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Date: Sat, 20 Nov 1999 00:22:22 +0900
From: "Atsushi.S" <a-shimo@sol.dti.ne.jp>
Subject: [bun 00346] [Novel] 薄光
To: bun <bun@cre.ne.jp>,        すとらんげーじ <stlg_ml@cup.com>
Message-Id: <38356B2E2F8.6DD4A-SHIMO@smtp.sol.dti.ne.jp>
X-Mail-Count: 00346

あつしです。
45枚。
なんかまた相も変わらずこんなの書いてます。
感想とか、よろしくお願いします。


「薄光」


 強く吹いた初冬の風が、気の早い枯れ銀杏の幹をすくませた。季節ごとに違う色の夢
を瞳に宿す人々の間をすり抜けて歩きながら、ぼくはポケットの中に入っている数枚の
一万円札を握りしめた。その金が自分自身が稼いで得たものではないという事実が、ぼ
くの心に一層冷たい空気を吹き込んだ。
「遠慮せんと受け取れ。ただし、”貸し”な」
 父親と交わした約束は、今回も果たされることはないだろう。
 ふと、もう何度も振り切ったはずの惨めな思いが湧きあがった。
 両手をポケットに入れて飛ぶように階段を上る。ガラス扉の中には人影があった。ぼ
くは扉の前に立って煙草を二本、吸った。出てきたのは、中年の女性だった。許容量を
超えて膨れ上がった鞄を億劫そうに肩に掛けなおし、すれ違いざまに彼女は、すみませ
ん、と言った。
「どうも」とぼくは答えた。入れ替わりに小部屋に入る。無人受付を売りにする消費者
金融独特のひんやりとした静けさがぼくを包んだ。ATMのタッチパネル上にある「返済」

のボタンを押す。機械の一部がスライドして、大きめの窪みが口を開ける。ぼくはポケ
ットから一万円札を出した。全部で三万円あるのを確かめてからそれを窪みの中に落と
し、「確認」ボタンを押した。窪みはガガガっと、故障を思わせる音を立てて閉まった
。引き換えに出てきた利用控の返済残高がゼロになっている。これで最後だ、とぼくは
思った。もう、二度と来るものか。
 しかし二時間後、ぼくは再びガガガの音を聞くことになる。
 いつものことだ。

             ※

「百年後も愛していてくれる?」と彼女は訊いた。
「もちろん」とぼくは言った。「死ぬまで一緒だ」
 彼女は目を細めてぼくを見つめ、ぼくは優しく彼女の手を取った。時間は実に素早く
流れ、二人の貴重な空気を掠め取っていった。別れの時をぼく達は惜しみ、また一年後
まで会えないオリヒメとヒコボシになった気分で熱く唇を重ねた。
 海沿いの国道は、おきまりのデートコースだった。林間道から海へと抜ける曲がり角
を、ぼくはいつも強くアクセルを踏み込んで曲がった。それはおまじないのようなもの
だった。海沿いの道に入ってからは、一定の速度を保った。ヘッドライトに照らされた
景色は見る間に色のない残像となって消えた。
 海沿いの道。左手に広がるのは、ぼく達がはじめて出会った海だ。道はなだらかなカ
ーブを描き、彼方には星とも夜間灯ともつかぬ光が明滅していた。
「どこまで行くの?」と彼女が訊ね、「どこまでもさ」とぼくが答えた。
 その時、ぼく達は確実に「物語」の中にいた。

             ※

 ……物語って何だ? 笑い話か?
 当時、ぼく達はまだ大学生だった。……大学生! なんて朗らかな響きだろう。まっ
たく呆れるほど罪のない響きだ。
 やはりあの頃、ぼく達は絶望的に若かったのだ。

             ※

 午前の遅い時間、ぼくはパスタを茹でていた。幅広のフェトチーネ。煮えたぎる鍋を
十一分間かき混ぜるのはぼくに課せられた一つ目の役目だ。問答無用で押しつけられる
義務は、料理の工程が進むに連れ増していく。抗うすべはない。ぼくは、やらなければ
ならないことを、ただ機械的に連鎖的にこなしていけば良いだけの存在だ。少なくとも
、今のところは。
 どうせ見られているわけはないと軽んじて、ビールを飲みながらぼうっと考え事をし
ていた。本当なら彼女はぼくのそんな態度を許さないに違いなかった。彼女はパスタの
茹で加減に対しては異常なほどこだわる人間なのだ。少し固めのアル・デンテ。しかし
この数ヶ月、背中に視線を感じたことはない。
 そっと振り向いてリビングを窺うと、手鏡に向かって熱心に化粧をしている後ろ姿が
見えた。ぼくはわざと下品な音を立ててビールを飲み、おまけにプハーっというあのい
やらしい呼気を洩らしてみた。だが彼女は鏡越しにちらっとぼくと目を合わせただけで
、何も言わなかった。
 十一分。タイマーを止めた後、ぼくは茹であがったパスタをざるにあけ、ソースを作
り始めた。オリーブオイル、ニンニク、スモークサーモンの切り身、生クリーム。サー
モンクリームパスタは、彼女の大好物だ。この家では、ぼくには自分が作る料理の選択
権すらない。
「アキ、今日はどうするの」彼女が唐突に言った。
「どうって……別にどうもしないよ。君の好きにすればいいさ」とぼくは言った。
「何かしなきゃならないことは? 一つくらい、あるでしょ」
「いや、特に。リエに合わせるよ」
 彼女の名前はリエという。
 リエは一瞬いらだつようなそぶりを見せたが、すぐに諦めたように首を振った。
「そう……じゃあ、これ」
 千円札が数枚、杉のコーヒーテーブルの上に置かれた。
 ぼくはすぐにはそれに手を付けなかった。リエと目が合うと、首をすくめてみせた。
リエは無表情のまま目をそらした。
「夜になったら迎えに戻るから」
「え? どこか行くの?」とぼくは訊ねた。
「天国」
 リエはそう言って、腕時計を見つめたままかすかに微笑んだ。
 結局、彼女はサーモンクリームパスタには口もつけなかった。
 
 太陽が一番高いところからゆっくりと沈んでいくのを、ぼくはバルコニーに山ほど置
いてある鉢植えの世話をしながら眺めた。バルコニーは広い。水と肥料をやり、たまに
少し葉を摘むだけの作業だが、全部こなすにはまる一日かかる。ぼくもはじめは嫌がっ
ていたが、最近はそうでもなくなった。世話をするのは確かに面倒だが、花を見ている
と心が和んでいい。

 黙々と花をいじっていると、決まって、既に色彩を失った心に炙り出されるものがあ
る。一緒に住みはじめた頃、いつも愛おしそうに花を眺めていたリエの横顔だ。彼女は
べゴニアを特に好んだ。
 当時まだ大学生だったリエは、頬からうなじにかけてのラインがとても綺麗だった。
髪も今みたいに茶色くちぢれてなどいなかった。栗色のストレート・ヘアは、必ず右か
左のどちらかが耳にかけられ、その奇跡的なうなじが露になった。ぼくはうなじが見え
る位置に立ち、時にはそこに触れたりもした。彼女はその度にくすぐったそうに身をす
くめ、小さな叫び声をあげた。今でこそ酒のせいでしわがれてしまっているが、当時の
彼女の声、細くしかし張りのある声は、すれ違う人々がこぞって振りかえるくらい魅力
的だったのだ。

 ふと感じた悪寒に身を震わせて、ぼくは部屋に戻った。サマーセーターしか着ていな
かったためすっかり冷え込んでしまった体をさすりながら、革張りのソファに腰かけた
。コーヒーテーブルの上には飲みかけのマグカップがあった。リエのものだ。子供っぽ
いクマの絵がプリントされている。ぼくが昔ゲームセンターで景品としてもらってきた
安物のマグカップ。そんなものを彼女がまだ使い続けていることが意外に思えた。広い
部屋と高級な調度品の中で、乳白色のカップだけがいかにも不釣り合いで、じっと見て
いるとそれは現在の自分自身の境遇と重なった。ぼくは残っていたコーヒーを捨て、マ
グカップを洗って食器棚にしまった。それからリビングの掃除をした。掃除機をかけ、
木製の家具を丹念に磨き、窓を開けて空気を入れかえた。それでもリエが吸った煙草の
臭いは完全には消えなかった。それはこの部屋の至るところに深く、深く染み付いてい
るのだ。まるで大人になったぼく達の体に意図せずしてこびり付いた、無意味で愚かな
業のように。それは過ぎ去った年月の長さを雄弁に物語っている。臭いだけではない。
新築時に借りた時は目の覚めるような純白を誇っていた壁も(リエが気に入って譲らな
かった白い壁)、今となってはうっすらと靄がかかったみたいにくすんでいる。
 部屋の掃除も、大体がぼくの仕事だ。ぼくはまだ部屋が二人の共有物だったあの日々
の豊かな幸福、その残滓を求めて、部屋の隅から隅までをぴかぴかに仕上げる。しかし
、年月によって塗り重ねられた垢は予想以上に厚く、未だその面影をすら見つけること
はできない。

             ※

 二人で語りあった幾多の夢は、その一つ一つが現実のものとなるやいなや、輝きを失
って石炭屑のごときガラクタに変質した。そしていまや、夢という概念そのものが、ぼ
く達の間から失われつつある。
 過ぎ去った過去の時間は、もしかするとぼく達の想像を遥かに超えて貴重なものであ
ったのかもしれない。

             ※

 夜に帰ってきた時、リエは既にかなり酔っ払っていた。呼び鈴に応じてドアを開けた
ぼくの腕にすがるようにして部屋に入ってくるやいなや、彼女は酒臭い息をまき散らし
て叫んだ。
「猫は? 私の猫は?」
 ぼくは少なからずうんざりした心地で、彼女をリビングまで引きずっていった。リエ
はソファに倒れこみ、仰向けになって苦しそうに二回咳をした。
「水でも飲む?」
「いらない」
「何か欲しいものがあったら買ってくるけど」
「そんなことより、猫よ」とリエは言った。
 ぼくはため息をついた。
「ねえ、聞いてるの? 猫はどこって言ったのよ」
「猫なんて、どこにもいないよ」とぼくは言った。
「アキ、何言ってるの? あなた相当おかしいわ。勘違いしてるんじゃない? 私が言
ってるのは、あの白と茶の仔猫のことよ。あの猫、可愛かったのに。ねえ、すごく可愛
かったんだから」
 ひどく酔った後、リエはいつも何かをなくして帰ってくる。それは時にお気に入りの
服だったり、綺麗な小鳥だったり、今日のように猫だったりするのだが、帰宅してぼく
の顔を見るとまるでそれがぼくの責任であるかのように、激しく非難の言葉を投げつけ
てくる。ぼくは彼女に対していちいち反論したりはしない。いつもただ、黙って彼女の
訴えを聞き流す。もちろん彼女が冗談を言っているわけではないことくらい分かってい
る。
「少し眠った方がいいよ」
 言い終らないうちにかすれた寝息が聞こえてきた。
 随分前から、リエは仕事が終ってもすぐには家に帰らずに、夜の街で遊び回るように
なった。ぼくが人間関係のこじれから勤めていたデザイン会社をなかば追いだされるよ
うにして辞めた少し後のことだったと記憶している。退職が決定的となった直後は、彼
女はむしろ一緒にいられる時間が増えると言って喜んだ。それまでのぼくは、大量の仕
事に追われて一週間の半分は会社に泊まりこむような生活を送っていたのだ。仕事なん
て幾らでもあるわ、のんびり探しましょうよ、焦るぼくにリエはそう言って微笑んだ。
いざとなったら少しは貯金もあるし、何とかなるわよ、と。しかし、若さ故の勢いで借
りたマンションの高額な家賃や、節約という言葉とは無縁の生活費、すなわち生まれて
この方貧乏というものを経験したことのない二人の無邪気さが、瞬く間にすべての歯車
を狂わせた。そしてある日、ぼくはなかなか職が決まらない現実から逃避し始めた。ぼ
くを見るリエの瞳は次第に冷たく感情を失っていき、そのことがぼくの怠惰に更なる拍
車をかけたのだった。
「指輪がないの」
 ほとんど酒が飲めなかったリエがはじめて泥酔して帰った夜、彼女は突然そう言った
。しかし、ぼくがあげた唯一の指輪――幅の広いシルバーのインディアン・リング――
はしっかりと彼女の指に食い込んでいた。
「あるじゃないか」とぼくは言った。
 リエは泣きそうな顔で激しく首を振った。
「違うの。これじゃない。あの綺麗な、七色に光る石の付いた指輪」
 その日がリエが何かをなくしてきた最初の日だった。

 リエがなくしてくる「何か」はいつも、綺麗なもの、可愛いものに限られた。ぼくは
それを彼女の内面の変化――例えばストレスなど――が逆説的に具現したものだと理解
した。おそらくその考え方は間違ってはいなかったと思う。だが、分かったからと言っ
て、ぼくに何ができただろう。生活のための義務を放擲し、無責任な自己世界の安住者
という立場に甘んじていたこのぼくに。
 ぼくはリエの服を脱がせながら、そんなものどこにもないんだよ、と小さな声で呟い
てみた。

 日付が変わるのとほとんど同時にリエは目を覚ました。彼女はまずはっとした表情で
傍らに寝そべっているぼくを見て、それから慌てて服を着替え始めた。
「どこか行くの、もう深夜だよ」
「アキも一緒に行くのよ。言ったでしょ、夜迎えに帰るからって。もう、どうして起こ
してくれなかったのよ」
「酒は、抜けたの?」
「あんなの、大したことないわよ。友達が変なお酒飲ませるからちょっと気分が悪くな
っただけ。嫌だって言ったのに、私」
「かなり苦しそうだったけど」
「私が大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫なのよ。それより、急いで準備して。早
く行かないと終っちゃう」
 そう言ってリエはクローゼットから何かを取りだすと、ぼくに向かって投げつけた。
それは焦げ茶色の革ジャケットだった。この一年のうちで、唯一ぼくが自分の稼ぎで買
ったもの。ぼくはそれを、行きつけの八百屋の親父に頼まれたチラシのデザイン料で買
ったのだった。生活費のすべてをリエの収入に依っているぼくにとって、その革ジャケ
ットには特別な思いがあった。だが、受け取ったジャケットを手に持ったまま、ぼくは
一瞬生じた戸惑いを隠せなかった。たまに稼いだ金を生活費にまわすことなく自分の衣
服に使った勝手至極な同居人に対して、リエは当然憤慨し、従って彼女はジャケットに
対しても良い感情は持っていないはずだったのだ。
「一体どこに行くんだよ」とぼくは訊いた。
「天国よ。言ったでしょ」とリエは鏡に向かってぶっきらぼうに言った。

 タクシーを捕まえるためには、国道まで出なければならなかった。街灯もまばらな道
を足早に歩くリエの後に、ぼくは影ぼうしのように付き従った。リエは、ぼくの存在な
どまるで気にもかけない様子で歩いていく。ブーツのカカトが地面をたたくコツコツと
いう音が、深夜の住宅街の静寂を裂く。リエのロングコートは風に舞い、規則的に開い
たり閉じたりした。まるで蝙蝠の翼のように。

          ※

 「アキの描く絵、好きよ」
 リエは曲線を多く使ったぼくの絵のすべてを誉めた。彼女はその言葉を、毎回真剣な
表情で発したので、おそらくそれは本心だったのだと思う。純粋に絵を描いていた頃、
絵を職業にしようなどとは露ほども思わず、ただイメージのおもむくままに描き殴って
いた頃の話だ。
 物心ついた時にはもう、ぼくは絵のとりこになっていた。ぼくが生まれてはじめて描
いたという絵を、母に見せてもらったことがある。原色のクレパスで画用紙の余白をむ
ちゃくちゃに埋めただけの絵は、母によると道端で交尾するつがいの野良犬を描いたも
のらしい。「私は、わざわざそんなものを描くなんて末恐ろしい子だわって思ったの。
だけど、お父さんは将来が楽しみだって笑ってたわ」と母は懐かしそうに語った。だが
正直言ってぼくは、絵のモデルになど興味はなかった。ぼくがその絵を見て強く心をひ
かれたのは、その乱暴なタッチと無神経な配色だった。言葉もろくに話せない二歳のぼ
くは、どうして犬を赤や緑で描いたのだろう。
 とにかくそれ以来、ぼくにとって絵はいつもごく近しい存在であり続けた。画用紙の
上では、ぼくは絶対的な創造者であり、統治者だった。ぼくは好きな時に好きな世界を
好きなだけ生み出し、その万能なる力に酔いしれた。
 大学を卒業し、小さなデザイン会社に勤め始めてから、絵は「趣味」から「独立する
ための手段」へとその意義を変えた。ぼくは「リサーチ」と称して、既に一線で活躍し
ているイラストレーターの絵を模倣し、それに小難しい分析と理屈を添えた。
 ある時、リエはそんなぼくを見て、こう言った。
「あなた、評論家になりたいの?」
 だがぼくは、リエが言うところの「評論」を執拗に続けた。それが自分自身の技術向
上につながると信じて疑わなかった。たくさんの画集を買いあさり、毎週どこかで開か
れている個展へと足を運び、図書館に通っては絵画の歴史書をひもといた。
 ……気付いた時には、ぼくは自分がどんな風にして絵を描いていたのかすら思い出す
ことができなくなっていた。
 一度迷いこんだ迷宮は、果てしなかった。だが多分、光はそこら中に差し込んでいた
のだろう。要はちょっとしたタイミングの問題だったのだと思う。タイミングと折り合
い。ぼくに一番欠けているもの。

          ※

 ぐるぐる回るカラフルな照明は、そこに集う人々から色を奪っていた。更に、誰もが
笑っているか変にすましているかで、ぼくにはみんな同じ顔にしか見えなかった。
 店内中央に広く取られたダンススペースには、大音量で流れる音楽に合わせて、扁平
な人の波が揺らいでいる。不可思議な電子音に乗った小気味良いラップは盛り上がり続
ける場の熱気をこれでもかと掻き回す。充満する煙草の煙。際限なく上昇して空調を乱
す人々の体温。
 「ここは小さいけど、アットホームで良いところよ」とリエは言った。
 リエはこの店の常連らしく、ひっきりなしに知り合いから声がかかる。リエはその度
にぼくには見せたことのないような笑顔とキョウセイを振りまいた。浅黒い男女。おま
けに皆ひどく酔っている。店員の一人が、リエの姿を認めて二人分の席を空けてくれた
。壁際のハイチェストだった。今までそこに座っていた二人連れの女の子がぼく達をき
つく睨む。体を押し込むようにして座ると、席を作ってくれた店員が、何飲む、とリエ
に向かって叫んだ。リエはぼくの知らない酒の名を言い、ぼくは、ビール、と言った。
店員はぼくの言葉など聞こえない様子で、一度もこちらを見なかった。だが、ビールは
ちゃんと運ばれてきた。
「このお酒、結構いけるのよ。飲む?」
 そう言われて一口飲んでみてぼくは驚いた。強い酒だった。リエは涼しい顔でその得
体の知れない酒を口に運び、細長い煙草に火をつけた。
「君はいつもこういう所に来てるの?」ぼくはつとめて落ち着いた口調で訊いた。
「そうよ」リエは怒ったような答え方をした。
 ぼくはどうして良いものやら分からずに黙ってビールを飲んだ。
 隣の四人がけの席はすべて女の子で占められていた。次から次へと入れ替わりに男達
がやってきては声をかけている。女の子達はその度に楽しそうに会話を交わし、一人ま
た一人と席を立って男と共に人混みの中へ消えていく。空いた席には新しい女の子が座
り、同じことが繰り返される。改めて店内を見回してみると、そんな光景は至るところ
で見受けられた。
 ぼくはふと、リエが見知らぬ男に肩を抱かれて談笑しているところを想像した。彼女
は一体どんな表情で話すのだろう。その時彼女の手は、密着する男の体に触れているだ
ろうか。
 ぼく達はほとんど言葉を交わさなかった。ただ座って酒を飲んでいた。

 男が来た。腕に巻き付いたブレスレットが、ジャラジャラと音を立てる。ざわついた
店内で、ぼくはしかしはっきりとその音を聞いた。
「久しぶりじゃないか。元気?」と男が言った。
 リエが答えた言葉は、ぼくの耳には届かなかった。
「そのピアス可愛いね……今日は、朝までいるんだろ?」
 リエがまた何か言った。
「え……そうなのか。何か飲む? 買ってきてやるよ」
 男は一度もぼくの方を見ない。
「それじゃあ、一緒に踊ろう。もうすぐ君の好きな曲がかかるはずだ」
 ぼくはわざとそっぽを向いて会話を盗み聞いた。万が一にも彼らと目を合わせること
のないように。

 振り向いた時には、そこにはもうリエの姿はなかった。視界の端で、見慣れた後ろ姿
が人混みに紛れて、消えた。

 一人でビールを飲んでいると、隣の席に誰かが座った。ひどく酔っ払った男だった。
男は、机に突っぷして苦しそうに荒い息をはいた。そしてそのまま動かなくなった。リ
エが戻ってきた時のことを考えると憂鬱な気分になったが、結局ぼくは何も言わなかっ
た。男の体からは、雨上がりの草地の匂いがした。
「情けない顔してるんじゃねえよ」
 ふいに男が喋った。ぼくは思わずびくっと体を震わせた。眠っているとばかり思って
いたのだ。
 男の顔を見た。まだ若い。
「まだゼロか」と男は言った。
「何の話だ」とぼくは言った。
「女だよ。引っかけに来てんだろ?」
「違う」
「いいよ、無理すんなって。ダセえやつはみんなそう言うんだ。自分はナンパ目的で来
てるんじゃないってな。……でもよお、じゃあ何しに来てんだって、俺は言いたいね。
飲みに来てる? はっ、こんなクソうるさい所にか。それに、お前一人で来てんだろ?
 まあ確かに純粋に踊りに来るやつもいる。だがそういうやつらはお前みたいにぼけっ
と椅子に座って酒を飲むことはしないよ。なあおい、結局女なんだろ? お前、指くわ
えて他人のナンパ見てるだけじゃ、獲物は手に入らねえぞ」
 ぼくは無視することにした。しかし男は一人で喋り続けた。
「ナンパってのは理屈よりもまず行動だ。相手に考える隙を与えずに、押しまくる。ど
うせ女の方もそれが目的なんだ。つまりは、勢いだよ、勢い。そうだ、なあ、一緒にや
るか? 女ってのは大体が二人連れだからな、その方が成功しやすい。なあ、気に入っ
た方をお前にやるよ。ま、どうせ後で取り替えるんだからどっちでも同じか、はは。…
…おい、聞いてんのか」
 ぼくはわざと大きな音をたてて席を立った。男は一瞬ひるんだ様子を見せたが、すぐ
に離れていくぼくの背中に向かって大声で叫んだ。
「おい、お前の女」
 ぼくははっとして歩を止めた。この男は……ぼくがリエと一緒に来ているのを承知の
上でからかっていたのだ。振り返って、男を見る。
「へへ、お前の女な、さっき別の男とトイレに消えたぜ」男は、唇を吊り上げて笑った
。下品なしゃがれ声で、嘲るように。
 その瞬間、胸の奥で何かが弾ける感覚があった。ぼくは考えるより先に右拳を突き出
していた。
 だが、その拳は何も捕らえなかった。
 空振りの勢いでぼくは大きくよろけ、テーブルに体をぶつけた。グラスが割れる派手
な音が響いた。さあっと、周りの人間が引く気配がした。代わりに、何だ、どうした、
とどなる店員の声が近付く。逃げなければ、そう思った。反射的にぼくの体は人だかり
を掻き分けていた。強く打った脇腹に鈍い痛みがあったが、気にせず走り出した。襟首
を誰かの手が掴む。振りほどく。かたまって立つ女達を突き飛ばして走った。転ばない
ように注意深く、前だけを見て。顔面が異様に熱かった。

 ……どこかで男の笑い声がする。

 エントランスを出たところで、腕を掴まれた。
 ぼくは何とかして腕を振りほどこうともがいたが、すぐにその頼りなさに気付いて振
り向いた。
 リエが立っていた。ぼくと同じように息を切らせている。
「何……してるのよ」途切れ途切れの声は、しっかりとした意志を感じさせた。
 ぼくは一瞬たじろぎ、そしてそんな自分の態度を恥じた。
「どこ行くつもり?」
「俺……帰るよ」
 ぼく達を追って出てきた店員がイブカシソウにこちらを一瞥し、首をひねって店内に
消えた。ドアがばたんと音を立てて閉まった。
「そ。じゃ、勝手に帰れば」とリエは言った。
 ほんの短い沈黙があった。ぼくにとっては極めて居心地の悪い沈黙だった。ぼくは所
在なさげに髪を触ったり鼻をすすったりした。対してリエは素晴らしく堂々としていた
。少なくともぼくにはそう思えた。彼女は視線を強く保って、ぼくを見ていた。しかし
ぼくが口を開こうとした時、その頼りない均衡は脆く崩れた。
 まるでキスをする刹那のように、リエは顔をぼくに近付けて、囁いた。
「私はね……液体のような恋愛がしたいの」
 ぼくはリエの瞳から目をそらせなかった。不思議なことにその瞬間、確かにぼく達は
強く引きあった。それは随分懐かしい感覚だった。二人の間に存在する空間は一気に収
束し――数秒ののち、ぼくの無言によって緩やかに拡散した。 
「溶けあって、一つになるような……ねえ、液体みたいな恋愛がしたいのよ」
 落ちついた声でそう言うと、リエはようやくぼくから目をそらした。

 喧騒がまたリエを飲み込んだ後も、ぼくはしばらく店の前から離れられなかった。ド
アが開く度に、そこにリエの姿を求めた。そのくせ、自分からその中に戻ろうとはしな
かった。
 はたから見ればぼくはきっと孤独な迷い子のようだったろう。
 
 雑然とした繁華街の一角には、光と影が思いもよらぬ形で存在している。例えば、華
やかなナイトクラブとその裏側に伸びる地下道のように。
 そこはホームレス達のたまり場だった。燦然と輝くネオンライトから逃れてきたぼく
を、ちょうど七対のよどんだ瞳が迎えた。すえた臭いが鼻をつく。ぼくは地下道の壁に
低く設けられた手すりにもたれかかった。誰も、何も、喋らない。
 煙草を吸おうとポケットに手を突っ込んだが、そこには固い箱の感触はなかった。お
そらくクラブに忘れてきたのだろう。代わりに、紙が数枚入っていた.それは小さく折
りたたまれた千円札だった。昼にリエがくれたものだ。無数の人間の手垢が染み込んだ
千円札は、全部で四枚あった。
 四千円。「ぼく」という人間の一日当たりの値段。最も矮小な誇りを切り売りして得
た唯一の収入だ。しばらくそれを眺め、またポケットに収めようとして思いとどまった
。
 ぼくは一番近くに横たわっていたホームレスに声をかけた。
「おっちゃん……これ、やるよ」
 ホームレスは動かなかった。下水道に流れついたぼろ布のように、横たわったままだ
った。耳を近付けると、乾いた寝息が聞こえた。
 ぼくは、ホームレスの薄汚れた上着のポケットに四枚の千円札をねじ込んだ。
 ホームレスは、まだ意志を持たない赤子のような顔をして眠っていた。四肢を一杯に
縮めたその姿は、とても幸せそうに見えた。

           ※

 ぼく達は新聞を取っていなかった。一緒に暮らし始めた日、ぼくが新聞配達人の相手
をしていると、リエは血相を変えてその哀れな勤労学生を追い返した。
「帰って! お願いだからくだらないルーティン・ワークを私達に押し付けないで!」
 人生における様々な選択は、すべからく己の絶対的な意志によるべきだとリエは言う
のだった。
「だって毎朝あんなにくだらないものを強制的に読まされるなんて、考えただけでぞっ
としない? 私にはそんな理不尽な責任を負う自信はないわ」
 現実に新聞の存在がそれほどの問題であるかどうかは別として、そのようにして新聞
はぼく達の生活から排除された。ぼくは特別異議を唱えることはしなかった。まあぼく
だって特に新聞が好きなわけでもなかったし、少なくとも日々を過ごしていく上で、情
報がなくて困ることなどそんなにはなかったのだ。
 しかしまったく新聞を読まないわけではなかった。「見本紙」という形で、大体週に
一回くらいの割合で新聞はポストに投げ込まれた。しかし、それに目を通すのはいつも
ぼくだけだった。リエは頑なに拒んだ。一度、新聞の一面をリエに見せたことがある。
こんな記事だった。
『連日の悲劇 呪われた学校――今度は飛び降り自殺か』
 福岡のある中学校で三日続けて生徒が自殺をしたというニュースだった。服毒、首吊
りときて、今度は校舎の屋上から飛び降りたのだという。大袈裟な飾り文字を見ただけ
で、ひどく嫌な気分になった。ぼくはぱらぱらと新聞を捲って、特に面白い記事がない
のを確認してから、ソファでコーヒーを飲んでいるリエに向かってそれを投げた。世も
末だよな、とか何とか悲しいくらいセンスのない言葉を口にしながら。
 リエは突然押し付けられた記事をちらりと見ると、つまらなさそうに新聞をゴミ箱に
突っ込んだ。愚かなぼくは脳天気に言葉を継いだ。
「何も自殺することはないのに」
「あら、そう? 私は自殺も立派な手段の一つだと思うけど」
「でも、死んでしまえば終りじゃないか。月並みな言い方だけど」
 リエは複雑な表情をした。
「あなたって、そんな風に他人の死を語れる人なのね。高い所から……一体何様のつも
り?」
 ぼくは彼女の意外な感情の高ぶりに驚いた。そんな時、ぼくはいつも話すべき言葉を
見失ってしまう。その時もぼくは黙ったままリエの話を聞き、彼女が中学時代に一人の
友人をなくしていることを知った。自殺だったの、とリエは言った。
「彼女、たったの13年間しか生きられなかったの。ねえ、13年間よ?」
「それは分かるけど、どうして君がそんなに興奮する必要があるんだい? 大体もう1
0年近く前の話だろう?」ぼくは何とかそれだけ言った。
「彼女はね、とても真面目で、しっかりした子だったの。中学生とは思えないくらい。
ねえ、彼女は一体何に向かって生きてたの? 彼女の夢とか、目的とか、そのための努
力とかそういうものは、一体どこにいっちゃったの?」
 リエは体を震わせ、泣いてさえいた。
 ぼくは彼女にかけるべき言葉を持たなかった。荒れるリエの前で、何一つ行動を起こ
すことができないでいた。
 しかしもちろん、リエはぼくの言葉なんて待ってはいなかったのだろう。彼女は涙を
拭こうともせずにぼくの目を見た。
「だって彼女、まだ中学二年生だったのよ?」

 一つの終わりはまた新たなる始まりだという。別れは次の出会いへの扉だという。で
は絶望は? 孤独は? ……死は? ぼくは時折、自分を取り囲む果てのない虚無につ
いて考えずにはおれなくなる。

          ※

 地下道を抜けて家までの道を、ぼくは歩いて帰った。途中で少し雨が降り、革ジャケ
ットの肩を濡らした。無性に空腹を感じて通りかかったコンビニエンスストアにふと足
を踏み入れたが、自分が一文なしなのに気付いて自動ドアのところで引き返した。鼻と
耳にピアスをしたレジ打ちの女が舌を鳴らすのが聞こえた。
 家までは思ったより遠く、歩き出してほどなく、ぼくの両足に軽い疼きが走った。な
るべく足首に負担をかけないようによたよたと歩を進める。
 トラックの排気ガスに辟易して、裏通りを選んだ。高い壁に挟まれた裏通りは、巨大
な家が立ち並ぶ高級住宅街だ。電柱に貼られた不動産の広告ビラが風にはためいている
。『あなたも憧れの地に住んでみませんか? 緑と笑顔のあふれる街』 自分にとって
の憧れの地を考えると胸やけがした。妄想すら、健全な精神の産物だということをぼく
ははじめて知った。街灯の光がまばらに濡れたアスファルトの上を規則的に行き過ぎる
。ぼうっと足元を見つめて歩いていると、無重力の中にいるような浮遊感を覚えた。ぼ
くはふと死を思った。自分自身の死、そして次に何故か、リエの死を。「何か」を失い
続けて至るその先の暗闇を。
 そう言えば、最近「生」について考えたことがない。

 重要なことに気付いたのは、ようやくマンションの前にたどりついてからだった。ぼ
くは大きなため息をついてマンションの入り口に座った。やり切れない思いすら、すぐ
に疲労が飲み込んだ。開かない自動ドアを見上げる。部屋の鍵は持っていたが、フロン
トオートロックの自動ドアは専用のカードでしか開かない。カードはリエが持っていた
。試しに部屋番号をプッシュしてみるが、当然反応はない。仕方なくリエの帰りを待つ
ことにした。リエでなくとも先に他の住人が出入りするだろう。その後について入れば
いい。
 しかし、そんな時に限って、どれだけ待っても誰一人として姿を現さなかった。リエ
も帰らない。ぼくは結局辺りが白んで管理人が掃除に来るまでそこにいなければならな
かったのだ。
「あら、まあ」管理人はぼくを見るといかにも呆れたといった表情をした。
 おはようございます、とぼくは照れ隠しに笑ってみせたが、果たして老女の目にはど
う映っただろう。

 一晩中恋焦がれた部屋のドアを開けてぼくは我が目を疑った。玄関の上がりかまちに
リエが倒れていたのだ。
「リエ!」ぼくは自分でも驚くくらい大きな声をあげた。
 ううん、と唸ってリエは体を動かした。酒の臭いが漂った。
「リエ」もう一度呼びかけてみる。リエは動かない。おそらくはタクシーでぼくより先
に帰っていたのか。ぼくはリエを抱え上げて寝室へと運んだ。
 リエの服を取り替えてベッドに寝かせると、ぼくはリビングに戻り、彼女のマグカッ
プを使ってコーヒーを一杯飲んだ。煙草を吸うと、喉に痰が絡みついた。すぐにそれを
揉み消して、うがいをした。口に含んだ水道水には、錆びた鉄のような苦味があった。
しばらくソファで短いまどろみと覚醒を繰り返した後、そろそろ寝ようかと思って洗面
所で服を着替えていると、寝室から呼ぶ声がした。
「アキ、ねえ、アキ、どこにいるの?」リエの声は、ほとんど悲鳴に近かった。
 ぼくは急いで寝室まで走って行った。
「アキ、どこ行ってたのよ!」ベッドの上に座るリエの瞳はうつろだ。
「一体どうしたって言うんだよ」
「アキ、私……私、ねえ、怒らないで聞いてくれる?」
「どうしたの? 言ってみなよ、怒らないから」
「本当? 何があっても怒らないって約束してくれる?」
「約束するよ。絶対に怒らない。たとえ君の浮気を知ったとしても、絶対にね」
 リエはぼくの言葉にはいささかの反応も見せずに、うつむいてぶつぶつと何か呟いた
。ぼくの皮肉はやはり場違いだったようだ。それとも単にリエの耳には届かなかったの
か。ぼくは慌てて続けた。
「まあ、とにかく話してみなよ」
 それでもリエはなかなか話そうとはしなかったが、ぼくが背を向けて部屋を出ていく
素振りを見せると、ぎりぎり聞き取れる程度の声で言った。
「ごめんね……帽子……あの、なくしちゃったみたい。多分どこかに忘れてきたんだと
思うんだけど」

           ※

 波の立たない海だった。
 海岸沿いの路肩に車を止めると、ぼく達はテトラポットや砂浜などそれぞれ思い思い
の場所に座って、ゆるやかな風を感じ、潮の匂いを嗅いだ。そこは岩の多い海岸で、夏
でも海水浴場などには決してなり得ないような場所だったが、だからと言って釣り人の
姿も見かけたことはなく、従っていつ行っても人気がないのがぼくのお気に入りだった
。ぼく達は多い時には週に幾度もそこへ足を運んだ。
 物語の中のぼく達は、誰もいない砂浜でしばしばお互いにプレゼントを交換し合った
。二人とも、相手がプレゼントを持っているのを知りながら、海岸につくまではそんな
ことはおくびにも出さず、砂浜で必ず一度キスを交わした後で、おもむろに包みを差し
出すのだ。それは二人にとって、物語の一行一行を書き足していくような確認行為だっ
た。定期的にせねばならない、ささやかだが、大切な儀式なのだった。
 固く結ばれていた二人の仲が、たった一度だけ崩れかけたことがある。それは儀式の
最中の些細な口論から始まった。その時、ぼくがあげたニット帽は、結局堤防の傍に立
つまだ若い木の伐採されて剥き出しになった幹に被せられた。帽子はまるで若木のため
にあつらえたかのようにぴったり収まったので、ぼく達は何となく冷酷な裁判官に別離
の最終宣告を言い渡された気分になって、重い足取りで家路についた。
「帽子は気に入ったんだけどな」
 帰り際にリエはぽつりとそう洩らした。
 しかしもちろんぼく達の仲はそれで破局を迎えたわけではない。

          ※

 ベッドの横で、ぼくは脱いだばかりの服をもう一度着た。脱ぎ捨てた部屋着は、いつ
ものように足でベッドの下に押し込んだ。リエのコートから原付バイクの鍵を抜き取る
。冷たい空気を感じて、細く開いた窓を閉めた。
 リエは聖女のような無表情で眠っている。目覚めた時には、先ほど彼女自身が発した
言葉は綺麗さっぱり忘れられていることだろう。夜の魔法は、いつか彼女を解くだろう
か。ぼくはしばらく彼女を眺め、生まれて初めて決心した少女みたいな素早さで踵を返
して部屋を出た。

 五度目のキックで、ようやくエンジンがかかった。
 ぼくはバイクにまたがって、ジャケットのファスナーを首元まで上げてひととき心に
蓋をした。冬の冷気の前では、まばゆい陽光は悲しいくらい無力だ。
 記憶をたどって、がらがらに空いた国道を走った。ぴったり四回曲がって入った田舎
道も、休日だからと言って混み合うことはない。古い原付ではやはりスピードに難があ
り、起伏の激しい林間道では自転車よりも遅い速度で走らねばならなかった。厚く張り
出し始めた雲に隠れた太陽が、おそらくはかなり傾いた時間になって、海沿いの道に出
た。
 海は、見えない光を照り返し、静かに凪いでいる。

 ただひたすらに理想を追い求めるぼくと、少なくとも最低限の現実は注視せねばとい
う彼女。ぼく達は、ただ一つ時代遅れのロマンチストであるという面においてのみ、共
通している。すなわち油と水のようなぼく達は、互いにない部分を補完し合ってはじめ
て同志たり得た。緩んだネジは、締め直さねばならない。日々何かを失いながらリエが
向かう先は、もしかすると暗闇などではないのかもしれない。しかし、例えそうであっ
たとしても、いずれ彼女はどこかへ向かうわけであり、ぼくはそれを指をくわえて見送
るわけにはいかないのだ。帽子を見つけに行かなければ、ぼくはそう思っていた。その
行動の意味など、もちろん知るはずもなかった。自分の行動の愚かさは、現在進行形で
認識するべき類のものではない。そんなものは、後になってのんびりと振り返れば良い
のだ。行動に対する衝動はぼくにとってはつまりリエの一言に集約された。
「帽子……なくしちゃった」
 彼女は、そう言ったのだ。
 なくしたものは、取り戻さねばならない。それが例え無為なる結果を生み出すとして
もだ。いや、ぼくが求めているのはまさにその無為なる何かなのかもしれない。前進よ
りも効果的な躊躇、獲得に勝る喪失、思考に先んじた行動……そんなものが本当にある
のかという問いは……やはり無意味だ。

 海岸の木は、年月通りに雄々しく伸びて、立派な大木へと成長していた。当然のこと
だが、幾筋にも枝分かれした巨木のいずこにも、ぼくはあの時の帽子を探し出すことは
できなかった。ぼくの心は一瞬晴れやかになり、そして次に焦燥が色濃くなった。未練
がましく木を見つめたまま、しばらく動けないでいた。

 夜までぼくは海岸にいた。
 ぼくは砂浜まで原付を引っ張ってきて、そこにもたれて座りながら海を見た。
 沖の方に、陸地はない。延々と続く海岸線を右手にずっとたどった先には、灯台の
立つ岬があった。灯台は弱々しく発光している。無音。さすがに寒い。唯一剥き出しに
なった頬が凍るようだった。
 灯台の光は、浮きつ沈みつする海上のブイを映し出して揺れている。ふいに、その光
が消えた。
 ぼくは目をつむって海に意識を集めた。漆黒の中に生命の鼓動が脈打っているような
気がした。何かが、いる。その感覚は徐々に大きくなり、遂には圧迫感にも似た気配に
飲み込まれそうな錯覚を覚えた。
 目を開く。 
 ぼくの瞳は何をも捕らえなかった。
 そこには深い紺青の闇があった。
 闇の中から、さざ波の音が薄く染み出した。

                     (了)



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A.Shimoura creats some culture. Shall we play and pray?
Everybody Go,,,,,,,,Ahead!!!!
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