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Date: Mon, 24 Jan 2000 09:52:00 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00413] [NOVEL] 小石は小石
To: すとらんげーじ <stlg_ml@cup.com>,        <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <006201bf6607$025cbea0$2fa999d2@k>
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 小石は小石



 僕たちは車の中に座って鳥を見ていた。
 歩いている鳥ではない。飛んでいる鳥を。
 外は雨が降っていて車の天井にもその雨粒は不公平なく激しくぶつかっている。
 今日、たまたま仕事が休みで家でごろごろしていた僕は姉に息子のお守りを頼まれ
た。姉の息子は今小学校の五年生だ。右足が動かないので常に松葉杖をついて生活し
ている。小学校一年生のときに上級生とサッカーをやっていて怪我をして動かなく
なった。それ以来何度となく登校拒否をするようになって、今もその登校拒否の真っ
最中だ。
 僕は油でべとべとのポテトを手にとって口に運んでから、改めて姉の息子の横顔を
眺めた。名前を里と言うが、里君も同じようにハンバーガーのほうは脇においてフラ
イドポテトを食べるのに夢中になっている。
 僕は再び顔を横に向けて雨音に耳を傾けながら窓の外の風景を眺めた。車から降り
ればすぐに手が届くほどの近くに池があって、その池の向こうには緑の木々に包まれ
た山がある。池の右側にはコンクリートの柱に支えられた小学校のグラウンドの一部
が突き出している。池は大きめの池だ。僕は池と湖の違いについての正確な知識を知
らないが、その池は湖と言っても特に問題はないのではなかろうかと思えるほどに大
きな池であった。昔はよく、脇にある小学校の生徒が落ちて死んだ。
 僕はふと気まずい気分になって隣の里君の方に顔を向けた。
 うまい? と訊いてみる。
 里君は一瞬だけ僕のほうをちらりと見て、唐突に食べる相手をポテトからフィッ
シュバーガーに切り替えて言った。
 うまいよ。
 そう、よかったね。
 僕はもう一度窓の外の風景に視線を戻して鳥を見た。二十羽から三十羽ほどになる
と思われる白い鳥の群れがぐるぐるぐるぐると池の上と森の上の空を行ったり来たり
して飛んでいる。
 僕の仕事は、すぐそこに見える小学校の生徒を相手に、カウンセリングの真似事の
ようなものをすることだった。だからこの場所は仕事がある日は毎日通っているし、
しばしば出勤の前にこの場所に車を止めて、反対側の道路を歩いていく生徒たちや、
すぐ目の前に見える大きな池のことを眺めていることも珍しくなかった。
 けれど今日のように、あのような白い鳥たちがこんなにもたくさん池の上を飛んで
いるのは今だかつて見たことがない。
 正確に言えばたくさんどころか一羽たりとも、この場所で、この池の上で空を羽ば
たく鳥の姿を見たことがない。水面から空に向かって、見果てぬ夢を追いかけてジャ
ンプを試みる魚の姿も見たことがない。鼻を垂らした小学生たちが、魚釣り禁止の看
板を無視して熱心に釣り竿を握り、水面の浮きを凝視する姿も見たことがなかった。

 今日は雨が降っている。

 あの鳥たちは何を思ってあそことあそこを何度も何度も冷たい雨粒に打たれながら
行き来するのであろうか。
 僕は里君のほうを振りかえって尋ねた。
「ねえ、あの鳥たちはなんでああして雨の中を意味もなくあっちに行ったりこっちに
行ったりして飛んでいるんだろうね」
 里君は小さな手で、とても大きなコカコーラのカップを握り締めて、ごくごくとお
いしそうにのどを鳴らして飲んでいる最中であったけれど、僕の問いかけに対しては
すぐに反応して答えてくれた。
「そんなこと僕にはわかんないよ…。でも…、何でお兄ちゃんはあの鳥たちのやって
いることを意味のないことだなんていう風に思うの?」
 穢れのない、だからこそ限りなく傷つきやすそうな瞳がまっすぐに迷いなく僕の眼
差しを貫いていた。
 里君は僕のことを学校の外ではお兄ちゃんと呼ぶ。
 僕はカウンセリングに疲れて時々不用意にも『あいつら』の存在を自分の体内に侵
入させてしまったときなどには、無意識のうちに里君のこの、『お兄ちゃん』という
呼びかけを熱望していることがある。そして多くの場合、僕は実際に、里君によっ
て、『お兄ちゃん』と呼ばれてからはじめてやっと、自らのそのような、純真なる無
垢な呼びかけを求める心の動きに対して認識を得る。
 僕はそうだよね、意味がないなんて決めつけるのは鳥たちにとって見れば大きなお
世話かもしれないねと言ってから、もう一度雨の中の鳥たちを見た。
 豊かな水の連なりの上のいくつもの恵みの雨の水滴の中で、鳥たちは黙々と人知れ
ず意味のある羽ばたき繰り返す。同じ場所を行ったり来たりする行為を繰り返す。
 あの鳥たちにもあるいは、『あいつら』の存在を恐怖に思うだけの感性が備わって
いるのかもしれない。
 僕は前を向いて車のボンネットにあたる無数の雨音に耳を澄ませた。
 たくさんの水滴が次々とボンネットにぶち当たっては砕ける音に混じって、里君
の、ハンバーガーやフライドポテトを咀嚼する柔らかい肌触りの感触が車の中に満ち
ている。
 そして、それらの音はドラマのない堅実なナマの生活のリズムを伴って、僕の中に
溜まっていた『あいつら』の存在の匂いを追い払ってくれる。
 …
 …
 …
 僕は自分でも気がつかないうちに目を閉じて深くシートに沈みこんでいた。
 驚いたことに、少しの間、気を失っていたのだ。
 一瞬、この世の中の何もかもの存在が、僕との接点を忘れて、どこか他の、僕が見
たこともない世界へと旅立って行く感覚に襲われる。



「ねえ、お兄ちゃん大丈夫?」
 僕は里君の声を聞いて意識を取り戻した。
 雨の音が洪水のようにどっとまとまって、しばらく見失っていた僕の体の中に流れ
込んでくる。
 あ、ああ、大丈夫だよと言って、僕は、ずいぶんと重くなった自分の体を、シート
から起こしながらこめかみを押さえた。
「ねえ、お兄ちゃん、僕が今日この池を見たいって言ったのにはわけがあるんだ」
 里君は唐突にフライドポテトもハンバーガーも食べるのをやめて、手に持ったコカ
コーラのカップを脇に置いてから言った。
「実は明日からまた学校に行ってみようと思って」
 そのとき、まだはっきりとしない僕の意識の外で、里君の目が一瞬だけ、普段とは
違う輝きを放ったような気がした。
 けれど、僕は何も答えることが出来ずに、続けて話す里君の声に耳を傾けた。
「でもその前にどうしても誰かに言っておかなくちゃならないことがあると思っ
て…。だから、お兄ちゃん、お兄ちゃんにその話を聞いて欲しいと思ったんだ」
 小学校五年生の子供は限りなく冷めた眼差しで僕の顔を見つめていた。
 僕はしばらく黙って里君の顔を眺めてから、おもむろに、ああ、もちろん聞くよ、
と言って、微笑もうと努力してみた。
 けれど、里君は、僕の発したその答えがまるで当然の結果ででもあったかのような
顔で、すぐさまぱちりと一度だけ目を閉じて、瞬間的に改めて僕の顔に焦点を当てて
からしゃべり始めた。
 僕は車内に響き始めた里君の声を遠くの空で聞いた。
 はっきりしない意識の中で、ついさっき失敗した自らの微笑みの行き先について考
えたりしながら聞いた。

 お兄ちゃんはそこの池には何が眠っているか知ってる? 
 それか、誰も知らない深い海のことでもいいんだ。
 世界一深い、誰も見たことがない海…。
 まえにね、学校の友達がみんなで競ってそこの池の中にいろんな形の小石を投げ込
んでいて…
 それで、僕はそのとき思ったんだよ。
 僕はあの次々と投げ込まれて行くちっぽけな小石でしかないんじゃないだろうかっ
て。
 …
 学校のみんなや先生たちは毎日毎日やさしくしてくれる。
 近所のおばさんやおじさんたちだっていつでもいつでも、一人でゆっくりと歩いて
いる僕に声をかけて微笑んでくれる。
 …
 でも僕はそうやって何度どこかに投げてもらったって、何回肩をたたいてやさしい
言葉をかけてもらったって、結局はあの哀れな小石たちのように一度でも水の下にも
ぐりこんでしまったら、あとはもう黙って落ちて行くのを我慢するしかない。
 唇をかんで手が届く範囲のものを受け入れて行くしか方法がない。
 他のみんなのように自分の足を使って新しい世界にいくということができないん
だ。

 でもね…

 今日誰かに言わなくちゃいけないと思ったのはそうじゃなくて…
 今日誰かに言って、そして二度とそのことを忘れないようにしなくちゃいけないと
思ったのは…
 小石は落ちて行くことしか出来ないけど、でもすぐに海の水に溶けてなくなってし
まうのではない…
 そういうことなんだ…。
 だって、やっぱり小石は小石でしょ?
 海に落ちたからって海になることはないし、池に落ちたからって池の水になること
はないんだ。
 みんながどんなに僕のことを哀れんで僕のことをかわいそうだと思ったとしたって
そんなことは僕にとっては知ったことじゃないのさ。
 赤の他人がどれだけ僕のことを無責任にかわいそうだとかあわれだとか決めつけて
微笑んでみたって、実際には僕はぜんぜんかわいそうなんかじゃないし、あわれでも
ないんだ。
 明日から学校に行くよ。
 そしてもう二度と外に出ないなんて言わないと思う。みんなの無責任な優しい言葉
を怖がったりもしない。
 胸を張って堂々といろんな人たちのおせっかいをことわってやることにするさ。
 だって、小石には小石なりの考えってもんがあるし、鳥には鳥なりの羽ばたく理
由ってもんがあるんだ。
 …
 ねえ…
 お兄ちゃん…
 そうだよね? 
 いやなことははっきりといやだって言っちゃったっていいんだよね?

 里君はさっきまでとは違う眼差しで僕の顔を見つめていた。
 それは、僕がかつて、幾度もカウンセリングをする度に見てきた、あの、『あいつ
ら』の存在に怯える者たちの目ではなかった。その目は『あいつら』の存在を受け入
れて、同時に他者にとっての致命的な『あいつら』として機能することの出来る人間
の目だった。
 僕は、ああ、もちろんいいよ、これからはいろんなことを里君自身の意思によって
決定して、そして一歩一歩確実に前に進んで行けばいいんだよと言って微笑んだ。
 里君は少しだけ充血した目を瞬きさせながら、再びコカコーラのカップを手にとっ
てずるずるとなくなりかけの中身を吸い込みはじめた。
 僕はその無邪気な姿を目に残しながら、何気なく顔を横に向けて外を見る。
 そしていつの間にか雨が止んで、鳥たちはもうとっくの昔に遠い空の彼方へと去っ
ていってしまっていたことに気がついた。
 僕の体の中からはもう完全に『あいつら』の存在の匂いがなくなってはいたけれ
ど、でも僕はそれが、永遠の同じことの繰り返しの一部でしかないのだということを
知っていた。
 今までにも、何度となく経験してきた、最後の時を迎えるまでの不毛な磨耗の繰り
返しでしかないのだということを知っていた。

 しばらくたってから、僕たちは、もう帰ろうかと言って車のエンジンをかけて走り
始めた。
 里君は名残惜しそうにフライドポテトの袋の中に指を突っ込んでその最後のかけら
を口に運ぼうと努力していた。
 鳥たちはいったい何をしに、この雨の中を、あの池とあの森の上の空まで出かけて
きていたのだろうかと、一度は過ぎ去ったはずの思考が再び戻ってくる。
 僕は池の風景を目に映しながら、わずかに右手を動かして、手元にあるフロントガ
ラスのワイパーのスイッチを押した。

 微かな前触れもなく突然にワイパーが動いて、目の前のガラスに溜まっていた水滴
がきれいに除去されて車の左右に飛んでいく。

 そして、それを見た瞬間に、なぜか僕は確信した。

 おそらくもう二度と自分は、あの里君の、「お兄ちゃん」という呼びかけによって
癒されることがないのだ。

                                k


    

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