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Date: Sat, 11 Dec 1999 05:38:43 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00370] 作品投稿『癒し』
To: <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <001001bf434e$a97cc620$57a999d2@fmv>
X-Mail-Count: 00370

こんばんは。Kです。
作品投稿です。
これは、“居場所”をテーマにして書いたふたつの作品のうちのふたつ目で
す。
ひとつ目もいっしょに送ってあります。
内容はつながっていませんが、ひとつ目から順番に読んでいただけると幸い
です。
では、よろしくお願いします。





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 人は物心ついた瞬間からすでに、自らの居場所を求めてさまよう、一人の
孤独な旅人となる。
 母親の発狂によって、自らの居場所を永遠に失った青年がたどり着いた場
所は…



   『癒し』



 二十代も中ごろ。
「もう届けは出したんだろうか?」
 健一は出来るだけ当たり障りのない雰囲気を造り出そうと努めながら訊い
た。
「ああ」
 神崎はひと目健一のほうを見てから応え、すぐに再びそばをすすり始め
た。
 健一はそれきり何も言えなかった。神崎は人にとやかく言われるのを待っ
ているほど幼い人間ではなかったし、それに、目の前の神崎とも、別れたそ
の妻とも親しい間柄であった健一は、自身もこの一件でかなり煮詰まってき
ていることに気づいていた。
 そして、その日の夜、健一は四年ぶり、二度目の発作に見舞われることに
なった。



 家路につく頃、健一の頭の中は、無数のできものの様な過去によって侵食
を開始され、大脳を埋め尽くした腫瘍は、刻一刻とその精神を崩壊させる準
備を整えつつあった。
 マンションの玄関を開けると、幸子が動き回る足音と、ぐつぐつとカレー
ライスを煮詰める音が聞こえてきたが、それらが健一の注意をうばうことは
なかった。いつの日か以来、健一にとって、古い幼馴染でもあり、現在の妻
でもある幸子の存在は、もうどうでもいいものになっていた。
 健一はまっすぐに居間に向かって歩いて行って、そしてそのまま着替えも
せずにソファの上に横になった。
 どこか遠くで幸子の呼ぶ声が聞こえる。
 朦朧とした意識の中で健一は大学時代のサッカー部のことを考えた。
 毎日毎日ボールを追いかける日々。
 貫くような陽射と、とめどなく流れる汗と水道の水。

 あの頃は良かった…

 つぶやきとともに、まぶたの裏に、神崎とその妻の崩壊の景色が浮かんで
くる。
 五年間もつれそった二人がいったいどのようにして、あのような冷たい眼
差しでお互いの存在を凝視することができるのであろうか。あの四つの瞳の
内側には、ほんのかすかな葛藤の痕跡すら見当たらなかった。ただ醒めた憎
しみのみが、視界いっぱいに暗い翼を広げて、ぬくもりのない視線の行き先
を覆っていた。

「出てけ」

 健一の頭の中に唐突に、ある男のセリフがよみがえる。

 あの頃は良かった?
 嘘だ…
 あの三年間こそが逃げ続けた毎日ではなかったか?
 それ以前のいつの日かに死を考えたことの延長だ。
 ある日の昼下がりに…
 ちょっとしたうたた寝から目覚めた瞬間に…
 どんなに否定しても
 どんなに激しく首を横に振っても
 世界中の人間が自分だけに背を向けて生きているということに気がつかな
いわけにはいかなかった…
 あらゆる暖かみを持った存在が、この自分だけにはそのぬくもりを与えて
はくれないのだということに気がつかないわけにはいかなかった…
 すべてはあの瞬間から始まり、そして今も、刻一刻と、このただれた世界
の領土を広げつづけているんだ…
 とっくの昔に、もう何もなくなってしまった空間に、まだ飽き足らずに、
死の毒を撒き散らす花を次から次へと植え付けて楽しんで笑いつづけている
んだ…
 俺には、何をどうひっくり返したとしたって、この、あらゆる生命が死に
絶えた世界から抜け出すことは不可能なんだ…

「返してよ」
 どこか遠い場所から、朽ち果てて、くすんだ白い塵の塊となった鳥の鳴く
声が聞こえてくる。
「ねえ、返してよ」
 乾ききった骨を、カタカタと鳴らしながら、触れる空気を刃物に変えて、
すべてを切り裂きながら、鳴く声が聞こえてくる。
「ねえ、返してったら返してよ」
 やがて声は、血も肉も、すべての希望を失った、白い自らのよりどころを
捨てて、飛翔を試みる。
「ねえ、返して、返して、返してよ!」
 視界に入るものすべてを憎みながら…目に入るものすべてを切り刻みなが
ら…果てしなく、目指す場所のない飛翔を試みつづける。
「ねえ、返して、返して、返して、返して、返して、返して、返してよ。何
もかも返してよ!」
 いつしか声は、不幸にも、自らの、絶対に成功することのない飛翔への試
みの意味に気がついて絶叫する。
「ねえ、返してよ…。何もかも、何もかも、返してよ。血も肉も、汗も涙
も、喜びも悲しみも、労わりも慈しみも、怒りも諦めも、嫉妬も愛情も、何
もかも、返してよ。何もかも、何もかも、返してって言ったら返してよ。何
もかも、早く返してって言ったら早く返してよ!」

 「出てけ」と言った男の前でかけがえのない人が泣き叫び、泣き喚いてい
た。
 髪を振り乱し、顔をくしゃくしゃにして叫んでいた。

 かつてどこかで見たはずのその光景を前にして、健一は再び、いつかの、
限りなく冷めた、果てしのない殺気に支配された、世にも悲しいふたつの眼
差しの存在を思い出した。

 狂ってる…
 間違ってもこんな姿を人に見せるような女性ではない。
 いったい何がここまでこの人を追い込んだって言うんだ

「どこへでも行ってのたれ死ね」

 健一の頭の中で、無機質で高飛車な、いつかどこかで聞いたことのあるよ
うな声音が、繰り返し繰り返し、死者の魂の叫びのように木霊する。



 健一はソファの上で震えていた。手足は機械のように正確な痙攣を繰り返
し、歯はガチガチと滑稽なしゃれこうべのように鳴りつづけた。
 幸子がどんなに押さえても、その恐ろしい動作が止まることはなかった。
 目の前で、一生寄り添って、ともに生きていくのだと決めた人が、激しく
白目を剥きながら、唾を飛ばして何かを叫んでいる。
 幸子は、涙を流しながら健一に抱きついた。
 しがみついて必死の力で、健一の発作を止めようとふんばった。
 ひとつ間違えば、彼はもう二度とこちら側に戻ってはこないかもしれない
のだという思いが、幸子の頭の中で怒涛のように暴れまわり、必死の思い
で、消えそうになる白い輝きを追い求めた。
 いつしか幸子は、薄れ行く意識の中で、かつて健一が教会で口にした言葉
を思い出した。
「僕がもしも、いつか何かを間違えてしまうことがあったとしたら、そのと
きはいつでも、この僕の顔を容赦なく殴り飛ばして欲しいんだ。僕はキミと
違って弱いから、いつだって何かを、とてつもなく大切な何かを、決定的な
場面で間違えてしまいそうで怖いんだ」
 白いエプロンに身を包んだ幸子の体を、遠い時の彼方から吹いてきた風
が、暖かくゆっくりと包み込んで、そしてひっそりと目を閉じて通りすぎ
た。
「いいえ、私は決してあなたのことを殴ったりはしないわ。そのかわり、あ
らん限りの力で抱きしめるの。あなたが、身動きが取れなくなるくらいに強
い力で抱きしめるの。だから二人で約束するのよ。私たちは絶対に、どこに
も、間違った所になんて行ったりはしないと。これから先永遠に、お互いの
足りない部分を補い合いながら生きていくのだということを」
 幸子は自らの両手に蘇る、白く眩しい力の存在を感じた。
 純白の衣装に身を包み、うららかな春の日差しを浴びながら教会の鐘を聞
いたときと同じ風が、今再び、自らと健一の体を包み込んでいるのを感じ
た。



「違う!」
 健一は声に向かって叫んだ。
「この人は病気なんだ。なぜそれをわかってあげようとしないんだ…」
 声はいつだって虚しい透明な壁によってかき消されてきた。
 もちろん…今回も、悲痛な叫びが、そのとてつもなく大きな壁を超えるこ
とはなかった。
「まったく、いまいましいガキだ…。おまえによ…、ただ食わせてもらって
るだけのおまえによ…いったい何がわかるっていうんだ? 毎日毎日、人の
カネ使って、学校行って、お勉強してりゃあいいだけのようなガキにいった
い何がわかるっていうんだ? ひとりじゃ何にも出来ないようなガキが、自
分じゃ何にもしないようなガキがこういうときだけえらそうな口を叩くん
じゃねえよ。こういうときだけ一人前の口を叩くんじゃねえよ。どっかその
辺の隅っこに行って黙ってろ!」
 目に見えない存在は、永遠に、果てしなく冷酷な響きを持って揺らぐこと
がなかった。
 心を閉ざした健一の頭の中に、何千回となく繰り返されてきた、不毛で、
取り止めのない、救われることのないつぶやきの言葉が浮かんでくる。

 …この人は病気なんだ

 …この人は病気なんだ
 僕にだってそれくらいのことはわかる…
 ひとりじゃ何も出来ない僕にだってそれくらいのことはわかる…
 他のみんなにだって、誰にだって、どんなバカにだって…
 どんなに物事を見る目がない人間にだって…
 そんな簡単なことくらいは…すぐにでも理解することができたはずじゃな
いか…
 
 …それなのに…
    …それなのに…

        …誰も…
            …僕を含めた誰も彼もが…

      決して本気では、彼女のことを助けようとはシナカッタンダ



 銀色のナイフを持った女性が扉の陰に立っている。
 テレビの前に座っている男の方へゆっくりと歩いていく。

「駄目だ!」

 僕はいつものように一声叫んで走り出す。
 もちろん結果はわかっている。
 ナイフは僕の腹を刺して、女性は永遠に回復の希望を失う。
 僕は全治三週間の怪我と、情緒的には約二年半のあいだの廃人状態に陥
る。
 発作による脳内での幻影の繰り返しといえども、精神的には過去の現実と
寸分の違いもないダメージを被る。
 すべてのことが、確実に、何ひとつの誤差もなく、八年前の現実と、四年
前の発作によって実証されている。



「健一…」
「ねえ…」
「健一…」
「思い出して…」
「ねえ…」
「思い出して…」
「どこにも行かせないって…」
「私たちはどこにも行かないって…」
「言ったでしょ…」
「約束したでしょ…」
「思い出すのよ…」
「思い出して…お願いだから…」
「もう一度…思い出して…」
 白目を剥いて痙攣を繰り返す健一の耳に、近くで誰かが呼んでいるような
声が聞こえる。
 けれど、もう健一にはそれが誰の声なのかを考える余裕はなかった。

「終わりだ」

 健一はゆっくりと、すべてを失う覚悟を決めて、つぶやいた。



 過去二度と同じように、走り寄って女性の前に立ちはだかる。
 目の前の女性も、かつてと寸分の違いもない、限りなく冷めた、殺気を込
めた眼差しを健一に対して向ける。
 ヒュッ
 罠にかかった動物の、絶命の瞬間のような呼気とともに、見慣れた凶器を
持った女の右手が健一の腹に伸びる。
 銀色の先端が鈍く光って健一のシャツを切り裂き、そして間髪入れずに、
赤い液体が美しい円を描いて白いシャツの真中を染め始める。

 心臓の音が聞こえる。
 血液が流れ出る音が聞こえる。
 銀色の悪魔が柔らかな草食動物の肉を食い千切る音が聞こえる。
 何もかもが終わった。
 今回も僕は大切な人を助けることができなかった。そして自らの心さえ
も、再度、闇の彼方へと追いやることになる。
 だいたい、なぜ最初の現実のときといい、初めての発作のときといい、僕
は二度までもこの通常の世界に戻ってくることができたのだろうか?
 …いや、それよりも、なぜこのいまいましい悪魔は、過去二度と同じよう
に、一瞬にして、ひ弱な僕の内臓を完膚なきまでに破壊し尽くすことをしな
いのだろうか?

 健一はいつの間にか閉じていた両の目を、微かな震えとともに見開いた。
 世界は一瞬だけあらゆる存在を白く染めあげる。
 けれど次の瞬間にもそのある部分だけは輝きを失わなかった。
 目の前で見覚えのある二本の手が、赤い血液をだらだらと流しながら銀色
の凶器を受け止めている。
 刻一刻と大量の血を失いながらも、なおもまだ白く白く輝きつづけて、
ゆっくりとした速度で、けれど、徐々に徐々に確実に、銀色の悪魔を、殺気
だって髪を振り乱した女性のほうへと押し戻していく。

 今さら…
 顔を上げて…
 確かめてみる必要は…
 なかった…

 どこか、すぐにでも手が届きそうな近い場所から、懐かしい幸子の呼ぶ声
が聞こえてきた。



 健一は唐突に目を見開いて、もとの世界に帰って来たことを知った。視線
を最も近くの風景に合わせて、いつのまにかソファの上で横になっている自
分と、その上で、エプロン姿のままぐったりと突っ伏している幸子を見つけ
る。
 幸子の顔がのっているあたりのシャツが、おそらくは彼女の涙と思われる
液体でぐっしょりと暖かく濡れそぼっている。
 健一はゆっくりと、幸子の、白く繊細な両手を取って眺めてみた。
 じわじわと、水が沸騰していくようなスピードで、いつかどこかで感じた
ことのある感情が蘇ってくる。
 胸の中に、この手だ、というシンプルだが確かな思いが輪郭を形作る。
 その輪郭の表面に、いったい俺は、この手によって何度助けられたことだ
ろうかという、暖かくも苦い、押さえようのない感謝の気持ちが付着してい
く。
 幸子とはずいぶん長い付き合いになるが、最近の健一はもう何年にもわ
たって幸子の存在を気に留めたことがなかった。
 結婚してからしばらくがたつと、健一はいつしか、妻の、常におとなしく
マイペースな言動にたいして、しばしば、押さえがたい感情の苛立ちや、激
しい憎しみの気持ちを抱くようになった。そして、時には、実際に荒々しく
当り散らして、幸子を泣かしてしまうことさえもがあった。
 けれど、今、目の前にいる、疲れきった幸子の顔や涙を見れば、この、一
見静かでおとなしいだけのように見える女性が、実はとてつもない強さや葛
藤や、あるいは優しささえもを、遥か、出会った最初の頃から持ち合わせて
いたのだということを思い出さないわけにはいかない。幸子にしても、あの
事件以来は毎日が、自分の存在を賭けた、つらく厳しい戦いだったに違いな
い。この人だと決めた相手に無視され、乱暴にあたられる毎日は、いったい
どれほどの痛みと傷とを蓄積していったことであろうか。
 ひとつの事件によって自らの心に決定的な破綻を生じて以来、自分がいか
に大切な、かけがえのない存在を見失っていたかがわかる。



 健一はゆっくりと、幸子の両手を自らの両手で包み込んでみた。
 ドク、ドク、と、静かだが、しかし、力強く幸子の心臓が脈を打っている
音が伝わってくる。
 俺は、いつだってこのちっぽけだがとてつもない可能性を秘めたふたつの
小さな手によって助けられてきたんだ。
 健一の胸の中で、声にならない、たくましく力強い感情が目覚め始めて
いった。
 白く、しなやかなふたつの手を眺めているうちに、健一はひさしぶりに、
目の前の幸子の体を、強く、これ以上なく強く抱きしめたい衝動に駆られて
いった。
 かつて経験したことのないほどの、穏やかでおっとりとした心臓の鼓動の
音を聞きながら、健一はゆっくりと、疲れ切り、ぐったりした幸子の体を抱
き寄せてみた。
 濡れたシャツの上からではあったが、確かにその表面からは、いくつか
の、生きたぬくもりを持ったものごとを感じ取ることができた。
 人を愛する心と、安心感と、そして約束された未来さえもが、一枚の薄い
繊維を通した、目の前のかけがえのない存在の中に、含まれているような気
がした。
 長いあいだ健一の中に眠っていた感情が、やっとのことで全身に光を浴
び、再度自らの居場所を見つけることが出来た瞬間であった。










    

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