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Date: Mon, 20 Dec 1999 01:23:33 +0900
From: きるしぇ <sakura_o@ma3.justnet.ne.jp>
Subject: [bun 00390] 創作論として
To: bun@cre.ne.jp
Message-Id: <385D068596.648FSAKURA_O@ma3.justnet.ne.jp>
In-Reply-To: <002901bf497f$5adefa60$58a999d2@fmv>
References: <002901bf497f$5adefa60$58a999d2@fmv>
X-Mail-Count: 00390

Kさんから言われたことで考えたこともあるので、Kさんのお名前
は出ておりますが、中傷誹謗の意味合いはないつもりでいます。
Kさんへのご返事というより、創作論一般として有効なのではない
か、と考え、出すことにしました。
かなり長いのですが、お読みくだされば幸いです。


1.小説はラブレターだ

小説なんて、不特定多数に宛てたラブレターみたいなものです。
丁寧に、読みやすく、いかに自分は相手のことを想っているか書か
なければならない。そう書いたとしても、「ごめんね、あなたは好
みじゃない」と振り向いてくれない人の方が多い。
でも、丁寧に、自分の想いをつづっていけば、好きになってくれる
人もいる。
振り向いてくれそうなターゲットを多くしたのが、大衆文学という
かエンターテイメント文学というかで、少なければ純文学というか
芸術というかになるのでしょうけれど、基本は同じだと思います。

Kさんの作品は、「人に認めさせよう」として書いている。
「人を愛そう」として書いていない。
Kさんの作品は「俺を好きになるべきだ! 俺が書く手間をかけて
出したんだから、俺を愛さないやつが悪いんだ!」って言っている。
これでは、誰も見向きもしません。

これは、媚びでも何でもないです。小説にとって、いちばん大切な
ことだと思います。なんかKさんは、それを「人目を気にしている」
とお受け止めになっているのかな、と思います。
わたしは、「常に読み手のことを考えて」書いています。
それは、否定的に言われることではないと思っています。

2.作者の「伝えたいこと」とはプレゼントである。

わたしは、自分の「伝えたいこと」は、ちゃんと盛り込んでいます。
ただ、生のまま目につくかたちで盛り込むほど幼稚でないだけで。
また「伝えたいこと」はひとつではありません。
また「伝えたいこと」を盛り込むのに「戦う」なんて喧嘩腰では、
盛り込めないとおもうのですが・・・。
(わたしの作品『晴れ間・・・』で、Kさんは、「こいつも少しは
伝えたいことのために戦ったのか」とかおっしゃっていますが、
そうお感じになったとしたら、おそらく、わたしの「伝えたいこと」
ではないことでしょう。わたしは、「伝えたいことをプレゼント」
してますが、「伝えたいことのために戦って」はいませんから。)

たとえば、「世界平和」とか「部落解放」とか「人種差別撤廃」と
かそういうテーマがあったとしても、それを生のままもりこんだり
しない。(それなら、論文やスローガンのほうがいい。)
個人の体験、たとえば「被爆体験」でもいいし「学校でのいじめの
体験」でもいいですけれど、それなら、自伝やルポルタージュなど
のほうが伝わります。

小説の良さは、「幅広さ」だと思うんですよ。読者が何をうけとめ
てもいい。たとえば、テーマ的に「人種差別撤廃」であったとして
も、差別の下で生きる人間のユーモアとか、どんな人種でも普遍的
な恋愛の幸せと苦しみ、生活の中での哀歓、親子の人情、いろんな
ものが書けると思うんですよ。
その、どれを受けとめてもいいのが、小説の良さだと思う。論文や
スローガンにはない、小説の思想。
もっと極端に言えば、「この一シーンが良かった」「この一文に感
動した」ということさえあると思うし、それもまたOKだと思う。
(というより、そういうメールをもらいます。)

わたしも、たとえば、最近田辺聖子さんの短編を読んで、その中に、
昔夫婦だった男女がたまたま大阪のミナミで出会い、「フグでも喰
おか」ということでフグ料理屋に入る。そこで、フグの白子の網焼
きというのが出てきて、ぱりっとした薄皮を噛み破ると中からあつ
あつのポタージュみたいなひとしずくが出てくる、といった描写が
あって、読んでいて本当に、はふはふしながら食べている気分にな
りました。本当に口をやけどするかと思った。そして、この「フグ
白子の網焼き」を食べたいと思った。
ストーリーの他のところは、なんということもないのだけれど、こ
こだけはときどき思い出す。それでいいのではないか、と思います。

だから、わたしの作品の『晴れ間・・・』でいえば、「一致団結し
て自由を求める市民の崇高な姿」というような大上段に構えたもの
はまったく考えてないです。
「晴れ間はきっとやってくる」という合い言葉が良かった、と思っ
てくれてもいいし、「辛い仕事をしている爺さんの背中が縮んで見
えるシーンが、自分のおじいちゃんを思わせて思わず涙した」でも
いいし、「あのパリの女の子が印象的」でもいいし、「ドイツ軍の
将校に知られたんじゃないかとドキドキした」でもいい。
小説に書かれている範囲なら、なんでもいいから、うけとってくれ
たらいい。そのどれもが、「わたしの書きたいこと」なんだから。

わたしがイメージしているのは「プレゼントがたくさんつり下がっ
たクリスマスツリー」です。
どのプレゼントをとってくれてもいい。気に入ったのをとってって
欲しい。もちろん全部とってくれたら嬉しいけれど、一番小さい一
個だけでもいい。
作者が、思い入れのある「プレゼント」を、「あ、これ気に入った」
と言ってくれたら一番うれしいけど、そうでなくてもどの一文もわ
たしの「作品」であって「言いたいこと」だから、差別はしません。

3.小説を創造するのは、作者だけか?

また、「プレゼント」の用途を、限定しません。
ワイングラスだったら、ワインじゃなくてジュースを飲んでくれて
もいいし、お花を活けてくれてもいい。
そのとき「わーきれい」と喜んで、あとは記憶という押入の奥にし
まわれてもいい。たたき壊したり自分の作品として転売したりしな
いかぎり、受け取ったプレゼントの用途は受け取った人の自由です。

「小説とは、自分の言いたいことを伝えるメディアだ」と考えてい
る人の作品の多くが「自分の考えをそのまま受け取れ」と言わんば
かりです。つまり「ワイングラスをうけとったらワインを入れろ」
と言っています。
それは、受け取り手には強要できないことだと思います。
(何度も言うけど、それなら論文の方がいい。)

ひょっとしたら、読者は、作者が思った以上のことを「創造」して
くれるかもしれない。ワイングラスに、ワイングラスではない、も
っとユニークですばらしい使い方を考えてくれるかも知れない。

わたしは、「読者が創造する余地」が作品には不可欠だと思います。
たまに理屈っぽい若い男性(おおむねunder25)が、わたしの作品
を読んで、「あなたの言いたいことはこれこれでしょう、だったら
こう書かないと」とか言ってこられることがあります。
それは、大変困ります。
田辺聖子さんが、エッセイの中で、「この作品は何がテーマですか」
と自作について聞かれるのが一番困る、とおっしゃってますが、そ
の気持ち、分かります。
田辺さんは、しかたないから、例えば「この作品は嫁と姑の確執が
テーマ」などと答えたりする。そうすると女性雑誌などにそう紹介
されてしまって、それを読まれると、それで分かった気になられて
しまう、と。
「嫁と姑の確執」以外にも、テーマというか伝えたいことはたくさ
んあるのだと思います。しかし、限定することで、それ以外のテー
マが伝わらなくなってしまう。また、そのテーマにも、いろんな微
妙なトーンがあるのに、それも伝わらなくなってしまう。

たとえば、わたしの作品では、『K』が、「読む人によって受け止
め方が違う」ことを目指して書きました。
そう。貧しいのはKの心です。Kは、この国を貧しくしている悪循
環の元凶に近い。Kは、愚かにも、この出来事が起こるまで、自分
の貧しさに気がつかなかった。(Kの重々しいが暗い執務室やKの
国は、共にKそのものを象徴しているつもりです。簡単な象徴です
が、それを読みとれない人もいらっしゃるようなので、ここに注記
しておきます。)でも、今は、気がついてしまった。でも、もう後
戻りはできない。Kは、我が身の保身には成功したが、大切なもの
を失ってしまった。
書いているのは、そういう状況だけ。

この話を読んで、いろんな人がいろんなことを言いました。
「そこまでして得た地位なのに、人一人かばえないなんて愚かだし、
そこまでして地位にしがみつくのは矮小な人間だなあ」「社会の歯
車になって名前というか自分自身を失ってしまうのは、とても怖い、
現代社会の諷刺になっている」「Kは、反抗するべきだった、その
ほうが自分の命は失っても魂は失わなかっただろう」「愛する人を
守れなかったKはかわいそう」etc

どれも、正解だと思います。
例えば、四角い布。
スカートの形をしていたり帽子の形をしていたら、それ以外の用途
には使えないけれど、ただの四角い布なら、たとえばストールにな
るし、巻きスカートにしてもいいし、膝掛けにしてもいい。カーテ
ンにしてもいい。テーブルクロスにもなる。材質によっては敷物に
もなる。作者としては、タペストリーを考えていたけれど、巻きス
カートにしてくれている人を見たら、「あら、タペストリーよりい
い使い方ね」って思ったりする。そんな感じを考えています。

読者が、完成させてくださるのです。

わたしは、敢えて、この『K』という「織物」に、裁ちばさみを入
れなかった。織り上がった布のまま、人様に渡した。
それを、自由に創意で使ってくれてもいいけれど、「ハサミを入れ
て裁断していない」こと自体を、欠陥と言われたらイヤだ。裁断し
てしまったら、もう、「自由に使える」良さがなくなってしまう。
それを見ないで言う人がいるから、イヤだ。

そして、そういうことを言う人は必ず、「小説とは、自分の考えや
思想を人に伝える手段だ」ということを言う。
そういうあり方を、間違ってるとは言わないけれど、「それだった
ら、論文かスローガンや標語のほうが・・・」と思う。
「税金を 納めて明るい 大阪市」とかいう標語のほうが、言いた
いことがはっきり分かって良い。

小説がそうならないのは、「人間の考えというのが、一対一対応で
はない」「人によって受け止め方が違う」ということなのだと思う。
人の考えや受け止め方など、相反していることさえあります。両義
的であることもあります。(例えば愛憎とか。)
そういう、フラクタルでファジーな部分が、人の考えにはある。
それを無視して、「自分の考え」を出すと、非常にうすっぺらいも
のになると思うのです。
(『晴れ間・・・』が、そういう意味では一番、そういうファジー
なものがない、わかりやすい作品だと思います。それはそれでいい
と思います。すべてがファジーでも困りますし。冒険小説やサスペ
ンス小説など、そういうものがあると困るジャンルもありますから。)

4.共感とは

『雨の男』を読んでくれたある人が「主人公が同僚の女の子に相談
するところが印象に残った、自分が悩んでいるのに相談しても軽く
扱われてしまうのは本当に悲しかった、自分もそういう経験がある」
と言ってくれた人がいました。
これは、嬉しかった。
実は、わたしの体験でもあるから。ストーカーじゃないけれど、良
いと思えない男性からの告白があったことを話したら、いいとは思
ってないくせに、妬みからか、「あなたにはいい人じゃない?」と
くっつけようとした女性。悲しかったし、傷ついた。
一度、それを昇華させて、それから、わたしの体験ではなく、緋佐
子という女性の体験として書いた。
小説の本筋とは関係ないけれど、作者が「書きたいこと」としてツ
リーにぶら下げたプレゼントを受け取ってくれて本当に嬉しかった。

小説の良いところは、自分の体験を、登場人物を通すことで普遍化
できることです。
それは、自分の悲しみや傷ついたことを、グチグチ私小説風に書く
ことではない。それでは誰も共感しない。でも、そう書く人が多い。
やれ「母が冷たかった」だの「学校では誰も相手にしてくれなかっ
た」だの、そういう話を読むとウンザリします。
小説を書く原動力は、そういうものかもしれないけれど、それを一
度はフィルタにかけなければ、ただの「ボクちゃんに同情して」に
なってしまう。

「人によって受け止め方は違う」けれど、「どこか、人間として共
通に思うことがある」。そこを見つけるのは、なかなか難しい。
アマチュアでもプロでも小説を書く人の一生の課題かもしれません。
でも、「自分の苦しみや悲しみだけ」に目が行っている状態では、
書けないことだけは確かです。

5.普遍的なものについて

普遍性と想像力、というのは、かなり近い関係にあると思う。
多くの人々が想像できるものであればあるほど、普遍的だと言える。
どこらへんが、「人間として共通に思ってくれるか」を常に考えな
がら書かなければならない。

Kさんは、わたしの作品を、「映画かアニメかマンガか」が向いて
いる、とおっしゃるけれど、それは、褒め言葉だと思っています。
わたしの作品は、読んだ人のほとんどが、「イメージが頭に浮かぶ」
「頭の中で映像化できる」とおっしゃるからです。
実際は視覚だけではなく、「近づいてくる木靴の音」というような
「聴覚」、「雨に濡れて肌にくっついている肌着」みたいな「触覚」
もあるし、あるいは提出した三つの作品にはありませんが、嗅覚や
味覚なども、もし必要であれば書きます。
上のほうで紹介した田辺聖子さんの作品の中の、フグ白子のような
描写ができれば、最高です。
そして、勉強の末、ある程度できるようになりました。

これは、実は、非常に「想像力を喚起させる文章力」がないとでき
ません。想像力がない読者向け、でもありません。

また、わたしの文章は「中学生でも、いや漢字さえ分かれば小学生
でも理解できる」と言われますが、それも非常な褒め言葉です。
晦渋な文章は一見賢そうに見えますが、実際は中身がないと思いま
す。単純でシンプルな文章で、しかし状況や心理など最大限に表現
するのは難しい。これも、一生かけて取り組まなければならない課
題だと思います。

6.すべて小説はエンターテイメントである

エンターテイメント小説は純文学じゃないけれど、純文学はエンタ
ーテイメント性があります。
というより、おもしろくない小説なんて小説じゃない。
たとえば、「え〜っ、夏目漱石の『こころ』で読書感想文? つま
らなさそう」と思って、でもしぶしぶ読んでみて、「意外とおもし
ろかった」と言うような経験は、誰しもあると思います。
「これは文学なんだ、思想なんだ、偉い大家の先生が書いた物なん
だ」と思って読むことほどつまらないことはありません。

小説なんて、そのとき楽しめればいい。
というより「文学」として今に残っているものは、「いろんなレベ
ルでの読み方が可能」であるから残っているのだとわたしは思う。

とりあえず筋を追ってハラハラドキドキしながら読む。
作中の魅力的な人物に恋して読む。
風景や食べ物などの描写を味わって読む。
しゃれたセリフやうまい言い回しに感心しながら読む。
作中の人物の体験に自分を重ね合わせて読む。
作品の中に盛り込まれている思想に感激する。
いろんな読み方ができます。

最初から文学だの芸術だのを目指して良い作品が書けるわけがない。
源氏物語なんて、江戸時代後期に、本居宣長が価値を見いだすまで、
「女向けポルノ」扱いでした。
サド侯爵の小説も、20世紀に入ってからその価値を見いだされた。

反対に言えば、ノーベル賞作家のかなりが、「死後忘れられている」
のです。たとえばドイツ文学ではトーマス・マンや、ヘルマン・ヘ
ッセならみんな知ってるけれど、パウル・ハイゼと言っても知らな
い人のほうが圧倒的でしょう。

こんなもんです。
文学であるか、芸術であるか、というのは、他の人、後の人が決め
ることです。まずは「寝転がって楽しんで読む」ことができないも
のは、いいものではないでしょう。
それなりに思想を盛り込んだり、芸術性を出そうとするのはいいこ
とですが、そう思ってくれるかどうかは、他の人の判断によります。

「読んで楽しい」
これが、どの小説でも基本です。「楽しい」の種類は、小説によっ
て違います。たとえばミステリー小説なら「今までにないトリック」
や「探偵のあざやかな謎解き」でしょう。恋愛小説なら、主人公に
自分を重ね合わせてドキドキすることでしょう。

Kさんは、わたしの作品を、「気楽に寝転がって読めば良い作品」
とおっしゃいますが、それははっきり言うと非常な褒め言葉です。

だって、そういうときにつまらないものを選びますか?

小説なんて、プロからアマチュアまで星の数ほど書いている。小説
以外の娯楽もある。テレビも映画もインターネットもファミコンも
ある。そんな中で、もし、娯楽のためにわたしの小説を読んでくれ
るとしたら、こんなに嬉しいことはない。
その人の貴重な時間を、わたしの作品を読むために費やしてくださ
るのです。
実にありがたいことです。そう思いませんか?

6.小説を書く姿勢について

Kさんは「戦っている」と言うけれど、わたしはその喧嘩腰が理解
できないし、それでは良い作品が書けるわけがない、とさえ思う。
(思うのはわたしの勝手で、Kさんは「これこそ正しい小説の書き
方だ!」と言ってもいい。)

だって、わたしはよく手作りケーキやクッキーを作って人に食べて
もらうけれど、まさか、ケーキを食べてもらうのに「戦う」必要は
ないからです。
食べてもらって「おいしい」「また食べたい」と言ってもらえれば
大成功。自分が「このアップルパイの中身の林檎の甘煮にひと工夫
した」と思っていて、「今日のこの林檎、おいしい!」と言っても
らえたら大成功。もちろん、自分では全然と思っていて「パイの皮
がぱりっとしているからおいしい」と言ってもらえることもある。
もちろん、考えすぎ工夫のしすぎで大失敗することもあります。
うまくいかないときもあります。
レーズンが嫌いだと知らないで、レーズンたっぷりのクッキーを出
してしまうこともあります。そうすると食べてくれない。和菓子は
好きだけどバターや生クリームの多い洋菓子は嫌いという人もいる。
すべての人に満足してもらえる訳じゃない。でも、いろんなレパー
トリーに挑戦しがいもある。

戦うとしたら「わたしの作ったケーキは最高なんだ、こんなにすご
いもの喰わせるんだからありがたく思え!」って態度だからではな
いか、と思います。それでおいしいケーキなんかできない。

小説も同じ。
人に喜んでもらえるから、書く。
まず読んで、その場で「ああおもしろかった」って思ってくれたら、
それで十分だ。
そのなかで、一文でも一場面でもいいから、「ああ、わたしもこん
な体験したわ、こんな風に友達だと思っていた人に裏切られること
ってわたしだけじゃないのね」みたいに、感じてくれるものがあっ
たとしたら、身に過ぎる幸運だと思います。

わたしの感じたことや、思ってることなんて、大したことはないで
す。でも、それを表現することによって、誰かが、「これこれ! 
こういう気持ちなんだ!」って膝を打ってくれたらいい。
それが、わたしのメッセージです。

わたしは、はっきり言うと、小説のメイン部分には、思想的なもの
は入れないで書いています。あるように見えたとしても、それは結
果論です。(たとえば、戦争を描けば、普通は「戦争の愚かしさ、
悲しさ」というのが自然に入ってきます。)
むしろ、サブの、細かい部分に、自分の考えとか体験を元にしたも
のを入れています。だから、ひとつだけじゃない。
そのなかのどれかが、読み手の心の琴線にふれてくれたらいい、っ
て考えています。触れなかったら触れなかったで、しかたがない。
レーズンクッキーと、チーズクッキーと、ココアクッキーを用意し
たけれど、どれもお口に合わなかっただけのこと。でも次に水よう
かんを出したら食べてくれるかも知れない。

少なくとも、わたしは、人と争う姿勢では、小説は書けない。
もし、無人島にひとりぼっちだったら、わたしはお菓子も作らない
し、小説も書かない。受け手あってこその創作なのだ。

わたしは「これがわたしの言いたいことなんだ!」と大上段に構え
たくない。ただ、それが無いからといって、「真剣に伝えたいもの
がない」わけでもない。
わたしには、そういう態度が「俺様の作ったクッキーだから喰え!」
と読者の口に無理矢理つっこんでいるようにしか見えない。

焼きたてで、ホカホカとしていて、あまーい、バターのいいにおい
がしていたら、勧めなくたって手が伸びてきます(^^)。
小説も、ちょっと立ち読みしたら、そのままずるずる・・・なんて
いうときが一番幸せ。そういう小説が書けたらいい。

7.オリジナリティについて

何をもってオリジナリティと言うかは、分かりません。
たとえば、推理小説なら、「まだ誰も考えたことがないトリック」
になると思います。
ただ、普通の小説において、オリジナリティといっても・・・ほと
んどのパターンが使い尽くされています。たとえば、恋愛小説を書
く人は、おそらく「ストーリー的にはもう開拓の余地がない」と思
われるはずです。
でも、内面的には、まだ書く余地があると思います。
それは、「こういう状況に置かれたら、自分ならこう行動する、こ
う考える」というものです。
例えば、「友達に裏切られた」というような場合、自分がどう感じ
たのか。それは、人や場合によって違うでしょう。でも、自分がそ
の傷を負ったままである状態では、それについて創造的な結論を出
すことはできない。

人生の年輪そのもの、と言ってもいいかもしれない。
それは、各個人によって違うものです。
それは、自分にしか書けない。
たとえばレイプによる心の傷を克服した女性は、同じようにレイプ
の被害にあった女性を救うことができる。そういったものです。
そういうものが「与えられる」ことそのものが、オリジナリティだ
と思います。

まず与えるのは「楽しさ」。それから、もし感動や何かを受け取っ
てくれるなら、それ。
自分が「友達に裏切られた、ぐすぐす、この苦しみを分かって〜」
って読者に甘えるのではない。友達に裏切られた経験をもし小説に
入れるとすれば、それは同じような体験をした読者を癒すためです。
それが、わたしが与えてあげられるプレゼントだと思う。

わたしは、今まで30年になる人生で出会ってきたいろいろのこと
で、心の整理がついたものを、きれいな箱に入れて小説と言う名の
クリスマスツリーに、プレゼントとして枝につりさげています。
「友達に裏切られた」とかいうようなネガティブなことだけじゃな
い。見知らぬ人との一瞬だけの心の交流や、淡い初恋や、感動した
風景といったポジティブなものもあります。
箱を開けて、気に入ったものを持っていってくれたらいい、という
のは、そこです。

わたしの経験が、全部ハマることなんてないと思います。でもひと
つかふたつはハマってくれると思う。それを、プレゼントしたい。
それが、わたしのオリジナリティだと思う。

Kさんが、何をもって「どこかで教わった言葉、感情」と言うのか、
わかりませんが、わたしだって人間のハシクレなので、どうやって
もそれほど他の人間と違った結論は出ません。
ただ、盛り込んであることは、すべて、わたしの人生で体験したこ
とが反映しています。
もし、そう言われるのであれば、「どこのどのセリフ(感情表現)
が、なんか平板で他と浮いている」みたいに、きちんと指摘してほ
しかった、と思います。

わたしは、Kさんは「オリジナリティ」ということを誤解している
と思っています。批判しているのではないです。
「自分の苦しみ」にだけしか目が行っていないからです。
体験は、重要だけれど、それに終わってはいけない。
それに終わると、「自分と同じような人間」しか書けない。
たぶん、Kさんは、「別の世界」を書けないと思います。
それは、自分自身の体験そのものから離れていないから。
たとえば「友達に裏切られる」「淡い初恋」といったものは、古代
エジプトでも、紀元2548年の宇宙ステーション内の都市でも、
異世界アルスガルドでも、人間(あるいはそれに準じた生物)が主
人公でありさえすれば、応用がいくらでも効くのですが、「自分が
友達に裏切られる」「自分の淡い初恋」だとしたら、「自分と同じ
ような主人公」で、「自分が今生きている世界とほとんど変わらな
い世界」しか書けなくなる。

それを「俺だけの体験だから、オリジナリティあふれてるんだ」と
言うと、ちょっと間違いじゃないか、って気がしています。

オリジナリティとは、人に楽しさや感動を与えられること、勇気を
与えられることだと思います。(なんかディズニーアニメのキャッ
チコピーみたいですが・・・でも真実です。)
わたしの作品には、「おもしろかった」「ここらへんが、わたしの
体験とぴったりで、感動した」と言ってくれる人がいます。必ずし
も全部ではありません。ある作品にそう言った人が、別のは「これ
はちょっと」と言うこともあります。それでいいと思います。

8.最後に

Kさんも、これから作品を書いていて、一作でも、他人が心から、
「おもしろかったー」「感動したー」ってものが書けたら、他人か
らそう言ってもらえたら、きっと今わたしが言ったことが分かると
思います。(Kさんは、たぶん、今までほとんど小説を評価された
ことはないと思います。これは、Kさんの態度から感じるのです。)

わたしが、すごくうまいわけでもない。
でも、人様から喜んで頂けることがあるので、分かるのです。

Kさんは、「勝った」の「負けた」の、すべてを戦いにしてしまっ
ている。わたしにしても構いませんが、読者にそれをしては、いけ
ないと思う。物を書くことは、「与えること」「愛すること」「思
いやりを示すこと」であって、戦うことではない。

これを読めば、また、Kさんは、なんやかんや言うと思う。
(それも、よく読まないで、わたしの言ったことのあげあしとりみ
たに「あなたはこういうけれどこうじゃないか」っていうような、
うんざりするメールが来ると思う。あるいは、わたしの言葉を利用
して、「自分はさも聖戦を戦ってる、卑怯はきるしぇさんだ」とか
言うようなことを言うと思う。)

でも、ひとつの創作論として、有効な気がします。
「小説は、プレゼントだ。人を愛することだ。」

よって、書きました。

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  ∧ ∧  砂倉 櫻
(≡^・^≡)sakura-sakura@sakura.email.ne.jp

「小説ほおむぺえじ さくらさくら」
http://www.asahi-net.or.jp/~ee8s-oomr/index.htm

∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬∬
    

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