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Date: Thu, 10 Jun 1999 18:58:16 +0900
From: "Atsushi.S" <a-shimo@sol.dti.ne.jp>
Subject: [bun 00287] 「陽炎の日」3
To: bun <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <375F8C38302.41F3A-SHIMO@smtp.sol.dti.ne.jp>
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  家に帰り、ベッドの中に潜り込んでも、喜一はなかなか眠ることができなかった。そ
れは、エアコンのない部屋を蒸し上げる熱帯夜のせいでもなく、胸にこみ上げるかすか
な吐気のせいでもなかった。彼はむしろ酒を飲んだ夜は、どれだけ気持が悪くても存外
すんなりと寝てしまう性分だったのだ。何度か寝返りをうち、眠気を呼び起こすために
わざとらしい欠伸などを試みたが、意識はますます冴え渡るばかりだった。何も考えな
いようにしようとすればするほど、脳裏にはより壮大な物語が果てしなく展開した。仕
方なく喜一は眠る努力をひとまず放擲し、部屋に散らばった雑誌の一つを手に取ってぱ
らぱらとページを捲った。一般に低俗とされる写真週刊誌の中には特に気を引くものは
なかったが、それでもその意味のないことが返って喜一の心を安心させた。調子が悪い
時は、何も考えないのが一番だというあるプロ野球選手のインタビューを見て、喜一は
本当にその通りだと思った。結局喜一は、朝までずっと何冊かの週刊誌を読んで過ごし
た。
 カーテンの隙間から差し込んだ乳白色の光が、既にカオスと化した床に一条の淡い直
線を放つ頃になって、喜一はようやく前後不覚の気怠さを覚えた。
 喜一は雑誌を放り出し、改めて掛け布団をかぶった。
 七月の朝は、思いのほか暑くないのだなと幾分湿り気を帯びた布団を鼻の辺りまで引
き上げた時、階下で何かが動く音がした。更に、ゆっくりと開き、閉じる玄関のドアの
音。喜一は一瞬体を強張らせ、そっと起き上がってカーテンの隙間から戸外を見下ろし
た。
 道路をゆっくりと歩いていく祐子の姿があった。喜一は二,三秒、朧な朝の光に包ま
れた母の背中を呆然と見遣り、それから跳ね起きて、隣にある両親の寝室へ行き熟睡し
ている寛二を揺り起こした。
「オカンが出ていったで!」眠そうに目を擦る父に向かって叫ぶ。
「買い物やないのか」
「違うわい。まだこんな時間やのに。それに手ぶらやったぞ」
「分かった分かった。ほな、迎えに行かなあかんなァ。で、どっちに行った?」
「多分国道の方や。煙草屋に向かって歩いとったから」呑気に着替えようとする寛二が
もどかしく、喜一は早口で急かした。「早よ、早よせな!」
 しかし寛二は冷静過ぎるとも思える態度を崩さなかった。
「大丈夫や。まさか犬か猫やないねんから、車に轢かれたりはせんやろ。まあ、よぼよ
ぼ足で歩いとるやろうから、自転車でぱっと行ってぱっと帰ってくるわ」
 寛二は最後までのんびりと、まるでどこかへ散歩でもしに行くかのように自転車に乗
って家を出ていった。
 玄関まで出て寛二の姿を見送った後、二階に上がるとユウが自分の部屋から腫れぼっ
たい顔を出した。
「どうしたん?」
「どうしたもこうしたも、またオカンが出て行ってしもたんや」と喜一は言った。
「それで、お父さんは?」
「追いかけていきよった」
「ふうん・・・」ユウは特に表情を変えずに言った。
 そんな姉の表情を見ていると、喜一は無性に腹立たしい気持になった。
「アネキもオトンも、なんででそんなにのんびりしていられるんや? オカンが出てい
ったんやで? まともに物も考えられんような状態で、朝っぱらからふらふらと彷徨っ
てるんやで? そんなん、どう考えてもおかしいわ。」
「なんでお母さんの気持がキーちゃんに分かるんよ」ユウは、跳ねた髪の毛を触りなが
ら言った。
「心配せんでも、お母さんのことはお父さんが一番よう分かってるんやから」
 そう言ってユウはドアをばたんと閉めた。
  部屋に戻ると、途端に激しい疲労が喜一を襲った。しばし腹立たしさに昂揚した喜一
であったが、猛烈な睡魔がすぐにすべてを飲み込んだ。
 昼過ぎに目覚めた喜一が階下に降りると、ちょうど寛二が出かける用意をしていると
ころだった。
「どっか行くん?」と喜一は訊ねた。
「病院や」と寛二は言って、手に持って振って見せた保険証を鞄の中に詰め込んだ。
「オカン、すぐ見つかった?」
 寛二は答えなかった。
「なあ、オカン、今どこにおるん?」喜一は違う質問をした。
「車の中や」ぶっきらぼうにそう言うと、寛二は顎で駐車場の方を示した。「待たせと
る」
 靴箱の上の時計の針は、昼の十二時を指していた。文字盤のガラスが、薄く積もった
埃で仄白く曇っている。
「・・・検査、受けることにしたんや」そう言って、寛二は玄関の上がり框に座った。
「うん」
「朝な、お前が言うた通り国道沿いの所に祐子がおったんや。ほんまにゆっくり歩いと
ったんやなァ、角曲がったとこですぐ見つかったわ」
 喜一は黙って父の言葉を聞いた。
「東の方向に向かって歩いとった・・・儂は、すぐに追い付いたんや。それで声かけてな、
そしたらなんて言うたと思う?」
「なんて・・・言うたん?」
「はい、何ですか、やって。涼しい顔で、儂を見ても顔色一つ変えよらん。儂は自分の
耳を疑ったよ。儂やがなと言うて肩を揺さぶっても、知らん知らんと首を振るばかりや
。家に連れて帰るのもほんま難儀やったでェ」寛二は力無くため息をついた。
 恐れていたことがとうとう起こったのだと喜一は思った。医者の話によれば、一般的
なアルツハイマー性痴呆の場合、初期症状として健忘や徘徊、空間的見当識障害(道に
迷うこと)などがあり、更に症状が進行すると、失語、失行、失認などの巣症状が現れ
るのだということだった。おそらく父は、ここに至って母の症状が単なる鬱病ではない
ことをはっきりと知ったのだ。
「どこに連れていくんや、やめてくれ言うてなあ、ほんまに涙出そうになったで。なだ
めながらやっとの思いで連れて帰ってきたんや。家に着いたら何とかそれもおさまった
んやが・・・儂もそろそろ腹決めなあかんわ。まあユウも朝から出かけとるし、お前は留
守番でもしといてくれ」と寛二は力無く言った。その顔は、半年前より十歳は老けて見
えた。

  よろよろと家を出る寛二を見て喜一は一刹那戸惑ったが、すぐにその後を追った。
 寛二は、玄関から門へと繋がる階段を二,三段降りた所で立ち止まっていた。喜一は
はじめ、寛二が憔悴のあまり放心しているのだと思った。しかし、どうやらそうではな
いことが、誰かにお辞儀をする後ろ姿から察せられた。もし客が来たのなら自分が相手
をしようと、喜一は寛二の背後に歩み寄った。そこで初めて、訪問者が麻紀であること
に気付いたのだった。
 振り向いた寛二が曖昧な表情で喜一に問いかけてきた。
「あ・・・俺の」と喜一は言って、麻紀に目礼した。
「友達か」
「まあ、そんなもん」
「帰るのは夜になると思うが、鍵だけはしっかり閉めていけ」
「うん、分かっとる」
 寛二は麻紀と喜一の顔を見比べるようにしてから、車に乗り込んだ。車が発進する瞬
間、助手席に座る祐子と目が合った。喜一は微笑んで小さく手を振った。その時だった
。窓越しに喜一を見つめる祐子の唇が、大きく動いたのだった。母は両手と額をウイン
ドウに押し付けて、何かを訴えるような真剣な眼差しで、叫ぶようにぱくぱく口を開い
たのだ。言っている内容までは聞こえなかった。喜一が問い返そうとする間もなく、車
は黒煙を吹き上げて走り去ってしまった。
 国産のセダンの排気音が聞こえなくなるまで、喜一は車が消えた路地の角を見つめ、
それから麻紀に視線を移した。
 麻紀は、いかにも所在なさげに俯いて立ち、両手を腰の辺りですり合わせるようにし
ている。
「よう覚えてたな。駅からここまで結構あったやろ」と喜一は努めてさりげなく言った
。 以前麻紀がこの家を訪れたのは、付き合い始めて間もない頃、もう六,七ヶ月ほど
前のことだった。ちょうど両親が結婚記念日だからと揃って食事に出かけた日だったの
で、喜一は良く覚えていた。その時は、駅まで喜一が迎えに行ったのである。
「うん・・・でも駅からはバスで来たから。ほら、前も帰りはバスやったでしょう」麻紀
は伏し目がちのままそう言った。
「ああ、そう言えばそうやったな」
「突然、ごめんね」
 喜一は頷いた。
 言葉を捜しているのか、麻紀はわずかに首を傾げて考えるような素振りをした。それ
は麻紀のいつもの癖だった。髪を片方だけ耳にかけることによって露出した頬骨から顎
にかけての丸みを帯びたラインを、喜一は素直に綺麗だと思った。ここ一ヶ月ほど会っ
てなかったとはいえ、知り合って一年をゆうに越える間でそんなことを感じたのは初め
てだった。
「電話しても繋がらんかったから」と麻紀は言った。
 喜一は一瞬どきりとして、
「ああ、最近バッテリーの調子がおかしくてな」と答えたが、その言葉はやけに言い訳
がましく響いた。
「そう・・・」
「そうそう」
 今度は喜一が言葉を捜す番だった。麻紀は相変わらず足下を見下ろしたままである。
沈黙に堪えきれなくなって、喜一は、とりあえず中に入って、と言って背を向けた。

       ※

 七畳の居間の真ん中には、冬には炬燵にもなる大きめの四角い机が置いてあり、麻紀
はその一辺に座った。昨日の夜から閉めっぱなしのカーテンのせいで、部屋の中は真っ
昼間だというのに薄暗く、その薄暗さが姿勢良く座る麻紀の姿を一層静謐でおごそかな
ものに見せていた。喜一は今お茶を持ってくるから少し待っていてくれと言って台所へ
行き、冷蔵庫に入っていた麦茶をグラスに注いだ。ペットボトルの麦茶はもう余り残っ
ておらず、喜一は一番小さなコップに少しずつ分けてみたが、余計にみすぼらしく見え
たので、仕方なくとりあえず麻紀の分だけ用意した。空になったペットボトルを捨てよ
うとしたが、ゴミ箱はもう一杯になっていて、新しいゴミを無理矢理ねじ込めばそれは
たちまち均衡を失って崩れてくるに違いなかった。鼻を近付けてみると、強い異臭がし
た。自分の部屋に何日も敷きっぱなしの布団を思いだし、住居は、そこに住む人間の状
態をこうも如実に表すものなのだなと喜一は思った。喜一やユウが気まぐれに料理をす
ることはあっても、寛二を含めた三人は、この数週間、まともに食卓をかこんだことさ
えなかった。食事の大半は、店屋物やコンビニの弁当で賄われていたのだった。そう考
えて見回してみると、炊飯器やコンロの上にも埃が積もっていた。電子レンジ、食器棚
、醤油差しの蓋、その他様々なものの輪郭部分を滲ませる埃から喜一は思わず目を背け
た。そのような埃が、家具や電化製品だけでなく、既に自分達の心にもはっきりと翳り
を投げかけていることに気付いたからだった。
 喜一は居間の入り口でしばし立ち止まり、向こう側を向いている麻紀を眺めた。ほっ
そりとした腰、ぴんと伸びた背筋、極端に肉の少ないうなじ、いつの間にか、一つにね
じって編まれた髪。
「麦茶しかないけど、ええやろ」喜一はわざと明るくそう言った。
「喜一の分は?」麦茶の入ったコップが一つだけ自分の前に置かれたのを見て、麻紀は
訝しげに言った。
「ええんや。俺、喉は乾いてないから」と喜一は言って麻紀の反対側に腰を降ろした。
  麻紀はしかし、出されたお茶には手を付けずに黙ってそのコップを見つめていた。
 その様子を目の端に捉えながら、果たして自分と麻紀を繋いでいるものは一体何なの
かと喜一は考えた。いつも自分の殻に閉じこもってばかりいる自分のどういう部分を、
麻紀は好いてくれているのだろうか。くるっとしたつぶらな瞳と筋の通った小さな鼻梁
を備えた彼女の顔は、一般的に見ても充分美しい部類のものだと言える。加えて、無駄
な肉のない恵まれた肢体と無邪気な性格を持つ麻紀には、言い寄ってくる男も少なくは
ないはずだった。喜一は、初めて麻紀と結ばれた日のことを回想した。あの時、突然ぱ
らついた小雨の中、先にホテルに入ろうと言い出したのは麻紀の方だった。喜一は、ど
ちらかと言うと少なからず戸惑いながらその後に従ったのだ。もしかすると、麻紀にと
って小雨しのぎに男とホテルに入ることなど特に珍しい行動ではなく、いつものように
一晩の相手として、今夜はたまたま俺を選んだだけではなかろうか・・・だが、胸を満た
した疑惑は体を合わせた瞬間に吹き飛んだ。麻紀は、処女だったのである。激痛をこら
え、夢中になってしがみついてくる彼女の中に入った時の一種幻想的な浮遊感は、今な
お喜一の中に存在していた。その奇跡を、改めて噛みしめた。
 それはしかし意味ある奇跡なのだと強く思った。たまさか出会った人々にしろ、突然
身に降りかかる様々な事象にしろ、自分を取り巻くあらゆる関係性の中には、やはり人
間には計り知れない意味が含まれているのだと。そして人は、決してその関係性の渦の
中から逃れることはできないのだと。何故急にそんなことを思ったのか、喜一には分か
らなかった。ただそんな風に考えるほか、自分と麻紀との邂逅を説明できる手だてが見
つからなかっただけかもしれない。  
「なあ喜一・・・喜一は、私のこと嫌いになったの?」唐突に麻紀はそう問いかけてきた。
喜一は驚き、そんなことはないと否定した。自分がどれだけ麻紀を必要としているか、
その温もりに触れたいと思っているかを必死で説明した。
「じゃあ、どうして先月、電話の一本もしてくれへんかったの?」麻紀は目に涙を溜め
ながら言った。
「いや、それは・・・色々忙しかったから」
「何が? 何が忙しかったの? 学校にも殆ど来てなかったでしょう。私を放っておい
て、一体どこで何をしてたんよォ」
「ごめん・・・」喜一は激しく後悔した。「ここんとこちょっと疲れてたんや」
「疲れてたって、どういうこと? 喜一は疲れたら、私のこと無視するの? 私だって
、しんどい時くらいあるんやから」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味よォ」
 涙の止まらない麻紀の顔を見ることができなかった。それでもやはり、俺は疲れてい
ただけなのだと喜一は考えた。自分のこと、母のこと、色々なことに心底疲弊し、積極
的な「生」に対しての気持が萎えていただけなのだ。しかし、どんな言葉をもってして
も、自分の意図するところを正確に麻紀に伝えるのは困難に思われた。喜一は、黙って
擦り切れた畳の綻びを見た。視界の隅で麻紀が言葉の続きを待っている気配がしたが、
何を言うつもりもなかった。もういい、たくさんだ、くだらない言い訳は終わりだ。
 気付くと、麻紀が隣にいた。
「なあ、私のこと、嫌い?」
「そうじゃないって」乱暴に言うと、喜一は麻紀の頬に触った。涙はもう止まっていた
。頬から首筋へ、そっと手を滑らせる。産毛の少ない白い肌は、つるりとしたゴムのよ
うな感触だった。適度に弾力があり、ひんやりと冷たい。更に荒々しく押し倒されても
、麻紀は、目をつむってされるがままになっていた。顔を近付けた時、麻紀が目を開い
た。
「大切に扱ってね」と麻紀は囁いた。
「何が」
「私のこと」
「分かってるよ」喜一はそう言って、口付けを求めた。だが、唇がわずかに触れ合った
瞬間、麻紀は強い力で喜一を押し戻した。
「本当に分かってる?」
 まっすぐに向けられた視線は、喜一の心に得体の知れない淋しさをもたらした。
「本当に分かってる。俺はやっぱり麻紀からは離れられへん。今それが分かった。もう
金輪際麻紀を不安がらせることはせえへん。ちゃんと分かってるから」
「私のことが大切?」
 言葉は決して無力なものではない、そう思った。確かにそれは単なる意志疎通のため
の道具に過ぎないかもしれない。だが、必要とされる時だって、きっとあるのだ。
「うん。一番大切や」喜一は一言一言を区切るようにはっきりと言った。
 麻紀は、ほんの少し口元を歪めると、今度は喜一の首にしがみつくようにして唇を重
ねてきた。一瞬喜一の脳裏に、祐子の記憶が甦り、目の前の麻紀の姿と重なった。喜一
が初めて祐子の異常を目撃した夜、母は何かに怯えるように抱きついてきたのだった。
突き抜ける戦慄、放たれた言葉、その無垢な眼差し・・・翻る映像はおそろしく鮮やかだ
った。喜一は麻紀の口づけに応えながら、母の姿を意識から追いやろうとした。しかし
、それはなかなか去ってはくれなかった。後ろめたさを感じながら、喜一は麻紀の服を
一枚一枚脱がせていった。寛二達はもう間もなく病院に着くはずだった。待合室でリノ
リウムの床を、そこに反射する光を見つめながら順番を待つ時間は、父にとってどれだ
け長いものだろうか。そしてその傍らで、果たして母は何を思うのだろう。家を発つ際
に祐子が何か叫んでいたのを思い起こした。それは単に喜一の名前を読んでいただけか
もしれなかったし、正気でなかった可能性も考慮すると、その言葉自体が喜一に向けら
れたものであるかも疑わしかった。妙な薬を目に入れられて、忌まわしき判定が下され
た後、これからの重く救いなき生活を、彼らは一体どのように受け止めるのか。喜一は
振り払えど振り払えど執拗にまとわりつく影を疎ましく感じた。居間という場所が悪か
ったのかもしれない。せめて自分の部屋まで行けば良かった。そうすれば、こだわりな
く快楽に身を投じられたかもしれないのに。お前は親不孝者だとどこかから誰かに責め
られているようで、麻紀の中に入り、どれだけ激しく腰を動かしても、なかなか絶頂に
は至らなかった。
 事が終わると、畳の上に寝ころんだまま、腕枕で余韻を楽しむ麻紀の顔を眺めながら
、自分はこの先どこに向かうのかと喜一は思った。そう言えば俺は今までに自分の行く
先について真面目に考えたことがあっただろうか。確かに最近悩んでばかりだった。し
かし、細かい悩みにしっかりと向かい合うことを避けていた気がしないでもない。逃げ
ていただけ・・・? 『バア 光』のマスターや母親のことを持ち出して、他人の状況を
己に投影することで、自分のものではない不安に逆に安心していただけだとしたら・・・
余りにも愚かだ。
 ―すべて、一度ゼロにできたらなあ。
 クーラが効きすぎた部屋は、火照った体をさますにはちょうど良かった。
「何難しい顔してるの?」と麻紀が言った。
「難しい顔で悪かったな」
「また何か考えてたんでしょう?」
「これからのことについて考えてたんや」
「これから?」
「そう。どうなっていくんかなあって」
「私とのこと?」麻紀はもういつものあどけない表情に戻っていた。
「それもあるけど、色々」と喜一は答えた。
 麻紀は寝返りをうつように体を動かして、喜一に向き合った。
「そんなん、考えたってしょうがないやんか。未来は誰にも分からんのやから。ええや
ん、とりあえず今が楽しければ」
「お前は幸せやなァ」喜一は笑った。
「違うの。私だって色々考える時はあるわ。でも、未来のために今の時間を犠牲にする
のって、勿体ないことやなあって、ある日思ったの。それよりも、今流れている時間を
もっと大事にするべきなんじゃないかなって」
「それは・・・そうかもなァ」
 喜一は半分上の空で麻紀から目をそらした。
 ―果たしてそうなのだろうか・・・
「喜一は、何に対しても決めつけすぎるんや。いつもちょっとでも悲しいことがあった
ら、すぐ人生とは悲しいものだっていう感じになってしまうやないの。もっとゆったり
と構えて物を見た方がええんとちゃう?」
 それは違う。喉まで出かかった言葉を喜一は無理矢理飲み込んだ。そんなこと、分か
ってる。
 すべての物事には、複数の側面がある。大別すれば、収縮していく面と拡散していく
面、すなわち一つの事象が内包する陰と陽である。いついかなる場合も、互いの動向を
密かに窺いながら、それらは渾然一体として存在する。もし自分が麻紀と別れても、す
ぐにかどうかは分からないが、いずれは別の相手を見つけるだろうし、家庭が完全に崩
壊したとしても、家族の思考はそれぞれまた新たなる曙光を捜してうごめき出すだろう
。「陰」から「陽」へと視点を転じる時、人は「プラス思考」とか「気持ちの切り替え
」などと声高に叫んで、自身の内なる胎動を実感しながら次の一歩を踏み出すのだ。結
局はそれだけのこと、何もかも、所詮気の持ちようにすぎない。
 しかし―喜一は思うのだった。その転換が、必ずしも意図的に行えないという事実は
、何と皮肉で残酷なことであろう。もがき、苦しみ、のたうち回り、数多の思索ののち
に、ようやく人は、輝く世界への扉に触れ得ることができるのだ。まだそれでも、苦し
んで次の段階に進んだ人間は幸福と言える。ある人は、物事の新しい側面を見ぬままそ
こで命を断ち、ある人は運命と呼ばれるもののうねりに巻き込まれて強制的に「あちら
側」へと連れ去られてしまう。絶望の淵に立つ人間にかける言葉は、きっと虚しく響く
ことだろう。
「俺はただ、人間って不公平にできてるもんやなあって、そう思うだけや」と喜一は言
った。
「そんなことないよ。誰にでも辛いことはあるし、それと同じくらい楽しいことだって
あるんやと思う。公平よ、みんな」と麻紀は言った。
 確かに、陰から陽へ、陽から陰へ、未来永劫続く反復運動が人生なのだとするならば
、あらゆる人々がたどる道にはつまるところ差などないのかもしれない。と言うことは
、マスターも祐子も、自分自身も、最終的には同じ道を歩むのだろうか。内容に違いは
あっても、同じだけの苦楽を得て向かう先は―死。
 自分が何かまったく意味のないことを考えている気がして、喜一は一度考えるのを止
めた。
 ―きりがない。
 しかし、今が楽しければ、という麻紀の言葉には、やはりどこか空々しい乾いた居心
地の悪さを覚えるのだった。
 急に部屋が明るくなった。
「ほら見て。いい天気」起き上がった麻紀がカーテンに手をかけて嬉しそうに言った。
麻紀はまだ裸だった。
「おい、外から見えるって」喜一は慌ててそう言った。差し込む陽光の下、恥ずかしげ
もなく晒された麻紀の裸体は、ため息が出るほど美しかった。
 喜一は自分も立って麻紀を後ろから抱きしめた。麻紀は喜一の腕に鼻面を擦り付けて
甘えた。
「なあ、どっか連れてって」絡み付くような声で麻紀が言う。
 今がまだ昼間だったことに、喜一はようやく気付いた。

 石段は、長く続いていた。一番下から仰ぎ見ると、それはまるで雲の上まで果てなく
伸びているかのようだった。灰色の階段には、木漏れ日がコントラストのはっきりした
まだら模様を作っている。それは、喜一が境内の中で最も好きな光景だった。際に植わ
った緑の木々に覆われているにもかかわらず、箒で掃かれた石畳の上には一枚の木の葉
すら落ちていなかった。
「平日のお寺って、意外に空いてるんやねえ」麻紀は、喜一に先立って石段を上ってい
く。喜一もゆっくりとその後を追った。
 階段を登り切ると―勿論そこは天上などではなく―喜一にとっては久しぶりに目にす
る眺めが広がった。
「おう、今日は彼女も一緒か」本堂の横に設置されている水呑み場の掃除をしていた住
職が大声で問いかけてきた。喜一は笑って頭を下げた。
「はあ・・・気持ちいい」麻紀は緑の香りを楽しむように両手を高く掲げて深呼吸をした。

「ここ、俺の秘密の場所なんや」と喜一は言った。
「知ってるよ」
「え・・・なんで?」
「そんなん、みんな知ってるわ。ネギシ君とかがよく言うてるもん。喜一はいっつも寺
で寝とるって」
「あ、そうか」
「わざわざ電車に乗って来てるの?」
「そうや」
 寺は、喜一の家と大学の、ちょうど間に位置していたのだった。
「でも、こんなに気持のええとこやとは思わんかった」
 やけにはしゃいでいる麻紀を、喜一は目を細めて見送った。麻紀は、跳ねるように遠
ざかっていく。喜一は、いつものベンチに腰掛けた。時計を見ると、午後三時をとっく
に回っていた。しかし、日差しはやけに強かった。それどころか、真っ白に照る太陽は
、ますますその威力を強めていると思えた。喜一はベンチに寝転がった。こうやって蒼
穹を見上げるのも、本当に久しぶりのことだった。目をつむると、皮膚から一気に汗が
吹き出した。流れる汗と共に、体中に染みついた汚れが排出される気がした。喜一を呼
ぶ声がした。麻紀の声だった。目を開けてみる。ふと見遣った先には、水呑み場から戻
ってくる住職の姿があった。住職は手に持ったバケツを横に薙ぎ払うように振った。水
が飛び、乾燥したクリーム色の砂地が一瞬にして黒くなった。住職は笑っている。立ち
のぼる陽炎で、黒い袈裟が左右に揺らめいた。


         (了)


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A.Shimoura creats some culture. Shall we play and pray?
Everybody Go,,,,,,,,Ahead!!!!
e-mail:::a-shimo@sol.dti.ne.jp .............OK??
ICQ number:::31267295 ............Check it out!!

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