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Date: Tue, 6 Jul 1999 20:10:15 +0900 (JST)
From: poetlabo@cap.bekkoame.ne.jp (T. Nagare)
Subject: [bun 00331] Re: 「ちり」
To: bun@cre.ne.jp
Message-Id: <199907061110.UAA04002@i.bekkoame.ne.jp>
X-Mail-Count: 00331

流です。熱出して寝てましたが、寝てるのも嫌になったので。

口上
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横山作品への疑問
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「ちり」の作品と感想を読み返してみて、ことごとくズレを感じてしまいました。
 作品自体、どこへ向かおうとしているのか、僕には読み取れないのです。感想を読
んでみると、読者と作者に言い分があって、どちらもなるほどというしかないので、
どちら側についたものか困ってしまいます。
 ただ、ここでも読者が見たものと作者が描こうとしたものとの間に差があるという
ことは見て取れます。固有名詞を巡る議論が、その端的な現れと言えましょう。作者
が必要不可欠と考えた表現が、読者には無用のものに見えたというわけです。
 なぜでしょうか。

「ちり」流エディションの作成について
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 考えているだけでは埒が開かないので、自分で手を入れるというか、自分の版を作
ってみることにしました。手を入れるのなら原文を参照すべきところ、面倒なので全
て記憶に頼って書いてあります。なので、細部は大半が抜けていることでしょう。
 目的は、固有名詞の必要性を検証することにあります。したがって、住所氏名から
年齢薬物に至るまで、固有名詞をことごとく剥ぎ取ってあります。もしこの一文に作
者の描こうとしたものが収まっているならば、作者は南米のローカルな風物を描写し
たのではなく、より普遍的な何事かを語ろうとしているのです。
 自分でやってみて思うことには、当初自分でやるつもりだったことと、できあがっ
てきた結果とが違うことは往々にしてあるものであり、また作者の無意識の部分が反
映するためか、よほどの駄作でない限りは結果が作者を上回ったり作者を裏切ったり
するのが寧ろ普通なのかも知れません。


ちり(流版)
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 女が倒れていた。女の足元には、小さな子供がうずくまっていた。この女の子供だ
ろうか。子供なのにぐったりとして、捨てられた猫よりもよるべない顔をしていた。
 女は死んでいるのではないが、立つことはできなかった。女の腰から下は、なにか
大きなもので砕かれていたのだ。大方、きまぐれな大型乗用車の一撃にでも遭ったの
だろう。この街では、別に珍しいことではない。

 朝。ここは市内でも、もっとも人の乗り降りが多いバス停だ。みんな色とりどりの
スーツを纏って、6月の紫陽花のように出勤してくる。
 女は物乞いをした。しかし、誰一人として振り向くものはいなかった。みんな忙し
いのだ。目先の仕事だけでも十分以上に忙しいのだから、ごみの袋ではなく人間らし
きものが落ちているからといって、いちいち気にかけたりはしないのだ。
 女はひたすら物乞いをした。しかし女に哀れみを垂れる者はなく、女を叩き出そう
とする者もいなかった。人々は女に対して、単に無関心だった。

 少年がやってきた。折り目がつくまでプレスされたシャツといい、足音を立てない
ように気をつけた歩き方といい、どこから見ても育ちのよさを感じさせないではいな
いような少年だった。とんぼの羽をむしったり、ざりがにやおたまじゃくしをぶち殺
すことに無上の楽しみを覚えていても、生き物をいじめてはいけないと教えられたら
黙って従うような少年だった。きっかり3秒に1回ずつ小洟を啜り上げる音が、すべて
を台無しにしてはいたが。
 少年は、道端に落ちている子供に興味を引かれたようだった。何事かを優しげに呟
きながら、子供を抱き上げようとした。
 女は、咄嗟に力を込めて――彼女にしては、力を込めて――少年の足を引っ張った
。子供を返せ。そう叫ぼうとしたが、彼女の喉から出てきたのは獣の唸りでしかなか
った。
 予想外の襲撃を受けた少年は、びっくりして子供を放した。あわてて子供をジャガ
イモの袋のように投げ出したりしなかったのは、せめてもの僥倖だ。受けるべき祝福
を授けられなかった子供は、がっかりして泣き出した。1度泣き出したが最後、滅多
な事では泣き止まない。
 足早に去って行く――というよりは、逃げていく――少年の背に向かって、女は叫
ぼうとした。麻薬を持って来な、麻薬を! この子を黙らせるには、それしかないんだ!
 少年にその言葉が届いたとしても、少年が麻薬を持ってくるとは思えなかった。そ
れ以前に、女は声を出すことさえできなかった。

 ドラム缶を一気に300以上も転がしたようなボリュームのロック音楽が、若い男女
の一群れを引き連れてやってきた。人の二人や三人くらいを轢いても何とも感じない
ような大型乗用車に乗った彼等は、自分たちがロック音楽の主人であるかのように振
舞っていたが、誰が見ても事態はその逆だとわかる。
 地べたに倒れたままの女は彼等を見やり、彼等が自分とほぼ同じくらいの年齢層に
属する者であることを認めた。
 車に乗った女の一人は倒れている女を見やり、あからさまに軽蔑の意を表した。食
べさしの鶏の唐揚げを、車の窓から投げつけた。遠隔操作で唾を吐きかけるようなも
のだった。
 なすべき務めをまだ終えてはいない鶏の唐揚げは、新しい主人から少し離れて静止
した。飢えた女は、ただちにこれを受け取ってめでたく成仏させたか?
 そうではなかった。もうどんなものでも食物とあれば口にせずには居れないはずな
のに、どうしたわけか彼女は手を伸ばすことができなかった。唾さえ涌いてこなかった。

 日が暮れて、勤め人たちは街から家に帰っていった。女はそれを眺めながら、母に
教わったことを思い出していた。ものの食べ方を教えた母。男の扱いについて教えた
母。麻薬を教えたのも母だった。生活の知恵を教えた母に感謝するというのでもない
が、麻薬を教えたからといって恨みに思うこともなかった。そもそも麻薬が悪いとは
思っていない。その母も、もういない。
 自分ももうすぐ、母と同じところに行くのだろう。この子もまた、遅かれ早かれ、
自分の後をついてくることになるだろう。この子の父親も、その近くにいるのだろうか。
 ここで暮らすようになってから1週間ばかりなのか、長い年月が経っているのか、
自分でも覚えていない。確かなのは、日1日と死が近づいていることくらいだ。でも
そんなことなら、この世の誰にだって同じことだ。

 夜が来て、車という車は発情した蛍のようにライトを点けて走る。女はふとその有
様に驚嘆した。夜というものは、こんなに美しかったろうか? 今まで夜の美しさに
気がつかなかったのはなぜだろう? 今更のように美しく見えるのは、死期が近づい
ているからなのだろうか?
 そこまで考えて、女は無性に夜明けの空が見たくなった。生きていたい。生き延び
て、夜明けを待っていたい。
 折も折、やはり宿無しの酔っ払いがふらふらとやってきた。女は酔っ払いから小銭
をせびるつもりだった。今までも、そうしてきたのだ。
 しかし、酔っ払いがいよいよ近づくと、彼女は考えを変えた。もし自分が生き続け
ることができないのなら、少しばかりの金など何にもならない。生きている者が、生
きているうちに、金を使うべきなのだ。だからといってこの酔っ払いが人生を積極的
に生きているとも見えないが、少なくともまだ彼は、金を使うことはできるだろう。

 ――飲み過ぎんじゃないよ。
 腹の中でそう呟きながら、彼女は酔っ払いに銀貨を渡した。どういうわけか酔っ払
いにはそれが通じたらしい。
 ――こんな金で酒が飲めるか。
 まじまじと彼女の顔を見て驚き、そして何かを感じたのか、酔っ払いは深く頷いた
。受け取った銀貨をそれでも返そうとしなかったあたりは、ただの酔っ払いに過ぎな
いのだが。
 来た時よりもしゃんとして歩いていく酔っ払いを見送りつつ、女はやはり生きてい
ようと思った。

 夜が更けるにつれて、女の意識は澄んで冴えてきた。自分を待ち受けるものが夜明
けであるか、死であるかはわからない。ただ、来るものを拒むつもりはない。目を見
張って、そいつを心から受け入れてやるつもりだ。生きようとする意志によって、お
そらくは死でさえも、生の一部になってしまうのだ。
 星明りの下、女は何かを待ちつづけた。車の巻き上げた塵が光を受けて、彼女の周
りを万華鏡のように彩った。

$$

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