャン
プ力は落ちない。
「がんばっているよ」
 リュックを背負いなおして言う。
「よろしい。私も負けないわよ」
 追い越してゆくミニスカートのすそが微かに揺れる。
 セミの声はいつしかリズミカルにつくつくぼーしを繰り返す。
 晴れた日の少女は手に一本の筆と一枚の画用紙を持って桜の巨木の根にたたずむ。
 背を向けて。
 目を閉じて。
 君は何を思う?
 私は私が何を望むのかを想う。
 けれど、想えば想うほどに実際にはそれは、そこにあるはずの姿から外れてゆく。
 見れば見るほどに見えない。
 だから背を向けるの?
 それはまだ見ようとして見ることができる時期ではないのだから。
 僕は揺れるミニスカートのすそを求めて予備校に通う。
 緑の木々たちはありったけの自己主張の武器を捨てて次に吹く冷たい風の到来に備
える。
 日に日に増してゆく。捻じ曲がった感情を包む空気の透明度。
 数字を追い求め、プレッシャーをかわそうとして研ぎ澄まされてゆくパーソナルス
ペース。
 僕たちは自分を他人と区別することに慣れ、そして、これまで以上にその区別を曖
昧にしてくれる人間の存在を求める。
 ジャンプをしなくならない人はいないの?
 君のその閉じた目はいったい何を見て桜色の息を吐くの?
 外れてゆくとしても。
 見失ってゆくとしても。
 想わないわけにはいかない。
 私はここにいる。ここから一歩でも動けばそれはもう私ではない。
 けれど。
 動かなければ私は私を見ることが出来ない。
 私を感じることが出来ない。
 私は私のところに帰って来ることができるかしら。
 またもとの場所に戻って来ることができるかしら。
 無作為の場所に無作為の色彩が塗りたくられてゆく画用紙。
 汝帰らんとする場所は何処に。
 セミの鳴き声とともにミニスカートの飛び跳ねる姿がいなくなった。
 僕に声をかけ、友達の集団の中へと消えてゆく春の日差しを求める視線。
 何も映さない。
 何も見つけない。
 これでいいの?
 これでいいのさ。
 僕は予備校に通っている。
 彼女は家に閉じこもっているのだろうか。
 わからない。
 冬の風が世界の万物の大きさを少しずつ縮める。
 僕たちの、外に向かおうとする心を押さえつける。
 けれど、それが完全に動きを止め、その質量を失ってしまうことはない。
 風が吹く日も。
 雨が降る日も。
 少女がその、桜の木への想いを忘れることはない。
 まだ春の日差しも遠い、新年を迎えた一週目の週末。
 僕は女の子の家を訪ねた。
「よっ! 東大一直線。どうした?」
 ミニスカートではなかったが僕の心は揺れた。
「最近見ないけどがんばってるかなと思って」
 そのとき一瞬だけ、女の子の眼差しも揺れたような気がしたのは僕の気のせいで
あっただろうか。
「がんばってるかどうかなんて自分じゃわかんないわ」
 いつか見たまっすぐな瞳が光を放つ。
「じゃ、がんばってるんだ。用はそれだけ。さいなら」
 背を向けた僕のまえを風が通りすぎる。
 春の匂いを微かに含んだ風が通りすぎる。
「ねえ、絶対一緒に受かろうね」
 背中にあたる声。
 風上でミニスカートのすそが揺れる。
 元気よく飛び跳ねる女の子の姿が思い浮かぶ。
 まだ冷たい風が吹く公園。
 白い肌をした少女。
 ねえ、戻って来れる?
 人は皆自分の場所に帰ってくることが出来るの?
 人々が…そう望むのならばね。
 ずれはずれを呼び。すれ違いはまたすれ違いを招く。
 けれど、決してそう望むことを止めないのであれば…。
 ずれはずれを消し、すれ違いは再会を約束する。
 私は、私の本当の姿を受け止めることができる。
 僕たちが二人一緒に志望校に合格し、なれないスーツに身を包んで待ち合わせをし
た朝。
 少女は満開の桜の木の下で、静かに筆を置いて僕の目を見つめた。
 描けたの?
 ええ…。やっと認めることができたの。
 何を?
 桜は散るのだということを。
 少女の声とともに公園の中を吹き過ぎてゆく風。
 舞い散る砂。
 舞い落ちる吐息。
 僕は彼女がもう生きてはいないのだということを直感した。
 桜の木の根元に落ちている画用紙。
 その世界に濃い闇の色彩はなく、希望を拒む太陽の影もなかった。
 青い空一面に舞い散る可憐な花びらと白い雲のコントラスト。
 少女が辿り着いた場所は何処か。
 傍らに近づく気配が訝しげな表情で僕の目を覗き込む。
「何見てんの? 神妙な顔つきで」
「絵だよ。さっきまで女の子がそこに座って描いてたんだ」
 僕は人指しゆびを向けて桜の巨木の根元を示す。
「絵なんてどこにもないわよ?」
 ぴょこぴょこと元気よく大木の近くまで行ってから女の子が言う。
「うん、そうかもしれない。全部僕の気のせいかもしれないんだ」
 僕はごめん悪かったよ変なことを言ってと言って歩き出す。
 女の子はあんたどっかに頭でもぶったんじゃないのと言いながら追いかけてくる。
 空は清々しく晴れあがっていて、新しい一歩を踏み出すのには最高の日だった。

                                     k


    

Goto (bun ML) HTML Log homepage