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Date: Mon, 3 Jan 2000 00:08:48 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00406] [NOVEL] 本当の恋の話
To: すとらんげーじ <stlg_ml@cup.com>,        <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <008e01bf5536$f79cb320$5da999d2@k>
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 本当の恋の話



 ひとつ訊くが、君は本当の恋というものをしたことがあるか?
 …
 私はある。
 前の会社にいたときのことだ。
 小さな部署をひとつ任されていた。
 その子はそこの雑用として配属されてきた。
 雑用だ。
 ブスというのはいったいどれくらいの醜い顔をした女性のことをさして言う言葉な
のか。
 君は知っているか?
 …
 まあいい。
 その子はブスだった。
 雑用は他にもたくさんいたが、その子ほどブスな雑用はいなかった。
 それくらいブスだった。
 だが、私は惹かれたんだ。
 好きになった。
 なぜだかわかるか?
 …
 その子は自分がブスであることを知っていたからだ。
 彼女は自分がブスであることを認めていた。
 私はあるときその子から書類を受け取った。
 私の視線はその子の顔を見ていた。
 醜いが不思議と嫌悪感のわかない顔だと思って見ていた。
 けれど、書類が私の手に収まった瞬間、私の視線は偶然にも、その子の胸元にたど
りついた。
 私はもう一度その子の顔を見た。
 かわいかった。
 その子はブスなんかじゃなかったんだ。
 わかるか?
 …
 世の中にはどうやってもにじみ出てしまう気品というものがある。
 それらのものはいつだって、その価値がわかる人間を待っている。
 私は選ばれたと思った。

 あるとき忘年会でその子が言った。
「私もその月見納豆を少しいただいてもよろしいでしょうか?」
 私は、自分の箸を使ってこれでもかと言うほどかき混ぜた月見納豆を見て言った。
「ああ、うん、私の箸でかき混ぜてしまってあるけれど…、それでもよければ」
 何秒くらい‘間’があったか?
 …
 たぶん、一秒か二秒だったと思う。
 いや、それ以下かもしれない。
 とにかく、そこにあった‘間’に気がついたのは私と彼女だけだっただろう。
 他のみんなはそれぞれがそれぞれに自分の話や相手の話に夢中だった。
「ええ、いいですよ」
 彼女は一見何事もなく無表情に答えた。
 けれど、間違いなく、心を込めて、「いいですよ」と言った。
 それからしばらくして、私は彼女と、二人きりで会うような関係になった。
 私たちはすぐに仲良くなった。
 私はデートのたびに彼女の胸元を見て、そして彼女の顔を見て幸せな気持ちになっ
た。

「じゃあ、どうして三ヶ月も続かずに別れちゃったのよ?」
 京子は面白くなさそうに言ってジョッキを傾けた。
「その女の子ってこのまえ言ってた前の彼女のことでしょう?」
 スリムな指に握られたジョッキの中で黄金の液体が頼りなく揺れる。

「そう。それは…私が彼女の美徳を自分のものにしようとしたからだ」
 彼女は自分がブスであることを認めていた。
 それ故に、彼女は、自分には美徳があるのだということを知っていた。
 おそらく彼女は、彼女の美徳を彼女のものにしたままで愛してくれる人を待ってい
たのだろう。
 あれは、ずっと、彼女の胸元と、彼女の顔の間に置いておかなければならなかっ
た。
 だが、私はそれを私の世界に持ってこようとした。
 彼女は驚くほど敏感にそれを察知した。
 すぐに、私に対しては、もう二度とその輝きを見せなくなってしまった。
 私は彼女に「何があったのか」と訊いた。
 彼女は私に、一言だけ、「ただのブスはいやだから」と言った。
 私には返す言葉がなかった。
 いったい何が間違っていたと言うのか。

「はっはっー、うざー」
 京子は豪快にジョッキをあおってから言った。
「何にも間違ってなんかないって、その女が値段つり上げただけじゃん!」
「おじさん足元みられたんだよ。あしもと。同情しちゃう」
 店の中は煙草の煙でくもっていた。
 私は枝豆をひとつつまんで食べた。
「あのさあ、おじさんは世間知らずなんだよ。なんで私みたいな超いけてる女が、お
じさんみたいな人のそばにくっついてると思うの? これって単なる偶然だとか思っ
てるんじゃないでしょうねえ?」
 京子は手についたビールのしずくを私のほうにはじいて言った。
「おじさんはねえ、簡単にだまされちゃうのよ。おじさんはずっとずっと何か自分を
救ってくれるような存在を探しながら生きてるでしょう? 女の子っていうのはね
え、そういう人には敏感に反応するもんなのよ。でもね、そこからが女の怖いところ
なの。そういう救いを求めるパワー、そのようなものが自分がいることによってなく
なったということを見極めたら、すぐにおさらばするのよ。相手の魅力を食い尽くし
てはその度にまた別の男のところに行っちゃうの。そのブス、たぶんけっこうやっか
いな種類の女よ」
 私はもう一度枝豆をひとつつまんでからビールを飲んだ。
 あれは美徳ではなかったのか?
 私がずっと捜し求めていた、決して他人の力に左右されることなく安定しつづけて
いるもの。
 世の中の誰が見ても醜いだろうと思われる顔の、わずか数センチの距離に存在して
いた輝ける希望。
「あのさ、おじさんが求めてるものなんてわかるわよ。だってそんなものはどんな女
でも持ってるものだもの。時には男だって持ってる奴がいるかもしれないわね」
 したべらを出して、口のまわりについたビールの泡をなめてから京子は続けた。
「ようするに、おじさんは自分のことかっこいいと思ってるでしょう。そりゃまあ、
自分のことをかっこいいとも思えないような男はだめだとは思うけど、でもね…。お
じさんには致命的なものが欠けているの。それがない限り、うんにゃ、それがある限
り、おじさんは永久に女の上には立てないわね。どんなブスにだってだまされちゃ
う。足元見られちゃう。値段つり上げられちゃう。で、だからこそ、私みたいないい
女がおじさんのそばにいるんだけどね」
 言い終わってから京子はがつがつとねぎ間を口に突っ込んだ。
 向かい合って座っている私たち。
 わずか数十センチの距離に、茶髪で、今風のファッションに身を包んだ、自分とは
違う世界の女が座っている。
 私はこの女に、いかなるものも求めたことがない。
 この女には、何ものをも求める価値がないと、私は思っている。
 女が男に振られたバーに偶然居合わせた。
 絡まれて、いっしょに酒を飲むことになった。
 以来続いている、単なる成り行きの関係に過ぎない。
 この女は尻軽だ。
 貞操というものを知らない。
 なのにこの平和な空気はいったい何なんだ?
 私と別れてからすぐに他の男と付き合い始めたあの子は今ごろどうしているだろう
か。
 誰か、私に、私がこの女のことを好きになってもいいのかどうか教えてくれ。

 目の前の異世界の住人が、うっとおしそうに私の顔を見る。
「あんた、たぶん世界で一番カッコ悪い男ね。私は方程式も微分積分もできないけれ
どそれくらいのことなら一瞬で理解できるの。でも、あんたは方程式も微分積分もで
きるけど、私が本当にいい女なんだってことは永久にわからないでしょう。世の中っ
てそういうものなのよね、結局」
 京子は、言い終わってから今度は豪快にさいころステーキを口の中に放り込んだ。
 店の中はいやになるくらい煙草の煙で空気が濁っていたが、客たちは誰一人として
そんなことを気にはしていないようであった。
 私はもう一度枝豆をひとつ食べて、それからビールを一口飲んだ。
 私は確かにカッコ悪い男かもしれない。
 君は確かに本当はよくできた女なのかもしれない。
 でもどうしても気になってしまう。
 あの時私はどうしていれば、彼女とうまくやっていくことができたのだろうか。
 仮に、あることをすれば彼女とうまくやっていけるとわかっていたとして、私は本
当にそれをやったのだろうか。
 私はふと、恋愛の究極の問題を垣間見たような気がした。
「もしもし、あんた今また、自分勝手な納得の世界に沈み込んでいたでしょう? 何
度言ったらわかるのよ? あんたの世界にはあんたのものしか置いてないの! 問題
はここにあるのよ。早く出てきて現状を把握しなさいってば!」
 私はさいころステーキをひとつ口の中に放り込みながら、京子の顔を見た。
 京子は頬杖をついて私の顔を見ていた。

 なるほどそういうことか。

 京子はここにいる。

 彼女もここにいたかったのではないだろうか。
 たぶんそうだ。
 やはり私は間違っていたのだ。
 このいまどき女め。
 嘘をつきやがって。
「わかった。現状を把握しよう」
 私は枝豆の皿とさいころステーキの皿を並べながら言った。
「私は枝豆を最低でもあとこれだけは食べたい。そのかわり君には残り全部のさいこ
ろステーキを譲ることにする。これで異論はないか?」
「ないわ」
 京子は即答してさいころステーキを口に入れた。
 私も枝豆を食べた。
 やっとビールがうまくなってきた。





    

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