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Date: Fri, 3 Dec 1999 02:39:54 +0900
From: "k" <ui@peach.plala.or.jp>
Subject: [bun 00360] 投稿作品「空白」
To: <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <001501bf3cec$68671e00$29a999d2@fmv>
X-Mail-Count: 00360

こんばんは。Kです。
作品投稿です。
昨日の夜思い付いて、今さっき二時間くらいかかって書き終わったばかりのもので
す。
これで何が言いたいのかは聞かないでください。私自身にもわかりません。でも書き
たかったことはほぼ100%の割合で書き切れたような感触があります。読んだ方々
がいったいどのような感想を抱くのか知りたいです。
ちなみに題名は書き終わってからつけました。関係ないですけど。





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 空白



 物心ついた瞬間からすでに僕は、家族の中での、自らの存在に対して違和感を感じ
ていた。
 何がどう具体的に引っかかるのかと聞かれても今でも決してうまく説明することは
出来ないのだけれど、とにかく僕は言葉を発しなかった。
 父や兄や妹や母、それが誰の問いかけであったとしても僕はうんともすんとも言わ
なかった。
 そして彼らの方もそのことに対して特に大きな疑問を感じてはいないようであっ
た。
 妹は「どうして?」という顔でじっと僕の顔を見つめた。
 父や兄はおそらくは、よくない感情を押さえ込んでいたのだろうと思う。すぐに僕
に対して何かを問いかけることを止めてしまった。
 僕は小学校と中学校を全部で三回くらいしか言葉を話さずに過ごした。
 その三回も今となっては何を話したのかも覚えていない。
 でも長く暗い九年の月日の間に僕は確かに三度だけ世界に向かって何かを投げ込ん
だ覚えがある。
 それは僕とって正確な表現を使うならば、小さな小石をちょっとだけ放り投げてみ
たというだけのものだった。
 けれど、世界の方は自らの終わりを意識したかのように大騒ぎになった。
 その騒ぎの大きさによって僕が投げた小石の色や形は永遠に失われた。
 お母さんが自殺をして、畳の上にたくさんの量の汚物を撒き散らした夜の翌朝、僕
は袖ぐちに鼻水の染みがついたジャンパーを着て家を出た。
 お母さんが死んだ理由はわからなかったけれど、彼女が最も僕の事を避けて振る
舞っていたことだけは覚えている。
 僕は中学三年の冬にして人生最大の目標を失った。
 それは猫たちが唐突にいなくなった冬でもあった。
 僕が猫たちのために用意したダンボール箱はむなしく空っぽのままでその端っこを
冷たい風に揺らしていた。
 あのときもしもあの老人に会っていなかったとしたら僕は今ごろどうなっていたの
だろうかと思う。
 名も知らぬ街の際限なく冷たい北風に支配された、黒い絵の具を塗りたくったかの
ような真夜中の暗闇の中で、老人は僕のためにとてつもなく豪華なダンボール箱を用
意して待っていた。
 僕は母親が死んでから三日とたたないうちに、何不自由ない暮らしの存在というも
のを認識した。
 老人は何も言わない僕の手を引いて家につれて帰り、以来、あらゆる援助を惜しむ
ことなく与えてくれた。
 何がどういう成り行きでそうなったのかはわからないけれど、僕は何事もなかった
かのように学校に通いつづけ、老人の世話になりつづけ、晴れて高校も卒業すること
が出来た。就職先さえ、高校ではなく、その僕と同じくらい無口な老人が世話をして
くれた。
「すべてのことを自分でしなさい。お金は全部私が出します。それと、私の存在のこ
とはいっさい気にかける必要はありません」
 老人の住む大邸宅での生活が始まったばかりのときに、僕は高校三年間で聞いた老
人の言葉の、ほぼすべての分量を耳にした。
 以来僕は毎日毎日、朝起きて自分で朝食を作り、ひとりで食べて、ひとりで学校へ
出かけていく日々を送った。夕食を食べるのもテレビを見るのも常にひとりの生活
だった。そこでの三年間は本当に孤独なものであったけれど、僕はそれが本物の孤独
ではないのだということを知っていた。
 大邸宅での僕の半径数十メートルの範囲の中にはいつでも老人の姿が存在してい
た。
 老人がいったい何をして生活をしていたのか今となっては思い出すことが出来ない
のだけれど、ひとつだけ確かにくっきりと僕の目に焼きついている風景がある。
 天気のいい日は老人は必ず縁側に出て、将棋の駒を眺めていた。小さな紫色の座布
団にちょこんと座っていつまでもいつまでも目の前に並んだ小さな木製の兵士たちを
眺めていた。
 いつの日のことであったろうか。
 僕は老人が駒を指す所を見たくなって、朝から晩まで襖の陰から老人の右手が動く
のを待っていた。
 手は最後まで動くことはなかった。
 老人の目は潤んだような深みのある輝きを宿しながら、ただひたむきに、目の前の
兵士たちの陣形を捉えつづけていた。
 僕は静かな感動を胸にして自分の部屋へと戻った。そしてそれ以来なぜか他人とう
まく会話をすることが出来るようになった。
 けれど、他人との会話が出来るようになっても、僕の生活の本質が変わることはな
かった。
 どう考えても多すぎる金額のお金を毎月毎月自分の部屋の、自分の机の上に発見し
ながら、僕はぬるま湯の孤独の中で高校の卒業式を迎えた。
 卒業式に対しても僕の心は何の感慨も生み出すことはなかった。ただ、薄暗い部屋
の薄汚い畳の上にばら撒かれた、かつては母の体内にあったはずのもののなれの果て
の姿を思い出しただけだった。
 果たして老人はいったい何を思って冷たい暗闇の中でひとり静かに立ち尽くす僕と
いう存在を拾ったのであろうか。
 僕は最後の日にただ一言だけ「お世話になりました」と言って老人のもとを去っ
た。
 貯金と就職先からの給料を当てにして、僕はひとり暮しを始める決心をしていた。
 細かい説明は一切せずに卒業式のあった翌日の朝に僕は荷物をまとめて、大邸宅の
玄関の前に立ち尽くした。
 老人は僕の言葉に対して一切の表情を表さなかった。
 ただじっと僕同様に立ち尽くして、永遠とも取れる長い時間の間、美しく深みのあ
る瞳で僕の顔を眺めていた。
 僕がふっと踵を返して歩き出そうとした瞬間、微かに老人の頭が頷くような動作を
したような気がした。
 でももちろんそれはただ単に僕の気のせいであっただけなのかもしれない。
 僕は一度も振り返らずにその老人のもとを去って、そして二度と再びそこに戻って
来たいとは思わなかった。






    

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