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Date: Mon, 3 Jan 2000 00:10:48 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00407] [NOVEL] 鹿と少年と獣
To: すとらんげーじ <stlg_ml@cup.com>,        <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <008f01bf5536$f9c69800$5da999d2@k>
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 鹿と少年と獣



 夜の時間に、一人の少年が自分の部屋に問いかけた。
「明るい時間に一歩でも家から外に出たとする。するとすぐさま、いろんな人が僕に
対して興味を示す。クラスメイトや先生や親や近所の人たちが…。僕はただ静かな生
活をしたいだけなのに…。なぜヒトはみなヒトに対して興味を示し、そしてそのこと
が相手を傷つけているのだということに気がつけないのだろうか?」
 少年の部屋に少年の問いかけに答えるものはいなかった。
 夜の時間の中には無責任な自己主張をする存在はいなかった。
 けれど、少年は夜が好きなわけではなかった。
「この世界には何もない。何もないっていうのは楽だね。でも僕はこの何もない空間
で決して一人ぼっちの問いかけをやめることがない。僕は本当は明るい時間の世界を
求めている。そうでなかったら問いかけなんてするはずがない。そうだよね」
 部屋の隅で一匹の太ったジャンガリアンハムスターが振り返る。
「ああ、そうだよ。君は明るい世界を求めてる。でも明るい世界には君が大嫌いな連
中がうようよいるんだ。わかってるんだろう?」
 ハムスターはえさ箱の中から一粒のひまわりの種を持ち出してかじり始めた。
「そう。夜の世界は僕だけの世界。でも明るい世界は僕だけの世界ではない。僕がそ
こへ行くためには、傷つけ傷つけられのめんどくさいごたごたを受け入れなきゃなら
ない。うれしくない付録だね。僕はそんなものはまったく求めてはいないのに。なの
に本当に欲しいものを手に入れるためには、どうしてもそういう汚らしい世界だって
受け入れなくちゃならない。なぜもっと静かなところに僕の欲しいものは置いてない
んだろう?」
 ハムスターはひまわりの種を食べ終えて寝床に帰って行った。
 少年の前に再び何もない空間が広がる。
 少年は目を閉じて自らの問いに対する答えを待った。
 閉じたまぶたの裏にまぶしい太陽の光が昇ってくる。
 太陽の光に照らされて、静寂の闇は追い払われ、代わりに、みずみずしい植物の芽
が現れる。
 そして、その緑の源は刻一刻と数を増やして、少年の世界を覆っていった。
 おいしそうだね、と誰かがつぶやく。
 本当だ、おいしそうだよ、と誰かが答える。
 小さなささやき声とともに、ウサギや鹿、リスやカンガルーなどの草食動物たちが
あらわれて、少年の世界の植物を食べ始める。
 おい、うまそうだな。
 ああ、うまそうだぜ。
 森の中に低い唸り声が響いて草食動物たちの動きが止まる。
 大地を蹴る力強い筋肉の躍動とともに何匹かの草食動物が、黒くて大きな獣に捕ま
る。
 首根っこに牙を立てられた一匹の鹿が美しい瞳で少年の顔を見つめた。
 少年は鹿の遠い眼差しに目を背けながらつぶやいた。
「かわいそうに。痛いだろうね。僕にはわかるよ。君は何もしていない。ただ静かに
草を食べていただけさ。でもね、そういう静かにしていようと思う存在に限って、ま
わりからとやかく言われる運命にあるんだよ。みんながみんな何とかしてそのおいし
そうな首根っこに牙を突きたてようとして狙ってるんだよ。実際に牙を突きたてられ
てみて君はいったいどんな気分だい? 憎いだろう? 悔しいだろう? 仕返しをし
てやりたいだろう? 僕にはそれが痛いほどよくわかるんだ。かわいそうにね」
 鹿は潤んだ目で少年を見つめながら、手足をばたつかせて最後の抵抗を試みた。
 獣が二、三度、牙を突き立てなおして、無力な草食動物の息の根を止める。
 草食動物はわずかに残った生命のともし火を使って少年に話しかけた。
「哀れな少年よ…。私はあと数秒で息絶える。けれど私はこれを理不尽な死とは思わ
ない。なぜなら私は生きていたのだから。生きるということは死に値する大罪であ
る。あなただって何かを殺したことがあるはず。あなただって誰かに迷惑をかけたこ
とがあるはず。あなただって存在することによって誰かを犠牲にしてしまっているは
ず。命というものはいるだけですでに他の命に対するプレッシャーとなりうる。まず
はそれを認めることだ。それを認めてなお、傲慢にも自分の欲するものを手に入れよ
うと、他人の命を蹴落とせばいい。その過程と苦しみの中にこそ、生きるという大罪
に対して救いを求めることが出来る最後の望みがあるのだから。この黒い獣の吐く息
はとても暖かい。私は今全身でこの暖かい吐息が私の命を奪っていくのを感じてい
る。この獣は生きている。そして私もついさっきまでは生きていた。言ってみれば私
たちはついさっきまで仲間だったというわけである。哀れな少年よ、早くあなたもこ
の獣の仲間におなりなさい」
 鹿は死んだ。
 獣は鹿を食べ終えて、舌なめずりをしながら去って行った。
 少年は顔を震わせて目を開いた。
 そこに柔らかい闇はなかった。
 少年は闇を求めて首を振った。
 けれど、もうそこには、どうあがいても、長いこと少年を包んでいた夜の世界は存
在していなかった。
 ただハムスターが一匹、静かな眠りをむさぼっているだけだった。





    

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