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Date: Fri, 15 Oct 1999 07:45:48 +0900
From: "Atsushi.S" <a-shimo@sol.dti.ne.jp>
Subject: [bun 00338] [Novel]  恐竜は如何にして絶滅したか
To: bun <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <38065D1C33E.790DA-SHIMO@smtp.sol.dti.ne.jp>
X-Mail-Count: 00338

お久しぶりのあつしです。
最近、ここのML死んでますね。

さて、

今度ウチのHPで友人のイラストレーターと一緒に
一つのお題に即した作品を創るという企画をやるんですが、
それ用に一つ小説を書きました。
共通のお題は「恐竜」。
何かのお題に縛られて書くのは始めてだったので、とりあえず大変でした。
ばばっと書いてみたので、とりあえず投稿します。
はっきり言って、あんまり深く考えず、感性のみに頼って書きました。
枚数は35枚くらい。
何でもいいのでご意見・ご感想お願いします。

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「恐竜は如何にして絶滅したか」


 ぼくの部屋には、開かずの押入れがあった。
 もちろん本当に開かないわけじゃない。それはれっきとした押入れなのだから、押入
れとしての最低限の役割は果たしていると言える。すなわち「収納箱」としての役割だ
。季節ごとにそれは開かれ、大量の衣類や布団の入れ替えが行われる。その他にも、ぼ
くがまだ幼い頃に宝物にしていたおもちゃ箱なんかも入っていたな。でもそれはもう過
去の遺物と化していた。十数年間陽の目を見ることもなく、押入れの一番奥でひっそり
と眠るひしゃげた段ボールのオブジェとなっていた。

 季節の境目を過ぎると、押入れは大きな和箪笥と本棚で塞がれて、「開かず」となる
。

 ねえ君、この話を信じるかどうかは君の勝手だ。別に暇潰しの作り話ととらえてもら
っても一向に構わない。ただ言っておきたいんだが、つまらないほら話で君を混乱させ
たってぼくには何の得もない。自分で言うのも何だが、ぼくは呆れるほど気の弱い善人
だ。それにぼくには空想のカケラを切り貼りして一つの物語を作り上げるような卓越し
た想像力もない。ぼくはクラスの女の子達から無遠慮に向けられる視線や教師によって
与えられる偏差値的評価やなんかにがちがちに縛られた、まったく普通の高校生でしか
ないんだから。ねえ君、ぼくは本当に平凡な人間なんだよ。それだけは分かっておいて
欲しいんだ。しつこいようだけど。

 さて、その話なんだが、うん、とにかく不思議な体験だった。つい三ヶ月ほど前、ぼ
くの父親が病に臥せっていたのは知っているね。結核……? 違う、そうじゃない。肺
炎だよ。風邪をこじらせて軽い肺炎になったのがなかなか治らなかったんだ。入院する
ほどではなかったんだが……ちょうどその時期に起こった出来事だ。
 その頃、ううん、どこから話せばいいのか……とにかくあまりにも漠然とした話だか
らね、まとめるのに時間がかかる。先ほども言ったように、ぼくは特別頭の出来がいい
わけでもないからね……ああ、そうだ、あの時だ、ちょっと待ってくれないか、今ちゃ
んと整理するから。

 ……………………あれは……随分暑い日だったな。ぼくは自分の部屋にいた。そう、
一人でいたんだ。一人で、壁にもたれて雑誌を読んでいた。何の雑誌だったかまでは覚
えていない。床に散らばっているうちの数冊を手に取っては捲り、手に取っては捲りし
ていたんだ。きっと内容なんてどうでも良かったんだろう。もっと言えば、別にそれが
雑誌である必然性もなかったんだ。ただぼうっと何もせずに過ごすよりは、雑誌でも眺
めている方が時間は速く過ぎるだろう? ぼくは目の前にある膨大な量の「時間」とい
うやつが嫌で嫌でたまらなかった。「時間」はまるで眼前に広がる果てのない海みたい
だった。どこまで泳げばいいのか、何を目指して泳げばいいのか、そういうことが分か
らないまま惰性で泳ぐのに耐えられなかったんだ。ねえ君、目的を与えられぬまま大海
原のど真中に放り出された人間を想像してみてくれ。
 まあ、かと言って散らかった部屋を片付けようともしなかったんだから、もし目的地
がすぐそこに見えていたとしても真面目に泳いでいたかは怪しいけれどね。

 家族の誰もそんなぼくを叱ろうとはしなかった。何故なら本来無気力な息子を叱り諌
めるべき両親も、ぼくと同じようにひたすら怠惰を貪るがごとき日々を送っていたから
だ。ぼくには姉が一人いるんだけれども、彼女にしたってぼく達と大して変わりはしな
い。父親が倒れてからかな、そんな風になったのは。布団の中で棒のように横たわる父
親の瞳が次第に濁っていくのを、ぼく達は同じ速度で自分達の意識を曇らせながら、た
だ見ていることしかできなかった。もともとろくになかった蓄えはすぐに底を尽き始め
た。家族の会話はめっきり減り、時折交わされる言葉も毒々しく刺を含むようになった
。はっきりと、何かが歪み始めていた。ぽろぽろとかさぶたが剥がれ落ちるようにして
、色んなものが欠落していくのが、まるで見て取れるようだった。
 何もなくなった家の中で、ぼく達の前には自由だけが残された。手に余るほどの自由
、四方をまっすぐな水平線で囲まれた自由がね。それはゆっくりと、優しくぼく達の首
を絞めていった。抗うことなんてできやしない。それはモラトリアムなんてものじゃな
かった。でもね、ぼく達はそれをいつかは光へと至るひとときのモラトリアムだと盲信
することで、かろうじて正常な精神状態を保っていたんだ。

 ……また話がずれてしまったね。そうだ、暑い日にたった一人で部屋にこもって雑誌
を読んでいた時のことだ。いつもと同じ退屈な時間だった。ただ食い潰すためだけの時
間……ぼくは雑誌を読み、覚えたての煙草をふかし、そうだな、独り言なんかも呟いて
いたかもしれない。とにかく、いらいらしていたんだ。まあ、いつもと同じくだらない
浪費のための時間だった。……その音が聞こえるまでは、ね。

 その音ははじめはごく小さいものだった。でも一体どこから聞こえてくるのかは分か
らなかった。上からなのか、下からなのか。左なのか、右なのか。物音を聞いて方向を
判断する感覚が麻痺してしまったみたいだった。どんな音かって? そうだな……金属
質で、こう、背筋がゾクゾクっとするような高音なんだ。ガラスを引っ掻いた音? い
や、ちょっと違うな。もっとリアルな音だ。骨の髄まで響くような……「キーン」と
「カーン」の中間くらいの音、と言っても分からないだろうな。まあいい、その音は徐
々に大きくなった。まるで向こうからこちらへと近付いて来るみたいにね。それから大
きくなるに連れ、がさごそと鼠が動くような音も混じり始めた。実際ぼくもそれを鼠だ
と思った。何かの拍子に鼠が屋根裏に迷い込んだんだろうとね。そいつは結構なスピー
ドで近付いてきて、ついにはぼくのすぐ側まで辿り着いたみたいだった。
 分かるんだよ、気配を感じたんだ。

 ぼくは何気なく目の前に置いてある和箪笥を見た。すると何故だかそこから目が離せ
なくなった。和箪笥には小さな足が付いていて、床との間には四,五センチくらいの隙
間がある。その細く真っ暗な空間に目が吸い寄せられたんだ。
 案の定そいつは床に薄く積もった埃を巻き上げて姿を現した。何だったと思う? も
ちろん鼠なんかじゃなかった。驚くなよ、そいつの正体は……なんと恐竜だったんだ。
しかもとかげくらいの大きさの恐竜だ。

 おいおい、笑うなよ、本当の話だ。まあでも、その瞬間はぼくも信じられなかった。
ちょっと変わったイモリが出てきたかとも思ったさ。そりゃそうだ。一体誰がある日突
然、箪笥の下から恐竜が出てくるなんてことを信じられる?

 でもやっぱりそれは恐竜だった。ステゴサウルスって知ってるかい? 菱型の角を背
中に生やした草食恐竜だよ。ぼくはその時ちょうど『恐竜は如何にして絶滅したか』っ
ていう本を読んでいたからすぐに分かった。ステゴサウルスはしばらくの間のっそりと
部屋の中を歩き回り、また箪笥の下に姿を消した。
 え? それでもやはり、見間違いだと君は言うのかい? そうか、そうだろうな……
でも、ぼくには確信がある。あれは絶対に見間違いなどではない。何故なら恐竜はそれ
からも何度となく現れたんだから。
 とにかく、それはサイズは小さいけれど紛うことなき恐竜に違いなかったんだ。

 はじめは驚きと恐怖のあまり、恐竜を見る度に背筋を凍り付かせていたぼくも、すぐ
に慣れた。「極端に非日常なことはしばしば驚嘆を通り越して滑稽である」なんて誰か
が言ってたけど、もしかするとぼくもそれに当てはまるかもしれないな。いや、ちょっ
と違うか。まあ何にせよ、結局ぼくは彼らの存在を一つの現実として受け入れた。
 しばらくすると恐竜達の方もぼくに慣れたみたいだった。恐竜がぼくの目に触れる頻
度は増え、彼らの行動も次第に大胆になっていった。恐竜はぼくの部屋にある食べ物を
食べたりするようにまでなった。食べ物といっても、ポテトチップスとか飴玉だとかそ
ういうものだけど、これがまた本当にうまそうに食べるんだよ。古い樹皮みたいな目尻
を細めて、バリバリと音を立ててね。
 二匹目が姿を現すまでそんなに時間はかからなかった。ディプロドクスだ。こいつも
どちらかというとノロマなタイプだな。三匹目はディノニクス。すばしっこい恐竜だ。
四匹目はティラノサウルス。知ってるだろう? 恐竜の王様だよ。こいつが出てきたと
きにはさすがに鳥肌がたったね。え? ティラノサウルスは肉食だろうって? 何言っ
てるんだい、相手はとかげくらいの大きさだぜ。まあたまに指の先をかじられることは
あったけれどね。最終的に恐竜達の数は七,八匹にもなったかな。
 彼らは我がもの顔で部屋を歩き回るようになった。でも傍若無人というほどでもなか
ったな。彼らは最低限の礼節は守ってくれていたように思う。ほら、また笑う。恐竜に
礼節なんてものがあるのかって? あったんだよ、実に不思議なことだが。

 ぼくは恐竜達の家を作ってやりたくなって、父に頼んだ。いかに相手がグロテスクな
恐竜と言っても、長い時間一つの空間を共有しているとそりゃ愛着もわくってもんだ。
ま、それ以前にぼくは古代のロマンってやつが結構好きなんだ。子供の頃、恐竜の人形
を集めていたこともあるくらいだからね。
 父には安静が必要だったけど、まるっきり動けないというわけじゃなかった。むしろ
肺以外は普通の人より元気と言ってもいいくらいだ。一日中寝てるから体力が有り余っ
てるんだね。それに父の日曜大工の腕はちょっとしたものなんだ。
 もちろん恐竜の家を作ってくれなんて言わないよ。鳥を観察したいから、鳥小屋を作
ってくれって頼んだんだ。ほら、昔良く木の枝やなんかに置いてあったやつさ。自慢じ
ゃないが、ぼくは手先の作業はからっきしなんだ。父はすぐOKしてくれた。彼は本当
に細かい作業が好きなんだよ。

 ……何だって?
 まったく、君ってやつは本当に質問が好きな人間だな。そうやっていちいち人の話の
腰を折るのは良くない癖だよ。ああ、分かってるよ。そのことは今から話す。
 恐竜達は一体どこから来て、どこに帰るのか。それが聞きたいんだろ? ぼくもそれ
については少なからず疑問を抱いていた。まさかいくら慣れたからと言って、やつらは
ぼくの部屋に住みついていたわけじゃないんだからね。恐竜達はいつも必ず、和箪笥の
向こうからやってきて、細く湿気た隙間、その漆黒の中へ消えていく。その先はきっと
、人知の及ばない「あちら側」なのだろうとぼくは推測した。例えば未来の発達した科
学によって生み出されたペット用の恐竜がタイムマシンで運ばれてきたのかもしれない
。いや、例えばの話だよ。そんな目で見るなよ、君だってあの恐竜を見たら同じような
ことを考える筈だ。だってこの時代に恐竜だぜ? 
 そこでぼくは恐竜がいない間に和箪笥を動かしてみた。が、箪笥の下には何もなかっ
た。単なるうす汚れたカーペットの床。ただ、積もった埃が散って、やつらの足跡が残
っていた。足跡は和箪笥を横断して、ある方向に向かっていた。和箪笥の後ろには、そ
うだよ、開かずの押入れがあったんだ。さらに良く見ると、押入れの引き戸には下の方
に小さな穴が開いていた。貼ってある紙の一部が破れていて、指を突っ込むとこう、向
こう側まで貫通するんだよ。普段は破れ目は閉じているし、大体貼りつけてある紙自体
が薄汚れた和紙だから、注意深く見ないとそこが破れていることなんて分からない。玄
関の戸に猫の通り道を開けている家があるだろう? ちょうどあんな感じを思い浮かべ
てもらえると近いかもしれない。
 ぼくは引き戸をそっと開いた。なんて言葉にするとすごく簡単だけど、実際は勇気を
振り絞って己を鼓舞して悩み抜いた末にようやく開いたんだ。大袈裟に言ってるわけじ
ゃない。何だよ、その目は。まあいい、ぼくがそこで見たものは、一体何だったと思う
? 違う、恐竜達はそこにはいなかった。破れた引き戸は、まだ本当の扉ではなかった
んだ。あちらとこちらを結ぶ扉は、押入れの中にあったんだよ。
 恐竜達が通っている筈の破れ目の向こう側には、布団が一杯に詰め込まれていた。冬
用の羽毛布団や毛布が、ぐちゃぐちゃにね。春先にぼくが詰め込んだんだ。

 ぼくは布団を全部どけてみた。そこには、あの潰れた段ボール箱がある筈だった。で
も、でもね、なかったんだよ、影も形も。いや、だから、おもちゃ箱がさ。その代わり
にぽっかりと黒い穴が口を開けていた。直径三十センチくらいのその穴を覗き込むと、
ひどく不安な心地になった。理由は分からない。そういうことってあるだろう? 吸い
こまれそうな感じだよ。夜の海を見た時なんかにさ。
 穴の中は暗く、何も見えなかった。トンネルみたいに通路が続いているわけでもない
。それこそ星のない宇宙につながっているみたいにただ真っ暗なんだ。これが扉だ、と
ぼくは確信した。きっと恐竜達はここから出入りしているのに違いないとね。

 次にぼくが興味を持ったのは、恐竜達が何のために、こちらの世界へやってきたのか
ということだった。……あくまでも彼らがあちらの世界からやってきたものだと想定し
た上でね。
 恐竜達は好き勝手に動き回っているように見えた。じっくり観察してみても、その行
動の底に特別な意味らしきものは見出せなかった。彼らはいつも、押入れの穴の向こう
側から現れて、ぼくの部屋で気ままな時を過ごし、また穴の中へ帰っていく。その他に
別段何かをするでもなく、来て帰る、それだけだ。

 ぼくの家が目も当てられない状態になっていたことはさっき言ったね。そう、家族全
員が無気力に日々を過ごしているって話だ。
 君は多分首をひねるだろうけど、はじめのうちは一見どうにもならないそんな状況の
中でも、ぼく達はそこそこ上手くやっていたんだ。本当だよ。悪いなりに、そこにはあ
る種の均衡のようなものが確かに存在していた。不文律と言ってもいい。みんな自分勝
手にやる代わりに、他の人間に対して余計な口出しはしない。ああ、それで大きな問題
はなかった。え? そんな関係は淋しい? ……うん、確かに、ずっとそんな関係が続
くのなら、ぼく達だって淋しいと感じていたと思う。でも……でも、思い出してほしい
。その時ぼく達は、極めて自己中心的なモラトリアムの真っ只中にいたんだ。つまり、
誰も本心ではその状態が「家庭」のあるべき姿だなんて思っちゃいなかったってことだ
。言いかえるならば、周りに延々と広がる水平線上には、そのうちに何らかの目的地が
現れる筈だと確信していたんだ。ぼくとぼくの家族は、そんないびつな状態を心のどこ
かで歓迎し、満喫してさえいたのさ。
 いつか戻らなければ、とみんなが思っていた。同時に、そう遠くない未来に必ず戻れ
るに違いない、ともね。

 しかし……だ。物事がそんなに思い通りに進むわけはない。なかなか動き出さない現
実に、ぼく達は段々焦り始めた。今考えると、そんなのは当たり前のことだった。幸運
にしろ不幸にしろ、何もせずに勝手に向こうからやってきてくれるなんて都合の良い話
はない。誰もが、頑張って意思を行動に移して、それでようやく何かを得ているんだ。
だけどぼく達には、その「行動」が取れなかった。何故かって? それはまさにぼく達
がモラトリアム――猶予期間の真っ最中だったからさ。みんながみんな腑抜けた生活を
していたせいで、「きっかけ」が掴めなかったんだ。影響というものは、他人に与える
ものであるのと同時に、誰かによってもたらされるものでもあるってことだ。ねえ君、
ぼく達は学校や仕事に出ている時は、確かにそれぞれが多かれ少なかれ外界の誰かに影
響を受けて生活をしていた。でも、一度歯車の狂い始めた「家庭」には、持ち帰った
「変化」を瞬時に真っ白にしてしまう忌まわしき力があったんだ。いや、狂った歯車を
修正する力がなかったというべきかな。
 いつかは綻びが生じてくるに違いなかった。そしてその時は、意外に早くやってきた
。

 ある日ぼくが学校から帰るとね、母が洗面所の鏡に何か紙切れみたいなものを貼って
いたんだ。ぼくの姿を見ると、彼女は素早くそれをはがし、握り潰した。ぼくは母に詰
めよって、無理矢理紙切れを奪った。書いてある内容を見て、仰天したね。あれは、一
生忘れられないと思うよ。「もう戻りません、絶対」なんてこと書いた紙を母親が鏡に
貼ってりゃあ、誰だって驚くだろう? 問いただしても母は泣きじゃくるばかりでてん
で話にならない。彼女の目はうつろだった。ぼくは急いで父の寝ている部屋に行った。
ぼくの顔を見るやいなや、父は勘違いしたらしく、狼狽して鳥小屋がまだできていない
ことに対する言い訳を始めた。思うように体が動かないとか何とか言ってね。ぼくが母
のことを話すと、そんな筈はないと彼は言った。別れようなんて言った覚えはない、少
し距離を置こうと言っただけだ、とね。まあこちらにしてみればそんなのはどちらでも
良いことなんだけどね、彼は相当動揺していたみたいだった。
 父はしかし、起き上がろうとはしなかった。彼は随分弱っているように見えた。夫婦
の間に何かがあったんだろうというくらいのことは当然ぼくにも察しがついたけど、そ
の時は敢えて何も言わなかった。

 ……長い話になりそうだ。疲れたかい? 大丈夫? 良かった、どうやら真面目に聞
いてくれているみたいだね。安心したよ。なにせちょっと現実離れした話だからね、正
直なところ心配だったんだ。
 では続けるよ。いいね?

 綻びは……家族全体に広がっていった。両親はそれぞれの部屋にこもるようになり、
姉は、外泊することが多くなった。きっと「家の影響」を受けたくなかったんだろうね
。自然ぼくと彼らはほとんど顔を合わせない生活を送るようになった。
 もちろん異常な生活はぼくにも変化をもたらした。どんな変化かって? これはすご
く言葉で表すのは難しいんだけれど、何と言うか、逃げたくなったんだ。おっと、誤解
しないで欲しい。怠惰な生活から抜け出したくなったわけじゃない。むしろ逆さ。ぼく
はそんな毎日を楽しんでいた。いわゆる常識の侵入がその無意味な生活を脅かすことを
恐れたんだ。分かるかい? まあ端的に言えば、少なくともぼくは軌道修正を望んでな
んかいなかったってことだ。
 はじめぼくは一日のうちで両親に会う機会をなるべき減らそうとした。徹底的に家族
から顔を背けることで、彼らが持ち帰る常識の影響を避けようとしたんだ。でも、一つ
屋根の下に一緒に住んでいる限り、まったく会わずに暮らすなんてのは不可能だ。そこ
でぼくはこう考えた。家からも、そしてもちろん外界からも、極力無関係に過ごせる場
所はどこか、とね。
 色々考えたよ。親とも離れてまったくの一人きりになれるのはどこか。でも一人暮ら
しには金がいるし、うちには離れのプレハブなんかもない。そこで思いついたのが、あ
の暗い穴だった。押入れの中の「あちらの世界」さ。

 恐竜達がいなくなってから、押入れを開けたんだ。ただ、「あちらの世界」に行きた
くても、どうすれば良いものか、見当もつかなかった。じっと見ていると、意識が徐々
にその穴の奥に吸いとられてしまうような気がした。ぼくはまず穴に手を入れてみるこ
とにした。今思うとぞっとしない話だが、その時は不思議と恐怖感はなかったね。何故
穴に手を入れようなんて考えたのか。おそらくは苦し紛れの単なる思いつきだ。そこに
精神的な意味合いを求めるのは、無用に穿った見方だろう。まあそれでも多少の迷いは
あったけれどね、結局は一瞬の衝動を抑えきれなくて、やってみたんだ。まず右手の手
首までを入れてみた。案外すんなり入ったよ。感触は……そうだな、特に触感というも
のはなかった。手は、何にも触れなかった。穴の中は……こういう言い方がふさわしい
のかはやっぱり分からないけど……空洞だった。
 しばらくすると、穴を見ている時に感じた吸いこまれるような感じ――無力感みたい
なとりとめのない感覚が強くなった。ぼくは何かにせき立てられたように慌てて手を引
き抜いた。引き抜いた手は別に何ともなっちゃいなかった。ただ、少し頼りない印象が
あった。まるで自分の手でないような……だけどね、やはり不快感はなかった。それど
ころか、一種の心地良ささえ感じたんだよ。どうしてだろうね。次の日も、ぼくは穴に
手を入れてみた。初めて手を入れた時よりも、心地良さは一層明確に感ぜられた。どこ
か薄ら寒くもあり、しかしほっとするような親しみがあった。
 それが欠かすことのできない日課になるのに大した時間はかからなかった。日に一度
が二度になり、それこそ日がな一日ひっきりなしに手を出し入れしている時もあった。
その行為は、驚くべき麻薬的魅力をもってぼくの心を捕らえた。大袈裟な表現でなく、
取り憑かれたようにぼくは穴に手を突っ込む行為を続けた。

 ふう、ちょっと疲れたな。今日は少し喋りすぎだな。ああ、ごめん、聞いている君は
もっと疲れているんだろうね。申し訳ない。あと少し我慢してくれないか。ああ、あり
がとう。感謝するよ。一度始めた話だ、どうせなら最後まで語り尽くしたいんだ。

 そのうちに奇妙なことに気付いた。その……手がね、何だか本当に自分のものでない
ように思えてきたんだよ。良く見ると手は、生気を吸い取られているかのごとく、段々
とその色を失い始めていた。色だけじゃない……ねえ君、君はもしかするとぼくの気が
ふれたと思うかもしれないね。だけど、これは真実なんだ。誓ってもいい。それで、え
っと、どこまで話したっけ? ああ、そうだ、失われ始めたのは色だけじゃなかった。
手の、手の存在感自体が希薄になってきたんだよ。え? 分かりにくいかい? オッケ
ー、はっきり言おう。手がね、透けだしたんだよ。まるで手というものを構成する細胞
同士の結合が緩み始めたみたいに。暗いところでは何でもないように見えるんだけれど
、明るい所で手をかざすと、その向こうの風景がうっすらと透けて見えるんだ。それで
も更に数日はぼくはその行為を止めなかった。実際手が透け始めても、手としての感覚
はちゃんと残っていたし、夏休みに入って外界と接する機会をほとんど持たないぼくが
日常生活を送るのに何ら差し支えはなかったからね。
 だけど日を追うごとにその「喪失」の度合いはますます強くなっていった。ぼくの手
の先はもうほとんど肉眼では確認できないほどになり、腕から肩の辺りまでが青みがか
ったゼリーのような具合になった。たちの悪いことに、加速度をもって体が失われてい
くのと同様に、その行為がもたらす得体の知れない快感も、上昇していった。その心地
良さだけは、言葉で表すなんて、とてもとても。まあ無理矢理例えるとすれば、ぽっか
りと湧き出た温泉につかっている気分とでも言うのかな。心配事は瞬時に消え、何もか
もが気にならなくなって、そう、とても広い心になるんだ。安らぎに包まれてね。その
、いわば「闇温泉」に体の一部を浸している時だけ、ぼくはあらゆる「影響」の呪縛か
ら解き放たれたのさ。

 一日のうち穴に張り付いている時間が長くなれば、当然恐竜達の目に触れることもあ
った。でも、特に問題は生じなかった。彼らは自分達が穴から出たい時は、出入り口を
ふさいでいるぼくの手をつついてその意思を表した。ぼくは手を抜けば良いだけだ。時
にはぼくは彼らを穴の中からすくい上げてやったりもした。恐竜達は、おとなしくぼく
にされるままになっていたよ。可愛いもんだ。すべての恐竜達を出してやってから、ぼ
くはまた「闇温泉」に腕を突っ込む。眠りこけてしまいそうな甘い誘惑の中、恐竜達に
餌をやりながら無為に戯れるのは最高の悦楽だった。ねえ君、それはぼくが求めていた
「時間のない世界」そのものだったんだよ……ぼくは、日々失われていく自分自身の姿
を眺めながら、このまま溶けるように消えてしまえればいいとさえ思っていた。

 楽しいことは長くは続かないものだという。何故だか知ってるかい? 人間ってやつ
は実にやっかいな生き物で、どれだけ満たされても決して完全に満足することはない。
際限なく膨張し続ける欲求は常に新たなる刺激を求める。そのくせ移ろいの後には決ま
って過去を懐かしむ。ねえ君、ぼくは思うんだが、「楽しいこと」は続かないわけじゃ
ないんだよ。人間自体がそういう構造になっているだけなんだ。結局どこまでいっても
所詮人間は「憧れる生き物」という性からは逃れられないのさ。
 ぼくにしたってそれは例外ではなかった。一つの快楽を覚えた精神は、次の要求を突
き付けてきた。従うしかなかった。先にも言ったように、ぼくはそんなに強い人間では
ない。朝に鳴く雀くらい平凡で、そしてどちらかと言うと脆く危ういタイプの人間だ。
生まれたてのウサギの仔みたいにね。
 精神の枯渇に従って、ぼくはある時思い切ってその穴に全身を入れてみた。まず右足
を、次に左足を、そして全身を、押入れの床に両手を突っ張ってそろそろと沈めてみた
。え? 穴に底はあったのかって? もちろんあったさ。でなきゃぼくは多分今ここに
はいないよ。きっと闇に飲みこまれて朝露のように儚く消えてしまっているに違いない
。ちゃんと二本の足で立って、首だけは穴の外に出していたから、簡単に出ることがで
きた。でもあれは我ながら奇妙な光景だったと思うね。押入れの床から首だけがにょっ
きりと生えているところを想像してみてくれ。
 「闇温泉」に全身を浸けるようになってから、ぼくの肉体は以前とは比べものになら
ないほどの速度で失われていった。もちろん全身が透き通り始めた。夏にもかかわらず
、部屋を出る時には長袖の服を着て手袋をつけなければならなかった。まともに目に見
えるのは首から上の部分だけだったんだ。
 それから……これは気のせいかもしれないんだが、ぼくの体が消えるのと平行して、
恐竜達のサイズが少し大きくなったようにも感じた。それはまるで「育っている」よう
だったよ。もしかするとあいつらはぼくの実存を餌にして自らを成長させていたのかも
しれないね。

 気持ち良かったかって? 「闇温泉」のことかい? そりゃあ気持ち良かったさ。全
身を浸し始めてからはなおさらね。それこそ温泉みたいなものさ。

 でも……それは長くは続かなかった。当たり前のことだが、ぼくの預り知らないとこ
ろで、やはり時間は進行していたんだ。父親の病気が快方に向かうとともに、家族を隔
てていた壁は、知らぬ間になくなっていた。母の様子も随分落ち着き、姉は毎日家に帰
るようになった。あるべきものがあるべき場所に収まった家庭の中で、ぼくだけが夢見
心地で過ごすことは許されなかった。その空間を手放すまいと、ぼくは必死で抵抗した
。しかし結局、「影響」の侵入を止めることはできなかった。
 いや、状況が特に大きく変わったわけじゃない。「変質」したのは、ぼくの方だった
。

 きっかけは両親の仲直りだった。
 どちらから折れたのかは知らないが、いつの間にか二人は仲むつまじく会話を交わす
ようになっていた。数週間前には信じられなかったことだが、夫婦の間にはごく日常的
な――つまり、うわべだけではない親しみのあらわれとしての――スキンシップさえ戻
っていた。輪の中には姉も加わり、平和な家庭の団欒ってやつがまた繰り返されるよう
になったんだ。ぼくは密やかな、そして唯一の楽しみを捨てざるを得なくなった。だっ
てまさかそんな場所に手袋をしてのこのこ出ていくわけにはいかないだろう? また一
応家族である以上、彼らとの関わり合いなしに生活していくのは不可能だ。またあの憂
鬱な日々が始まると思うとぞっとした。だが仕方がなかった。物事には必ず終わりがあ
る。始まりがあるのと同様にね。
 それは余りにも唐突であっけない終わりだった。透き通った体は穴に入るのを止める
と徐々に元に戻った。共同体はぼくが参加することで完成した。ぼくは穴を、いや、正
確に言うと押入れを封印した。穴の上に板を張り、更にその上に隙間なく布団や衣類を
詰め込んだ。冬場に必要なものは別の物置にしまったんだ。更に破れていた引き戸も塞
いだ。ぴったりと閉めた押入れの前に和箪笥と本棚を置くと、部屋はまた以前と同じ殺
風景なものに戻った……
 そして「時間」がまたぼくの日々を支配し始めた。でもそんなに悪くもなかったな。
驚いたことにね。周りが変わったのか、ぼくが変わったのかは知らないけれど。割り切
れば結構上手くいくもんだ。自分の気持ちにさえ折り合いをつけられれば、大抵のこと
は気にならなくなるということが分かったんだ。ああ、両親とは上手くやってるよ。姉
ともね。最近はみんな過去のことは忘れてしまっているんじゃないかってくらい朗らか
で、見てて気持ち悪いくらいだ。

 ……さて、これでぼくの話は大体終わりだ。

 長い間付き合わせてしまって申し訳ない。疲れただろう。
 実はね、昨日の夜に昔のアルバムを捲っていて、あることに気付いたんだ。
 ぼくの心を引きつけたのは一枚の写真だった。その写真は、まだ小学校に上がる前の
ぼくが父親と遊んでいるところを母親が撮ったものだ。ぼくは幾つかの人形に囲まれて
嬉しそうに笑っている。父親はぼくを抱き上げようとしていたんだろうな、腰をかがめ
てぼくの脇の下に手を差し入れている。そして、ぼくが大切そうに握りしめている人形
は……もう分かるだろう? あの恐竜達だったんだよ。ぼくははっとした。埋もれてい
た記憶がね、閃いたんだ。まるで稲妻のようにね。
 消えてしまったおもちゃ箱のことは話したね。……ねえ君、ぼくは確かあの段ボール
箱の中に恐竜の人形を入れていたんだ。
 ぼくはよっぽどその人形が気に入ってたんだろう。今でも人形を使って遊んだ時のこ
とは良く覚えているよ。硬質ビニールの皮膚、プラスティックの爪、ガラス玉の瞳、あ
あ、丁寧に塗られたその色のグラデーションまでもが、目をつむると鮮やかに浮かんで
くる。

 果たしてあの恐竜達と人形との間に何らかの関係があるのか、そいつはぼくには分か
らない。この頃は正直言ってそんなのはどうでもいいとさえ思っている。むしろ気にな
るのは、押入れの中に突然現れた穴の方だ。ぼくが思うに、あれはきっとどこにも繋が
ってなんかいなかったんだ。もちろんぼくが逃げ込もうとした「あちらの世界」なんて
のも幻想に過ぎないのに違いない。でも、ただの穴じゃなかったのは確かだ。そこには
何かがあったんだ。快楽と引き換えにぼくの実存を奪おうとした何か、ひどく曖昧かつ
不可解な「生命」を司る何かが。

          (了)

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よろしくお願いします。


""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
A.Shimoura creats some culture. Shall we play and pray?
Everybody Go,,,,,,,,Ahead!!!!
e-mail:::a-shimo@sol.dti.ne.jp .............OK??
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