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Date: Sat, 11 Dec 1999 05:26:04 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00369] 作品投稿『空白の答え』
To: <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <009601bf434e$0a60f660$52a999d2@fmv>
X-Mail-Count: 00369

こんばんは。Kです。
作品投稿です。
“居場所”をテーマにして書いたふたつの作品のうちのひとつ目です。
ふたつ目もすぐに送ります。
これは、以前「空白」という題名で発表したものを、題名を変えて、最初と
最後に2,3行の本文を付け足して復活を試みた作品です。
よろしくお願いします。
続けてふたつ目を読んでいただければ幸いです。




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 人は物心ついた瞬間からすでに、自らの居場所を求めてさまよう、一人の
孤独な旅人となる。
 果てしない空白の中に生まれ、やがてすべてを失った少年が導き出した答
えは…



 『空白の答え』



 物心ついた瞬間からすでに僕は、家族の中での、自らの存在に対して違和
感を感じていた。
 何がどう具体的に引っかかるのかと聞かれても今でも決してうまく説明す
ることは出来ないのだけれど、とにかく僕は言葉を発しなかった。
 父や兄や妹や母、それが誰の問いかけであったとしても僕はうんともすん
とも言わなかった。
 そして彼らの方もそのことに対して特に大きな疑問を感じてはいないよう
であった。
 妹は「どうして?」という顔でじっと僕の顔を見つめた。
 父や兄はおそらくは、よくない感情を押さえ込んでいたのだろうと思う。
すぐに僕に対して何かを問いかけることを止めてしまった。
 僕は小学校と中学校を全部で三回くらいしか言葉を話さずに過ごした。
 その三回も今となっては何を話したのかも覚えていない。
 でも長く暗い九年の月日の間に僕は確かに三度だけ世界に向かって何かを
投げ込んだ覚えがある。
 それは僕にとって正確な表現を使うならば、小さな小石をちょっとだけ、
すぐそこに放り投げてみたというだけのものだった。
 けれど、世界の方は自らの終わりを意識したかのように大騒ぎになった。
 その騒ぎの大きさによって、僕が投げた小石の色や形は永遠に失われた。
 お母さんが自殺をして、畳の上にたくさんの量の汚物を撒き散らした夜の
翌朝、僕は袖ぐちに鼻水の染みがついたジャンパーを着て家を出た。
 お母さんが死んだ理由はわからなかったけれど、彼女が最も僕の事を避け
て振る舞っていたことだけは覚えている。
 僕は中学三年の冬にして人生最大の目標を失った。
 それは猫たちが唐突にいなくなった冬でもあった。
 僕が猫たちのために用意したダンボール箱はむなしく空っぽのままでその
端っこを冷たい風に揺らしていた。
 あのとき、もしもあの老人に会っていなかったとしたら僕は今ごろどう
なっていたのだろうかと思う。
 名も知らぬ街の、際限なく冷たい北風に支配された、黒い絵の具を塗りた
くったかのような真夜中の暗闇の中で、老人は僕のためにとてつもなく豪華
なダンボール箱を用意して待っていた。
 僕は母親が死んでから三日とたたないうちに、何不自由ない暮らしの存在
というものを認識した。
 老人は何も言わない僕の手を引いて家につれて帰り、以来、あらゆる援助
を惜しむことなく与えてくれた。
 何がどういう成り行きでそうなったのかはわからないけれど、僕は何事も
なかったかのように学校に通いつづけ、老人の世話になりつづけ、晴れて高
校も卒業することが出来た。就職先さえ、高校ではなく、その、僕と同じく
らい無口な老人が世話をしてくれた。
「すべてのことを自分でしなさい。お金は全部私が出しますから。それと、
私の存在のことはいっさい気にかける必要はありません」
 老人の住む大邸宅での生活が始まったばかりのときに、僕は高校三年間で
聞いた老人の言葉の、ほぼすべての分量を耳にした。
 以来僕は毎日毎日、朝起きて自分で朝食を作り、ひとりで食べて、ひとり
で学校へ出かけていく日々を送った。夕食を食べるのもテレビを見るのも常
にひとりの生活だった。そこでの三年間は本当に孤独なものであったけれ
ど、僕はそれが本物の孤独ではないのだということを知っていた。
 大邸宅での僕の半径数十メートルの範囲の中にはいつでも老人の姿が存在
していた。
 老人がいったい何をして生活をしていたのか今となっては思い出すことが
出来ないのだけれど、ひとつだけ確かにくっきりと僕の目に焼きついている
光景がある。
 天気のいい日は老人は必ず縁側に出て、将棋の駒を眺めていた。小さな紫
色の座布団にちょこんと座って、いつまでもいつまでも目の前に並んだ小さ
な木製の兵士たちを眺めていた。
 いつの日のことであったろうか。
 僕は老人が駒を指す所を見たくなって、朝から晩まで襖の陰から老人の右
手が動くのを待っていた。
 手は最後まで動くことはなかった。
 老人の目は潤んだような深みのある輝きを宿しながら、ただひたむきに、
目の前の兵士たちの陣形を捉えつづけていた。
 僕は静かな感動を胸にして自分の部屋へと戻った。そしてそれ以来なぜか
他人とうまく会話をすることが出来るようになった。
 けれど、他人との会話が出来るようになっても、僕の生活の本質が変わる
ことはなかった。
 どう考えても多すぎる金額のお金を、毎月毎月自分の部屋の、自分の机の
上に発見しながら、僕はぬるま湯の孤独の中で、高校の卒業式を迎えた。
 卒業式に対しても僕の心は何の感慨も生み出すことはなかった。ただ、薄
暗い部屋の、埃の積もった畳の上にばら撒かれた、かつては母の体内にあっ
たはずのもののなれの果ての姿を思い出しただけだった。
 果たして老人はいったい何を思ってあの冷たい暗闇の中でひとり静かに立
ち尽くす僕という存在を拾ったのであろうか。
 僕は最後の日にただ一言だけ「お世話になりました」と言って老人のもと
を去った。
 貯金と就職先からの給料を当てにして、僕はひとり暮しを始める決心をし
ていた。
 細かい説明は一切せずに、卒業式のあった翌日の朝に、荷物をまとめて、
大邸宅の玄関の前に立ち尽くした。
 老人は僕の言葉に対して一切の表情を表さなかった。
 ただじっと僕同様に立ち尽くして、永遠とも取れる長い時間の間、美しく
深みのある瞳で僕の顔を眺めていた。
 僕がふっと踵を返して歩き出そうとした瞬間、微かに老人の頭が頷くよう
な動作をしたような気がした。
 でもそれはただ単に僕の気のせいであっただけなのかもしれない。
 僕は一度たりとも振り返らずにその老人のもとを去って、そして二度と再
び、そこに戻って来たいとは思わなかった。

 自分の居場所は自分で決める。

 何もなかった十八年の間に僕が導き出した唯一の答えが、頼りなく、早春
の日差しの中で揺れていた。








    

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