Index: [Article Count Order] [Thread]

Date: Mon, 20 Dec 1999 22:12:19 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00395] 作品投稿です。
To: <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <000701bf4aeb$f0cd0040$19a999d2@fmv>
X-Mail-Count: 00395

こんばんは。Kです。
作品投稿です。
感想は望みません。
望む資格がないのはわかっています。
でも読んで欲しいです。
きるしぇさんに言われたことを意識して、自
分なりに、わかりやすく、面白くなるよう
に、努力して書いたつもりです。
客観視点は苦手です。
疲れました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 水道橋を造ろう


「くせものだー、出会え、出会え、出会
えー」
 闇の中に松明の炎と、兵士たちの叫び声が
行き交う。
「こ、国王、ご無事でござ…」
 王の寝室のドアを開けた兵士は息を飲んで
立ちすくんだ。
「下がっておれ。その辺におる大臣をつかま
えて騒ぎを静めさせろ。事はもう済んだ」
 こちらを振り向かずに言う王の向こう側
に、銃を持った男と、白い寝巻き姿の女性の
姿が垣間見える。
「王よ、妻は連れて帰らせていただきます。
この次があった場合には、恐れながら、王の
お命を頂くことに……」
 男は女を連れて疾風のように窓から飛び降
りて消えた。
「カルロス…。きさまが…守るべきものを持
ち、身動きが取れなくなる時までの猶予
だ…。覚えておれよ…」
 残された王の口から怨嗟のつぶやきが洩れ
る。
 開け放たれた窓の外から、松明が燃える匂
いと兵士たちの甲冑の音が流れこむ。

「いくつになった?」
 森の帝国の宮殿で、きらびやかな衣装に身
を包んだ国王が、深く深く椅子に腰掛けてつ
ぶやいた。
「今年で四つか五つの歳ではないかと」
 大臣の一人が、ぴしりと敬礼して答える。
「違う」
 敬礼した大臣の腹に、重く、低く、憎しみ
に満ちた国王の声が突き刺さる。
「ようやく三つだ。待ちくたびれた…」
 思い出しただけで、はらわたが煮え繰り返
る…
 王の口が醜く歪んで、怒りの表情を表す。
「カルロスだ…。いまいましき男、カルロス
・ウィルコード・ラングレーを呼べ」
「か…かしこまりました」
 走り去る大臣の額を一筋の透明な液体が流
れ落ちる。
 まだ、冬も始まったばかりの季節であっ
た。

「お呼びでございましょうか。カルロス・
ウィルコードでございます」
「よく来た」
 国王は重々しく頷いて、白い髭を揺らし
た。
「そなた……確か、建築家であったな…」
 豊かな顎鬚を脂肪のつき過ぎた手で弄ぶ。
「はっ…」
 カルロスと呼ばれた男は身じろぎひとつせ
ずに片膝をついて頭を下げている。
 国王の傍らのテーブルで、白いグラスに注
がれた透明な液体が揺れる。
「わしは、そなたが憎い」
 一国の主は楽しそうに言った。
「王の権力に屈せず、この国一美しい女を自
分の身ひとつの力で手に入れたそなたが憎
い」
「野山をうろつく一匹の獣のように、身のこ
なしもかるく国中を駆けまわっていたそなた
が憎かった」
「だが、あれからしばらくの時間が過ぎた。
そなたの美しい妻も今では一児の母…。娘の
方は、わしの記憶に間違いがなければ三
つ…。そなたももう、おそらくは、かつての
ような怖いもの知らずの男ではあるまい…。
違うか?」
 凍てついた風が、黙してたたずむ建築家の
心を駆け抜ける。
「チャンスをやろう。それなりの資金は出
す」
「水だ」
「この国には緑はあるが水がない。そこにあ
る犬の小便のような“水”ではないぞ。王宮
の裏にある、牛のよだれを寄せ集めたような
液体のことでもないぞ。人間が口にする、泥
臭い飲料水としての“水”のことではない。
国と国王の威厳を示すことの出来る、純粋で
絶対的な存在としての水だ。見る者の魂を圧
倒する、きらびやかで圧倒的な質量を誇る水
の連なりだ。そなたにそれを示すことが出来
なくともかまわんが、今回は、幼い子供故、
しぶいといおまえの両親のようにはいかんか
もしれんな」
 テーブルの上の液体が抱いた感情は、悲し
みであったろうか、憎しみであったろうか。
 白い髭の王は満足げに椅子の背に反り返っ
て、若者を見下ろした。
 若者は眉一筋動かさずに、石造のように固
まって足元をにらんでいた。
 取り囲む大臣たちの額を幾筋もの冷たい汗
が流れていく。
 やがて一人の痩せた大臣の体が不自然なリ
ズムを刻んで左右に揺れ動き始めた頃。カル
ロスと呼ばれた若者は、唐突に王の眉間を凝
視して、言った。
「庭園………でございます」
 言葉の終わりの片隅を、くちばしの曲がっ
た猛禽類の翼の影が、横切る。

「決して癇癪は起こさないでください」
 妻の顔が蘇る。
「おとーさーん! おーさまとなかいーの
?」
 娘の無邪気な言葉が胸に響く。

「水の流れをふんだんに取り入れた庭園で
す…。森の楽園を称するにふさわしい、庭全
体に輝く水が流れる庭園です」
 国王の呼吸はカルロスの瞳を見て停止し
た。
 カルロスの鼓動も、庭園を流れる、きらび
やかな水の共演に歓喜して停止した。
「やって見せい!」
 しばしの後、嘲笑を含んだ雄叫びが、歴史
の血が染みついた宮殿の、誰一人として足を
踏み入れたことのない部屋の隅々まで木霊す
る。
 カルロスの眼差しは限りなく冷めた透明な
色彩で、二センチと離れていない、目の前の
磨きぬかれた王宮の床の表面を貫く。

「おかえりなさい」
「おかえりー、おとーさーん、おーさまとあ
そんできてたのしかったー?」
 二人の天使の弾む声が、一人の孤独な建築
家の魂を揺さぶる。

 農夫はふと視線を彼方に向けながら、鈍い
輝きを放つ、ずっしりと手に馴染んだ斧の
切っ先を地面に向けた。
 肩を寄せ合う、濃い緑の木々たちの切れ目
から、天に向かってそびえ立つ、人口の岩石
の連なりが垣間見える。
「いったいぜんたいなんだって言うのかの
う、あれは?」
 年老いた農夫は、傍らの、同様に年老いた
妻に向かって、つぶやいた。
「あれはカルロスの魂の叫びですよ」
 妻は、腰を折った状態で、畑仕事の手を休
めることなく答えた。
「魂の叫び?」
 農夫の声とともに森の木の葉がざわめく。
「一国の王から、力ずくで妻を取り返した男
の、歓喜と自信の雄叫びですよ」
 老女は、言いながら、切れのある動作で、
てきぱきと、森の土に生命のかけらを蒔く作
業を続けた。
「ふう…」
 農夫は視線を、母なる大地の表面に落とし
て溜息をついた。
「持たざる者と、持つ者。両者が必ずしもあ
るべき力関係を持っているとは……限らんも
のだな」
 老人は束の間、右手の斧を置いて、額の汗
をぬぐった。
 妻が唐突に、畑仕事の手を止めて、自らの
夫の背中を振り返る。
「あなた、今、何とおっしゃったの?」
 クヌギの木から、小さなどんぐりの実が落
ちるようにして、老女の口からおもむろに、
偉大なる宇宙の神のつぶやきが流れ出る。
「あなた、今、何とおっしゃったの?」
「力関係なんて、現にああやって、あそこに
しっかりとした形で、私たちの目に映ってい
るじゃないですか」
「権力者に愛する者の身の危険を示唆され
て、権力者に自分の力で生きていることの美
しさを逆恨みされて、権力者に、自らの、守
るべきものがあることによる致命的な弱さを
指摘されて、たったそれだけのことで自らの
誇りを捨ててしまう…。たったそれだけのこ
とで、人の言いなりになって動いてしま
う…。人間はただ、そのような単純な理由だ
けで、あのような壮麗な建物を創れるもん
じゃないですよ」
「カルロスには確かに、自分の意思であれを
造ろうとするだけの理由があったのです。ど
んな代償を払ってでも、どれだけの時間を引
き裂いてでも、守らねばならないものがあっ
たのですよ。うしろ向きな感情だけであんな
ものを作り上げることが出来るほど、人間は
都合よく出来てはいないんじゃないですか」
 どんぐりはぶるりと体を震わせて、湿り気
を伴った豊かな森の、母なる大地の一角にた
たずんだ。
 老女は、静かに、顔を上げながら、泥にま
みれたしわくちゃの両手を腰に当てた。
 そして、その永遠に折れ曲がったままの、
年老いた、弱り切った小さな腰に重心を預け
て、長いこと、長いこと視線を上げて、カル
ロスの魂の叫びの建築物を眺めつづけた。
 老人は、しっとりと濡れて輝く瞳をわずか
に細めて、背後にいる妻の横顔を眺めた。
 くたびれて憔悴しきった老夫婦たちの間
を、静かに、穏やかに、幾ばくかの憂いを含
んだ色彩の風が吹き抜けていった。
「どうやら我々の息子は、わしらとは似ても
似つかんような、たいした一人前の男に成長
してしまったようだな。本来は喜ぶべきこと
であるはずなのに、どうしても一抹の寂しさ
がつきまとって仕方ないわ」
 農夫はおもむろに、手に持った銀色の斧を
振り上げて言った。
 太陽の光を受けた斧が、まぶしく輝いて、
老人と妻を照らす。
「いいえ、あなただって、カルロスに負けな
いくらいいい男です。あのいまいましい国王
によってすべてを奪われた今となったって、
決して一度だって、カルロスに対する不満の
声を洩らしたことがないではありませんか。
絶対に自分の身のの安全のために息子の生き
方を批判しようとはしなかったではありませ
んか。私はこれまでに一度だって、ほんの一
瞬だって、あなたと一緒になったことを後悔
したことはないのですよ」
 老女はかすかな微笑を残して、すぐに再
び、視線を落として、黙々と、生命のかけら
を蒔く作業を開始した。
「ほっほっ。その二人の男のせいで、おまえ
という女は街を追い出されることになってし
まったというのに……。一体全体どのような
いかれた頭をもってして、こげなだいそれた
状況を恨まずにおられるものか? まったく
不思議なものだ…。森の木々たちが、照れる
だろうがと言って笑っておるわ……」
 老人はひとしきり、まるで十代の若者のよ
うに力強く笑った。そして、それからすぐに
また、くぐもった打撃音を森中に響かせて、
とどまることなく斧を振りつづける作業を再
開した。
 老婆も、乾ききって、みすぼらしく縮んで
しまった唇の両端に、押さえきれない笑みの
断片をこびりつかせながら、黙って、ただひ
たすらに、生命のかけらを蒔く作業をしつづ
けた。

「一メートルで、一ミリの高低差だ。いい
な」
 奥深い森の帝国には、どこをどう探してみ
ても、水の流れを取り入れた庭園を造るほど
の水源は、存在していなかった。
 カルロスは、考えに考え抜いた挙句に、仕
方なく、二百キロ以上も離れた、遠い異世界
の湖の水を使うことに決めた。
 湖から王宮の入り口まで、延々と、気が遠
くなるような年月をかけて、水を運ぶための
水道橋を建設して、家族の命と自らのプライ
ドを守り抜くことに決めた。
 湖のほとりでくみ上げた水を、一メートル
ごとの、わずか一ミリの高低差によって流
し、庭園の入り口までとどまることなく永遠
に、澄んだ聖水のせせらぎの音を奏でさせる
ことに決めた。
 カルロスは来る日も来る日も、深い静かな
森の中に立って、部下たちに指示の声を張り
上げる日々を開始した。
 雨の日も、風の日も、部下たちが用事を
作って、作業に参加することが少なくなって
きた時も、カルロスは、自らの、偉大なる建
築家としての誇りを忘れようとはしなかっ
た。
 けれどカルロスの、揺るぎないひたむきな
思いとは裏腹に、国民と、作業に従事するも
のたちの感情は、次第次第に、これは王とカ
ルロスの間の、無意味な争いの結果の産物で
しかないのではないかと疑いの念を持ち始め
た。
 そして、いつしか人々は、自分たちの国王
が、ただのとんでもないおろかな嫉妬によっ
て、国民を、自分たちを、この無益な過重労
働の毎日に追い立てているのだと悟った。
 飲むための水は、もうすでに十分に存在し
てるんだ。
 宮殿だって、どこにあれ以上無意味な装飾
を貼り付ける必要があるんだ。
 カルロスは自分の妻を取り返しただけじゃ
ないか。
 国王は嫉妬に狂って我を忘れてる。
 だが、カルロスには悪いが、俺たちにはそ
もそものはじめから、この意味のない争いに
巻き込まれなくちゃならない理由はなかっ
た。
 たしかに、作ろうとしてるものは立派だ。
完成すればよりいっそう水不足の心配はなく
なるかもしれねえ。だが、あんなものを完成
させるには、どう考えても普通以上の犠牲が
必要になる。
 これは喧嘩だ。
 争いだ。
 争いが国に幸をもたらすとは思えねえ。
 カルロスには悪いが、明日から作業はなし
だ。
 それで国王の罰が下った場合には、それな
りの覚悟を決める。
 俺たちにだって生活があるんだ。それがわ
からない王は俺たちの王ではない。
 誰かこの結論に不満のある奴はいるか?
 やがてカルロスは、すべての部下たちに見
放されて、たった一人で作業を続けることを
余儀なくされるに至った。
 部下たちや国民は、口々に、王の反感を
買った男の、無謀なる戦いの結末をささやき
あった。
 多くの人々は、この国の、すでに十分な量
の水源の存在を認識しており、水道橋建設の
無意味さを理解していた。
 ほとんどの人々が、やがてはカルロスも、
自らの不毛な戦いの意味に気がついて…、孤
独な葛藤の結末の上に崩れ落ちて…、無残な
敗北の姿をさらすのだと信じていた。そう遠
くはない未来に、カルロスが、王に対して、
妻と娘の身柄を差し出す日が来るのだと信じ
ていた。
 けれど、それでもカルロスは、妻の心配げ
な表情に見送られて、娘の無邪気な声援の言
葉に後押しされて、水道橋と庭園を造る作業
を休まなかった。
 来る日も来る日も、ただ黙々と、ただ一人
きりで、人々の視線の只中で、水道橋用の、
岩石の加工切り出しの作業を続けた。

 ある日、雨が降る森の中を、カルロスがひ
とりで、水道橋用に切りぬいた岩石を荷車に
乗せて運んでいるとき…、かつて部下だった
男の顔がひとつ、道中で待ち伏せていて、通
りがかったカルロスに言葉を放った。
「…あ……あなたは…な…何のために…、こ
の勝ち目のない…、誰がどう考えても不毛だ
としか思えない戦いを続けるのですか?」
 つい数ヶ月前まではカルロスの部下であっ
た男の目は、かつてカルロスが、国王の前で
跪いて王宮の床の表面を見ていたときと同じ
輝きを放っていた。
 カルロスはしばし、荷車に雨があたる音に
耳を澄まし、木々の葉が雫を受ける音に耳を
澄まし、目の前にいる男が歯を食いしばる音
に耳を澄ました。
 どれくらいの時間がたったあとであった
か、カルロスはおもむろに、荷車を通り越し
て、男の前に歩み寄って言った。
「勝ち目のない戦いなど、この世界のどこを
探しても存在することはない。勝ち目がある
かどうかを決めるのは、戦っている者自身の
気持ちだけだ。私の目には、わたしが勝っ
て、王が跪いて懺悔をする姿しか映ってはい
ない。ましてや、そのすべての理屈を超え
て、私は今、ひとりの、ひとつの建物を建て
ようとする、ただのなんでもない建築家でし
かない。自らの家族を愛して、ひたすらに自
らが造ろうとするものを造り続ける、何の変
哲もないただの一人の建築家だ。建築家が、
自分が建てようと思った建物を、死ぬまであ
きらめずに建てようとするのは、この世界の
あらゆる生物が、生まれた瞬間からすぐに呼
吸を開始して、そしてその命が尽きる最後の
瞬間までその作業を続けようとするのと同じ
ことだ。そこには誰が勝つとか誰が負けると
かいった、低レベルな種類の葛藤の感情は一
切存在しない。あるのはただ、己を信じる、
己自身を強く生きようとする意思だけだ」
 カルロスはしばらくのあいだ呼吸を止め
て、低くなった雨の音に耳を傾けてたたずん
だ。
 天からの無数の雫は、徐々に徐々にその数
を減らしながら、カルロスの新たなる言葉を
待ちつづけた。
 カルロスの前に立ち尽くす男の耳に、男が
自分でも無意識のうちに期待していた言葉が
投げかけられたのは、それからどれくらいの
時がたってからであったろうか。
「ひとつ訊くが……おまえは何者だ? おま
えはなぜ、この雨の中を、おまえにとって勝
ち目がないと思われる、どう考えても不毛だ
としか思えない戦いをしつづける、ひとりの
哀れな男の前に立っているのだ?」
 男の膝はゆっくりとした動作で折れ曲がっ
て、その手と頭は限りなく母なる大地の表面
へと近づいていった。

 私は……何者?
 私は…なぜここにいる?
 目の前にいる男は、かつて自分自身の部下
であったこの私に対して、今確かにそう訊い
たのか?
 私は今確かに、このカルロスという男に
よって、そのような質問を受けることが出来
たのか?
 私は…何者だ?
 私は…なぜここにいる?
 私は…かつて建築がしたくてこのカルロス
という男の弟子になったのではなかったのか
?
 私は…かつて私の望んだ生き方を実践する
ためにこのカルロスという男のもとにたどり
着いた者ではなかったか?
 私は…何を思ってこの偉大なる男のもとを
去った?
 勝ち目のない戦い?
 どう考えても不毛だとしか思えない戦い?
 この男があの何もせずに座っているだけ
の、一度だって国民のために腰を上げたこと
などない、最低の、腐りきった権力者の象徴
のような存在に負けるだと?
 自らの誇りと家族のために、国中の笑い者
になりながら、たった一人でとてつもなく大
きな建造物を建てようとするこの男が、あの
いまいましい白い髭の手入れをすることしか
能のない存在によって、薄っぺらな一時の嫉
妬心の引き起こした意味のない戦いによっ
て、何も出来ないままに打ちのめされること
があり得るだと?
 私はこれまでこの男のもとでいったい何を
見て過ごしてきたんだ?
 私はこれまでいったい何を求めてこの男の
もとで働いてきたんだ?
 私はたった今、本当はいったい何を求め
て、この、かつて私の師匠だった男の前に
立っているのだ?
 私は今再びこの男のもとで…
 再び…
 再び、この男のもとで…
 ともに、とてつもなくでかい、とてつもな
く壮大な、若かりし日には毎日のように夢見
た、この世のものとは思えない神々しい建築
物を造りたいと思っているのではないのか…
 この男の部下として、思う存分羽を伸ばし
て働きたいと思っているのではないのか…
 私は、私自身のことを、今だ変わらずに、
この男の部下なのだと思っているのではない
のか…
 私は永遠に…
 私は永遠に、自分自身のことをこの偉大な
る男の同士なのだと思っていたいのではない
のか…
 永遠に、カルロス・ウィルコード・ラング
レーという名の、一人の才能ある建築家の右
腕なのだと信じていたいのではないのか…

 雨の音が声をひそめ、かわりに、カルロス
の前で低く低く頭を下げた男の言霊が、伝説
の詩の神ミューズの目覚めの歌声のように、
美しく、美しく、静まりかえった森の中に響
き始めた。
「私はあなたの部下です。これは本当は勝ち
目のない戦いなどではないのではないかと、
かすかな疑問を持ってあなたに会いに来た者
です。明日からは、おそらくは私と同じかす
かな疑問を持った幾人かの者たちが、何かを
期待してあなたのもとへと集まってくること
でしょう。私たちは、多くの者たちが、自分
たちが何者であるのかということを忘れてし
まったのです。私たちはあなたの部下です。
あなたの弟子です。あなたの才能に惚れて、
あなたとともに壮大な建築物を造りたいと
願った同士たちです。私は、今あらためて、
あなたが私に、本来最も大切であったはずの
ものごとを思い出させて下さったことに感謝
をします。私はこれからすぐに、私と同じ、
最も大切であるはずのものごとを見失った者
たちを呼びに行って、そしてまたすぐに、そ
の者たちを諭して連れて帰って来ます。どう
か私たちを再び、あなたの同士としてお雇い
下さい」
 男の頭や、肩や、背中や、手を、数限りな
く無数の、冷えきった、小さな霧状の粒子
が、覆い始めた。
「自分が何者であるのかを決めることは、他
ならぬ自分意外には出来ることではない。お
まえたちが、もしも、今もまだ私の同士であ
るのだと言いきるのなら、それはもはや私に
はどうあがいても変えようのない事実だ。今
すぐに、その雨に濡れた頭を上げて好きにす
ればいい。人が頭を下げて対面しなければな
らない相手など、本来はこの世界のどこを探
しても存在することなどないのだ。自分を信
じて、自分自身が誇りを持てる道を歩む。こ
の世に生まれてきた人間に対して、もしもい
くつかの、神が望んでいる事柄があったとし
ても、私には決してそれ以外には、何ひとつ
として思い浮かべることはできない。この
ちっぽけな、ひとかけらの石ころのように小
さな私という存在が望むものも、ただ単に、
私自身が信じた生き方を、私自身が強く信じ
て実践していきたい、たったそれだけの言葉
で言い表すことが出来る代物でしかない。人
生とはおそらくは、人々が思っているよう
な、かけがえのない意味が含まれているよう
な物体ではないのだ。今を生きることに集中
するということ以外には、この世にはどんな
大切なことも存在してはいないのだ」
 雨はいつのまにか止んで、雲の切れ目と、
木々の葉の切れ目の幾千もの隙間から、光り
輝く七色の日差しが舞い降りてきていた。
 男を覆いつつあった、冷えきった無数の細
かな霧状の粒子も、いつのまにか影も形もな
く消え去っていた。
 その日からカルロスとその同士たちは、絶
え間なく、庭園と水道橋を造ることによっ
て、彼らのささやかな人生の時間を浪費しつ
づける毎日を送っていった。
 そしてやがて、庭園がほぼ完成し、水道橋
は庭園の入り口まで、あと百二十数キロの道
のりを残すのみとなったころ、カルロスは、
その激闘に満ちた人生の幕を閉じて散った。
 部下たちは、皆一様に、尊敬する師の消滅
によって、うなだれて、視線を落として涙を
隠した。

「わしらよりも先に行ったか」
 森の一角にたたずむ、錆びれた、古ぼけた
小さな小屋の片隅で、ずんぐりした、輪郭の
はっきりしない一個の塊がつぶやいた。
「親不孝だけは…最後まで変わりませんでし
たね」
 もうひとつの闇の塊が、限りなくスローな
動きで、最初の塊に、白く濁った水の入った
茶碗を渡しながらつぶやいた。

「このあたりだって聞いたけど…。でもこん
な所に、人間って本当に住めるものなのかし
ら…」
 小屋から数メートル離れた空き地の、朗ら
かな春の日差しに包まれた大地の一角で、一
人の、軍手と作業着に身を包んだ少女がつぶ
やいた。
「あ、あれかしら。いや〜、しかし、きった
ない小屋ね。あ〜あ、お父さんも、一番大切
な仕事を残して行っちゃったんもんだわ」
 少女は、口を閉ざしてから、わずかに悲し
げな眼差しで、頭上にそびえる、まだ建設中
の水道橋の片端を眺めやった。
 そして、すぐにつかつかと小屋に向かって
歩き始め、ためらいなく入り口の戸を開け
て、中に向かって顔を突っ込んで叫んだ。
「こんちは〜。今は亡きカルロス・ウィル
コード君の娘さんの登場でーす。まだいたら
ない建築家ですが、一生懸命お父さんの仕事
のあとを継ぐことを、ここに宣言しに参りま
した〜。おじいちゃん、おばあちゃん、どう
かよろしくお願いしま〜す!」
 暗く湿った小屋の中に、限りなく明るく、
潤いのある若者の声が響き渡る。
 瞬間、老夫婦は、彼らの息子が決して親不
孝者などではなかったことを知った。
「でも、その前に、まずはこの、うなだれ
ちゃった小屋の方を直しといたほうがいいか
な。どう思う? おじいちゃん、おばあちゃ
ん、ねえ、どう思う?」
 少女は、あっけに取られる老夫婦の表情を
見て、困惑した。
 …あれ?……ちょっとインパクトのありす
ぎる登場だったかしら…。でも、まあいい
わ…。それくらいの方がこの人たちの生命力
も少しは蘇るかもしれないしね……。ってそ
りゃ無理かな…
 小屋はしばし行き場のない沈黙に覆われ
た。
 しかし、それは、間違いなく明るい未来を
示す沈黙であった。

「娘…」
 国王は、すでに視力を失った、白く濁っ
た、力のない眼差しを女に向けた。
「その方がカルロスの仕事を引き継ぐと申す
のか?」
 乾ききり、しぼみきった唇が発する言葉
は、誰が聞いても、理解するのに束の間の時
間を要するのではないかと思われた。
 けれど、娘は即座にうなずいて、次の世代
の新たなる若者の言葉をつむぎ出した。
「はっ。建築家としても、一人の人間として
もまだまだいたらないわたくしです。です
が、かつての、父の優秀なる部下の方々が、
まだ青臭い私へのサポートを約束して下さっ
ています。私には私の持てるすべての力を出
しきって父の遣り残したことを完成させる義
務があります。女としての、一人の人間とし
ての、私自身のささやかな人生は、それをや
り終えたときに、はじめてやっと、正しい形
でのスタートを切ることが出来るのだと信じ
ています」
 老夫婦の小屋を覆ったのとは異なる種類の
沈黙が、少女と王が対峙する、一見ただ静か
に、時を忘れたかのようにしてたたずむ壮麗
な宮殿を支配する。
「娘…。そなたは…、水道橋を完成させるこ
とがなければ、その方の人生が永遠に、決し
て、そなたが信じる何がしかの正しい形での
スタートとやらを切ることはない……。そな
たは…、今、わしに対して…、そなたは今わ
しに対して……そのようなことを、申したの
だな?」
 王の、くぐもった、力のない、意思のな
い、言葉に似ているだけの苦しげな呼吸音が
床に落ちる。
「その通りでございます。おそれながら申し
上げます。かつて王が洩らした、『水だ』と
いうただ一言のつぶやきによってすべてが始
まってしまったのです。王が洩らした、たっ
たひとつの私情を挟んだつぶやきによって、
この国の多くの人々の人生が狂ってしまった
のです。今やこの国の人々は、半分以上の人
間が、何がしかの形で水道橋を造るための人
員として使われております。それは人々が自
ら望んでしたことではありますが、王のつぶ
やきさえなければ、一人として自ら望んでし
たことではありません。王はカルロスという
ひとりの男へのささやかな嫉妬心によって、
ひとつの小さな、とてつもなく小さなつぶや
きを洩らしましたが、それは実はこの国を滅
ぼすことにもなりかねなかった、とてつもな
く大きな失言の一言であったのです。けれ
ど、その失言の一言は、カルロスという、一
人の、自らの才能を愛した男によってかき消
されました。人々は、今や、水道橋を造ると
いう仕事に対して自らの人生さえもを賭けた
戦いを挑んでいます。その発端を造ったカル
ロスという男の娘である私が、いったいどの
ような理由によって、水道橋を造るという仕
事から逃れられることが出来るでしょうか。
私は絶対に、あのいまいましい水道橋を完成
させなければならないのです。私から父を奪
い、私の家庭から暖かい微笑を奪い、私の人
生から、ゼロからのスタートを奪った水道橋
を、私は、私の持てる全生命力を注ぎ込んで
成仏させてやらなければならないのです。お
願いします。私をどうか、父の後任として、
正式な形によって、水道橋建設の最高責任者
に任命して下さい」
 長いこと、とてつもなく長いこと、王は、
その乾ききった唇を動かさなかった。
 時間は永遠に、無尽蔵に湧き出る人知れぬ
森の湧き水のように、次から次へと、使い捨
ての沈黙の断片を、縮みきった小さな老国王
のまわりに撒き散らしていった。
 娘の目は、かつてカルロスがそうしたのと
同じように、限りなく冷めた眼差しで、限り
なく透明な眼差しで、二センチと離れていな
い、足元にある、磨きぬかれた王宮の床の表
面を貫いていた。
 王は、なぜか一瞬だけ戻った、若かりし日
の視力の輝きによって、目の前に跪いた少女
に宿る、かつて国中でただ一人だけ自らの権
力に屈しなかった男の面影を垣間見た。
 そして、瞬間的に、致命的に、自らの、卑
しい感情の過ちの末路に恐怖した。
「娘…」
 王は、さらにしばらくのあいだ、すぐにか
すんでしまった、ぼやけた視界の中で、今は
亡きカルロスという名の男の姿を眺めやって
からつぶやいた。
「そなたを、水道橋建設の最高責任者に任命
しよう…。以後、全力を持って水道橋完成に
向けて…励むがよい…。わしは…これで…今
日限りをもって、王の立場を退く。この歳に
してはじめて、やっと、王とはどのような重
さを持って、存在すべき職務なのかというこ
とを…理解した。今さら…手遅れだというこ
とはわかっておるが、礼を…言おう、娘
よ…。わしの魂の暗闇を……浄化してくれた
ことに対して、感謝する…。カルロスよ、ど
うか、この神の祝福を受けた娘の存在に免じ
て、もうこれ以上私の枕もとに現れることを
止めてくれ…。どうか私の魂にも、永遠なる
安息の眠りを与えてくれ…」
 王は震える体を引きずって…、きらびやか
な衣装を、磨き抜かれた床の上に引きずっ
て…、深く、長い間腰掛けていた椅子の上か
ら立ち上がって歩き出した。
 幾人かの大臣たちがすばやく駆け寄って、
今にも倒れそうな、歳老いた元国王の体を支
えた。
 カルロスの娘はただひとり、「私こそ感謝
します」とつぶやいて、頭を上げて、立ち上
がって、歩き出した。

 さあ…これでやっと、スタートラインに向
けて走り出すことができるわ…。
 あっ…そう言えば、あのおじいさんとおば
あさんはまだ生きてるかしら…あとで寄って
から帰ろうかしらね♪

 少女の足は、力強く、一歩一歩、カルロス
・ウィルコード・ラングレーの水道橋建設工
事現場へと近づいていった。






    

Goto (bun ML) HTML Log homepage