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Date: Thu, 10 Jun 1999 18:58:10 +0900
From: "Atsushi.S" <a-shimo@sol.dti.ne.jp>
Subject: [bun 00286] 「陽炎の日」2
To: bun <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <375F8C32A.41F2A-SHIMO@smtp.sol.dti.ne.jp>
X-Mail-Count: 00286

 大学に着いた頃には、辺りはすっかり闇に包まれていた。
 姉に短く礼を言うと、喜一は人気のない構内に足を踏み入れた。日曜日に大学へ来る
人間は体育会部員くらいのものだったが、彼らは皆専用通路を使って直接グラウンドや
体育館に出入りするので、校舎が立ち並んでいる側は驚くほどひっそりと静まり返って
いる。それはあたかも持ち主を失った山荘のような、どこか頼りなげな静寂だった。喜
一は早足で並木道を通り抜けた。彼の目的は、学生会館の裏側にある何かの用具倉庫く
らいの小さな建物だった。
 喜一の大学は結構な規模の総合大学で、敷地内には様々な施設がある。食堂や本屋は
もとより、コンビニエンスストア、銀行・郵便局のキャッシュディスペンサー、理髪店
からカメラ屋、靴屋に至るまで、そこに居を構えれば充分日常生活を送っていけるほど
の店舗施設が、それこそ学内の至る所に点在しているのだ。喜一が目指す店も、そうい
った種種雑多な施設の一つであった。
 中二階になっている学生会館の入り口をくぐり、そのまま目の前の階段を降りて裏口
から外に出ると、もう長い間手入れされた気配のない藪があった。枯れ木と雑草の向こ
う側に、小さな灯火が見える。藪をぐるっと迂回するように人々が踏みしめてできた道
を歩くと、靴の裏で小枝や石ころの乾いた音が小気味良く鳴った。
 見た目もそのまま用具倉庫並のプレハブの、ドアだけがやたらと重厚に黒光りしてい
た。分厚い木製のドア。黒光りは、ひび割れたニスのせいだけではなかった。それは、
何代もの時を経て塗り重ねられた歴史を物語っていた。喜一と同じようにこの戸を開け
た数多くの先人達の歴史だ。そのような歴史を示唆する名残は、学内の様々な場所で見
かける。しかし喜一にとって、ここだけは別格だった。ある卒業生が個人的に寄贈した
というオーク材の扉の向こう側こそは、喜一が大学でもっとも愛する場所だったのだ。

 ドアには『バア 光』という文字が彫ってあった。すり切れかけたその美しい明朝体
を見つめながらしばらく逡巡したのち、喜一は思い切ってノブに手をかけた。
  澄み切った静寂に風穴を開けるかなきり声が、喜一の耳を刺した。
「いらっしゃい」カウンターに立つマスターが笑いかけてきた。酒を片手に談笑してい
る七,八人の学生達は皆喜一の知った顔だった。その中には、ネギシの姿もあった。
 喜一はマスターに目礼すると、カウンターの一番端の席に座った。もっとも、『光』
の狭い店内に、テーブル席などというものはそもそも存在しないのだが。
「ビールでええか?」マスターがグラスを洗う手を止めて訊いた。
「あ、はい」
 既にできあがっているらしい学生の一人が、喜一に気付いて奇声をあげた。
「遅い。何やってたんだよお。おおい、みんな、喜一が来たぞ」
「あ、本当だ。もう、何時だと思ってんのよお。喜一君、待ってたんだから」
「そうだそうだ。罰として喜一はみんなに酒をおごれ」
 喜一は苦笑しながら悪い悪い、と謝った。
「道が混んでたんや」
 まさか姉弟喧嘩をしていたせいだとは言えなかった。目の前にどんと出された生ビー
ルを何気なくすすった喜一に、また誰かが非難の声をあげた。
「おいおい、まず乾杯やろ?」
 そこにいた全員が、次々に喜一の周りに集まり、グラスをぶつけてきた。一通りの儀
式が終わると、皆またそれぞれの席に戻っていった。
 手にした赤い本を振り回しながら、ネギシが何か叫んでいる。剽軽な話しぶりは、場
に弾けるような笑い声をもたらしていた。どうやら彼らは、各々の将来について話して
いるようだった。自分達には無限の可能性があるのだと、誰かが芝居がかった口調で言
った。喜一は何となく落ち着かない気分になって、目をそらした。
「まったく・・・いつもいつも、ようやるわ、ほんま」喜一はマスターに向かって話しか
けた。
「そうやなあ」マスターは笑いながらそう言い、更に幾分同情のこもった口調で続けた
。「中山君も、付き合わされて大変やなあ」
「いや、こう見えても俺は楽しんでますから。それより、マスターこそ、大変でしょう
。こんなアホどもに店を占領されて」
「そんなことあらへん。もうこの頃は来てくれる客も君らぐらいのもんやし。昔はそれ
こそ教授から学生まで入れ替わり立ち替わり並んで飲んどったんやが」
 マスターの口調はどこか淋しげだった。 
 『バア 光』が今年一杯で店を閉めてしまうことを、喜一は知っていた。学生達の大
学に対する意識が希薄になったこと、ここ数年急激に発展した駅前学生街の存在、理由
は挙げればきりがなかった。もともと『光』は正確には大学に属する店舗ではない。ま
だ学生運動華やかなりし頃、集会好きの左翼系学生達がたまり場として用具倉庫を改造
したのが、この店のそもそもの始まりだった。無数の学生達の思想論議に利用され、一
度は大学側の圧力によって閉鎖されたのち、今のマスターが半分道楽で『光』を始めた
のが十七、八年ほど前のことで、その時にはもう学生運動など遠い昔の話となっており
、営業許可は意外にすんなりおりたらしい。『光』がまだ学生達の集会所だった頃、マ
スターは大学院生として良く集まりに参加していたのだという。喜一達に付き合って酔
っぱらうと、マスターは時折、ぼそぼそと懐かしむようにその時代のことを語り始める
のだった。
「今も昔も、運動好きの学生の考えることなんか同じや。現代っ子は、と良く言われる
が、儂にはそれでもやっぱりなんも変わらんように見える。反体制、反権力。やっと籠
から飛び立とうとしている雛鳥がまず考えるのは、いつの時代もそういうことや。それ
でええと儂は思うわ。みんなこれから地に足をつけて生きていかなあかんのやから。二
度と籠の中には戻れんのやし、大学時代くらい好き勝手やって、悪いわけがない。しか
し思想自体は変わらんにしても、今は誰も行動をせんようになった。皆、昔の学生と同
じ目をして、それぞれのやり方で、声高に既成のイデオロギーを批判する。でも、それ
だけなんや。そんなもんは大学側にとって何の脅威にもならんのやな」
 マスターの言う「教授から学生まで入れ替わり立ち替わり並んで飲んで」いた時代を
、喜一は知らない。それどころか喜一は、自分と自分の友人達以外に『光』にやってく
る学生達を殆ど見たことがなかった。
 以前は喜一も、月に一度『光』に来れば良いほうだった。毎週のように顔を見せるよ
うになったのは、ここ最近、すなわち『光』が今後辿る運命を知ってからのことである
。一つの小さな歴史が建物と共に壊され、酒を吸い込んだ土が綺麗に舗装されて遊歩道
になってしまう前に、自分自身の痕跡を残しておきたかったのだ。そこで日々を過ごし
ていたのだという確かな足跡を。そして、できることならこれから自分が歩むべき物語
の一端を掴みたいとすら喜一は思っていた。おそらくそんな思いは、喜一だけのもので
はなかったはずだ。誰からともなく集まるお決まりの仲間達は皆、多かれ少なかれ『光
』に対する特別な思いを胸に秘めているに違いなかった。
「またそんな端っこで飲んで」
 ふと気付くと、いつの間にか麻紀が隣に座っていた。
「一人で飲んでて、楽しい?」
「おう、楽しいで」喜一は冗談めかした口調で言った。
「相変わらず暗いなあ、アンタは」
「放っとけ」
「なあ喜一、いっつもそうやって一人で飲んで、一人で行動して、どういうこと考えて
んのん?」と麻紀は無邪気に訊いた。
「うっさいなあ。別にどうでもええやろ。向こう行っとけや」
「ほら、またそんな言い方する」
 麻紀は喜一の顔を覗きこむように顔を近づけてきた。喜一は麻紀の目を見つめ返して
、微笑んだ。
「この店がなくなってしもたら、そうやってみんながじゃれ合ってるとこ見れんように
なるのが一番淋しいなあ。特に、麻紀ちゃんと中山君の仲睦まじい姿が見れんっちゅう
のが、儂は一番淋しい」とマスターが言った。
「またあ、そんなに私と喜一って、いいカップルに見えます?」と麻紀がおどけて言っ
た。既に麻紀は相当酔っているようだった。
「おうよ。『バア 光』始まって以来の名コンビや、君らは」
「なあ、喜一、聞いた? 『光』始まって以来やって」
「へえ」と喜一はわざとそっけなく言った。
「もう・・・へえ、ちゃうの」
「分かったよ。分かったから」ふいにマスターと目が合い、喜一は苦笑した。マスター
はいかにも壮年らしい鷹揚とした笑みを返し、またグラスを洗い始めた。
 ふいに麻紀が耳元に唇を近づけてきたので、喜一は驚いてのけぞった。
「会いたかったの」とその唇は囁いた。
 相も変わらず騒ぎ立てる仲間達の方を気にしながら、喜一は麻紀を見て頷き、カウン
ターの下で小さな手を握った。
 麻紀は、文学部の二年生だった。喜一が時折訪れていた『バア 光』の仲間達に紹介
されて津波のような恋に落ちたのが一年前、付かず離れずの飲み友達を経て、お互いの
意志を確認し合うまでに半年の時を要した。一見若気の至りに見えるある夜の交わりが
、二人の関係の始まりだった。
 『バア 光』の壁にこれも手作りで設けられたたった一つの窓から、一匹の虫が侵入
してきたのを、マスターが手を振って追い払う仕草をした。
「そろそろ夏やなァ・・・いっそのこと、しんどい季節が来る前に閉めてしもうた方がえ
えのかもしれんなあ」
 ぶち抜いた壁に無理矢理枠をはめ込んだだけの窓には網戸がなく、従って夏の夜には
窓は閉め切られ、冷房器具といえば小さな扇風機一つしかない『光』の店内は、茹だる
ような熱気で一杯になってしまうのだった。マスターはぶつぶつ言いながら窓を閉めた
。
 喜一が三杯目のビールを飲み干すのを待っていたかのように、麻紀がようやく聞き取
れるくらいの声で呟くように言った。
「外、行こう」
 喜一は勘定を済ませると、まだ大声で笑い合っている仲間達の目に触れぬよう、こっ
そりと重いドアを開けて店を出た。数歩歩いたところで麻紀が小走りに喜一に並んで腕
を絡めてきた。
「もう、そんなにびくびくせんでもええやないの」と麻紀は口を尖らせて言った。
「別にびくびくしてるわけやない。あいつらに見つかったらうるさいからな」と喜一は
言った。
 分厚いドアを閉めてしまうと、喧噪はまったくと言って良いほど外には漏れてこなか
った。安っぽいプレハブの壁にさほど防音効果があるとは思えなかったが、とにかく、
店の外は、辺りを漆黒に染める闇が音という音を飲み尽くしてしまったかの如くひっそ
りとしていた。
「あいつら、また朝まで騒ぐつもりかな」
「いつものことやんか」
「マスター、ほんまに夏には店閉めるつもりなんやろか」喜一は振り向いて『光』を眺
めた。
「なんか、淋しいね」そう言いながら麻紀は絡めた腕の先で喜一の手を握った。薄いタ
ンクトップ越しに伝わるふくよかな感触が喜一を高ぶらせた。藪の陰に入った所で、喜
一はいきなり麻紀に口づけた。一瞬緊張ぎみに身を震わせながら、それでも麻紀は応え
てきた。我慢できずに喜一が服の上から胸を触ると、麻紀は体をよじるようにして拒ん
だ。
「こんな場所で、いやや」
 喜一は気恥ずかしくなり、麻紀を突き飛ばすように押しやると、無言で歩き出した。
「待って。なあ、待ってよお。聞こえてんの」
 麻紀が後を追ってくるのが分かる。だが喜一は歩を緩めなかった。校舎の壁に、墨文
字のアジ・ビラが何枚も連貼りしてあるのが見えた。暗くて書いてある台詞までは把握
できなかったが、どうせ天皇制がどうの、自衛隊の海外派遣がどうのといった内容だろ
うと喜一は推測した。いつの時代も、学生運動のスローガンは呆れるほど変わらないも
のだと、前にマスターも言っていた。しかし今、学生達は『バア 光』には集まらない
のだと喜一は思った。急激な変化が視覚的に見て取れる社会とは異なった、外界から隔
絶されたこの大学という一種特異な空間においても、やはり何かが動いているのだ。一
体それは何であろうか。時代時代を疾駆した息吹は、時の流れと共にゆっくりと風化し
つつも、確実に次の時代に影響を与え、何かを変えていく。そして今、『バア 光』と
いう一つの歴史の残滓が、その頼りなげな灯火が消えようとしている。喜一の胸を、歯
がゆさともやりきれなさともつかぬ、何とも悄然とした感情が吹き抜けた。
「もう、待ってって言うてるやんか」
 知らず早足になっていた喜一の腰を、追い付いた麻紀の細腕が羽交い締めにした。喜
一は構わず歩こうとしたが、麻紀が全身の力を抜いて喜一に体を預けるようにしていた
ため、一歩ごとに彼女を引きずる格好になった。
「おい、何しとんねん」と喜一は嘆息ぎみに言った。
「だって・・・」
「離せよ」
「いやや」麻紀は断固とした口調で言い放った。「もっとゆっくり歩こう。なあ、手ェ
繋いで一緒に歩こうよォ」
 喜一は立ち止まり、麻紀の手を解いて片方の手の平を自分の手におさめた。そうして
歩きながら、喜一は麻紀に向かって言った。
「なあ、人間はやっぱり変わっていくもんなんやろか・・・」
「どうしたん?」
「俺も、麻紀も、ネギシ達も、みんないつかはここからいなくなるんや。『光』もじき
なくなってしまう・・・当たり前のことなんやろうけど、そう考えると、何や全部が虚し
いなあ」
 喜一はもう一度、既に視界から消えてしまった『光』の方向を見遣った。
「心配せんでも、喜一と私は変われへんよ」麻紀は無邪気にそう言った。
 終電間際の阪急電車に揺られながら、この世には、変わらぬものなどやはりないのだ
と喜一は思った。

       ※

 六月に入っても、祐子の容態は一向に良くならなかった。今までの鬱症状に加え、度
重なる健忘や徘徊といった状態が頻発し始めたのだ。心療内科から移った内科では、極
めてアルツハイマー性痴呆の可能性が高いという診断を受けた。だが、はっきりとした
認定はされなかった。アルツハイマーを識別するための診療を寛二が頑として拒んだか
らである。
「じゃあ、次の来院時にしっかりと検査してみましょう。今は簡単に判定ができるんで
すよ。点眼試験といってね、トロピカミドっていう薬品を点眼して瞳孔の拡大率を見る
んです。後は、かなひろいテストや、それからちょっと蛋白の方もね、採血してみて調
べるんですよ。全部簡単な検査で済みますので、ほとんど患者さんに負担はかかりませ
ん。一応私としては、できるだけ早期にやっとくことをお勧めしてますね。アルツハイ
マー性痴呆自体に対する抗痴呆薬ってのは残念ながらまだないんですが、結局脳の病気
ですから、そうと分かれば痴呆の周辺症状を改善することは可能なんです」
 まだ若い医師が早口でまくし立てるのを、喜一は父の隣に座って聞いた。父がはっき
りとした検査を断ったのは、おそらく寛二自身が落ち着いて頭を冷やす時間を欲したか
らだろうと喜一は考えた。医者のその発言だけで、現実的に祐子が痴呆、すなわち「ぼ
け」だと診断されたわけだが、不思議と驚きはなかった。奇妙に冴え渡った頭の片隅で
、漠とした不安が広がりつつあったが、それも今に始まったことではなかった。
 帰りの車の中に落ち着くと、ほどなく祐子は眠ってしまった。何度か後部座席の祐子
の名前を呼び、その眠りが浅くはないのを確かめてから、寛二は喜一に話しかけた。
「これから、大変やァ」
 喜一は、もう見慣れたものとなった父の弱々しい横顔を見た。
「喜一もしっかりせなあかんなァ。お前は最近外に遊びに行っとるか部屋にこもっとる
かで、儂とも滅多に顔合わせんけど、なあ、お母さんの面倒とかな、分担してやっても
らわんと」
「分かっとる」喜一はぶっきらぼうに答えた。
「ほんまに分かっとるんか。ええか、喜一、親は年老いていくもんやねんで。お父さん
も、いつどうなるか分かれへん。若い時とは違って、段々体の自由もきかんようになっ
てくる。まあまだ将来のことも決まらんお前らに面倒みてくれとはよう言わんけど・・・
せめてはよ安心させてくれ」
 喜一は唇を硬く結んだまま、寛二から目をそむけた。眠りこける母の姿が目に入った
。祐子は姿勢をだらしなく崩して、半分開いた口から枯れた寝息をたてている。喜一は
改めてまだ元気だった頃の母を思い、深くため息をついた。
「なあ・・・喜一」
 寛二は呟くように喋った。
「お母さんも、あれほど病気に縁のないやつはおらんと思っとったんやけど・・・人間の
人生ってのは、ほんまに分からんわ。運命と言えばそうなんやろうが」
「うん・・・」
「お父さん、最近良く考えるんやが・・・生きてるうちに何をしたかっちゅうのは、結局
その人が死ぬ間際に大切になってくるのとちゃうかなあ。分かるか? つまり、人間は
、より良く死ぬために現在を生きてんのかもしれへんっちゅうことや」
「何、それ? 俺達はただ死ぬために生きてるんやってこと?」
「ちゃうちゃう。どう言うんか、波瀾万丈も人生、平々凡々も人生、人によって人生は
様々なもんや。けど最後は皆死ぬ。これだけは疑いようのない事実や。すべての感情は
その時消滅してしまうが、同時に自分というものが一番意味を持つのもその瞬間やない
かなと、そう思うわけや」
「ふうん・・・」
「もし不老不死の薬なんてのができたら、飲んだ人はそらもう淋しいもんやと思うで。
お父さんくらいの年になるとな、死についての考え方もえらい変わってきよる。儂らに
とったら死はほんまに身近な未来や。不思議なもんで、死に向かう自分の姿が、なんや
客観的に見えてくる。まあそういうのは健全なことなんやろうが・・・」
 それでは母はどうなのだと、喜一は訊きたかった。日々の雑事にひたすら追われ、や
りたがっていた洋裁の勉強もろくにできず、人間らしい情動をところどころ病に侵され
ながら、それでもまだ生きながらえている彼女の人生は、一体どこへ向かうのかと。し
かし、喜一の口は堅く閉ざされた二枚岩のように、ぴくりとも動かなかった。
 ふいに募った苛立ちに、喜一は頭を垂れて抗した。擦り切れたデニムジーンズの膝の
辺りを見つめると、何故だかひどく悲しい気持ちになった。
「幸せの基準は人それぞれ違うんやろうけど、死ぬ時には、ああ、良い人生やったなっ
て、どうせならそう思いたいもんやなあ」ぽつりと漏らした寛二の言葉は、喉に痰が絡
んだみたいにかすれていた。

 家に着くと、寛二はまだ寝ぼけ眼の祐子を支えながら、居間に入った。喜一はその後
は追わずに、台所で水を飲んだ。安っぽい浄水器を通した水は、錆びた鉄の味がした。

「喜一、久しぶりにどうや」寛二は戸棚から将棋板を出した。喜一は何も言わずに首を
振り、二階の部屋に上がった。
 自分の部屋に入ると、その乱雑さのせいもあって喜一はまた嫌な気分になった。この
家はどうなっていくのだろう?  何か音楽をかけようと、CDラックを探ってみたが、
どれにも興味が湧かなかった。マイルス・デイビスもスタン・ゲッツもビートルズもエ
ルヴィス・コステロもビリー・ジョエルも、すべて自分が選んで買ったものなのに、そ
してそれらの音楽はかつて確かに自分の胸を熱く高ぶらせてくれていたはずなのに、ず
らりと並ぶCDは、どれも自分のものでないような、ひどくよそよそしい感じがした。
喜一は諦めてスプリングのいかれたソファに腰掛けた。
 ぼうっと放心していると、何となく麻紀に会いたい気持ちになった。喜一は、ここ一
週間くらい麻紀の顔を見ていなかった。麻紀の体が懐かしかった。無性にその小さく薄
い唇に吸い付きたいと思った。
 麻紀の携帯電話の番号をダイヤルすると、数回のコールののち、平板なアナウンスが
流れた。―ただいま、電話に出ることができません。後ほど、おかけ直し下さい。
 次に喜一は、床に転がっている読みかけの文庫本を手に取った。開いてページを捲っ
てみたが、羅列された文字はそれ以上のものでもそれ以下のものでもなく、幾ら集中し
ようと眉間に皺を寄せても、全体の印象を捉えることはできなかった。
 仕方なく、喜一はベッドにごろりと寝転がった。結局そうするより他にやることがな
くなってしまったのだった。
 ―それにしても自由な身やなァ、俺は。
 実際、喜一を束縛するものは何もなかった。いつ、どこで、どんなことをしようと、
咎め立てする人間もいない。
 戦後資本主義の消費社会に慣れきった人々は、おおむね社会性に欠けている傾向にあ
ると、何かの本で読んだことがあった。おそらく大学の図書館で、著者は新進気鋭の社
会学者だったろうか。彼は「消費者」達の生産性の乏しさを嘆いていた。現代人の誰も
が、オートメーションで与えられる物質をただ享受するだけで、最低限の社会倫理すら
生産できなくなっているのだと。それはまさに自分のことだと喜一は思った。束縛を嫌
悪し、ひたすら独立を求める一方で、いざ自由を手に入れてみると、それを持て余すこ
としかできない。しかし少なくとも、そんな現状に内在する矛盾は、誰より喜一自身が
一番認識しているつもりだった。そしてせめてままならぬ現実を言語化することによっ
てひとときの慰めにしようと、意識の中空に手を伸ばしてみるのだが、その手が何かに
触れ得たことなど一度もなかった。
  突然鳴り渡った神経を逆撫でるような電子音が、喜一の思考を中断させた。
「あ、喜一? 電話くれた? 着信あったんやけど」麻紀だった。
 喜一はがばっと跳ね起き、
「どこにおるん?」と訊ねた。
「今、『光』におんねんけど・・・」
 麻紀の呑気な声は、喜一のささくれ立った心に刺々しく響いた。
「なんで? 誰とおるんや? まさか一人じゃないやろう」
「え、いつものメンバーやで。ネギシ君とか三、四人。・・・どうしたん? 喜一、おか
しいで」
「なあ、今から出て来いや」
「えー、そんなん、無理やわあ。だってさっき来たところやもん・・・それよりな、喜一
がこっちに来たらええねん。みんな待ってるし、なあ、そうしたら?」
「アホか、ええから来いって」喜一は苛立ちを隠せなかった。すぐに麻紀の声色が変わ
った。
「何よお、無理やって言うてるやんか。虫の居所が悪いからって、私に当たらんといて
」
 一度麻紀の感情のたがが外れてしまうと、途端に喜一の手には負えなくなる。毎度の
ことだった。しかし喜一はいつものように必死に弁明する気にもなれず、半ば衝動的に
電話を切った。
 ―くそっ、もうどうにでもなれ。
 少なからず後悔の念はあったが、それよりも改めて電話をかけ直してこない麻紀に腹
が立った。心配そうに声をかけるネギシ達に向かって、麻紀はつくり笑顔で答えるのだ
ろう。ごめん、別になんでもない。毎日手入れを怠らない栗色のサラサラ・ヘアを左手
で梳き上げながら。
 高ぶる感情を押さえ切れぬまま、喜一はまたベッドに身を投げ出した。『光』で騒い
でいる麻紀を想像すると、自分がとてつもなく小さい存在に思えて、思い切り泣きたく
なった。誰に見られているわけでもないのに、喜一は歯を食いしばって、今にも溢れそ
うになる涙を堪えた。

 本格的に雨が振り出したのは、六月の第二週に入ってからだった。日々上昇する気温
と混じり合った湿気は、街の不快指数にそのまま反映された。一向にやむ気配を見せな
い窓の外の雨を眺めながら、これからクーラーでまた電気代がかさむなあ、と寛二はぶ
つぶつと一人ごちた。父の言葉の殆どを、喜一はまるで聞こえなかった素振りをしてや
り過ごした。もうこれ以上、すっかり弱気になってしまった父を見たくなかったのだ。

 喜一は、大部分の人間と同じように、梅雨が好きではなかった。肌にまとわりつく感
触はできれば避けたいものだったし、まだ幼い頃から、天気予報の地図上に表示される
青い傘マークを見ると決まって暗澹とした心地になった。そして何よりも、目に映るす
べての景色を覆う底知れぬ寂寞が嫌いだった。
 梅雨の季節はなるべく外出しないようにしていたが、大学の授業だけは犠牲にするわ
けにはいかなかった。眼前に留年という二文字がちらついている喜一には、その日の気
分で己の行動を決定する余裕などなかったのだ。仕方なく、喜一はせめて授業のない日
は携帯電話の電源を切って終日家にこもった。麻紀から何度か留守番電話が入っていた
が、どうにも気分が乗らず放っておくと、いつのまにかそれもなくなった。当然麻紀の
ことが気にかかったが、喜一は連絡をつけようとも思わず、自身の体を縛る鈍重な憂鬱
をすべて季節のせいにした。きっと雨さえ止めば、すべては上手くいくに違いない。雨
雲が去った後にやって来る季節を唯一の慰めにして、喜一は新しくはない家のひなびた
匂いの中で日々を暮らした。
 そんな風にして、長い六月が過ぎた。
 七月最初の授業が終わってから、喜一はネギシに『光』に行かないかと誘われた。
「最近顔見せてなかったやろ。マスター淋しがってたぞ。あ、麻紀ちゃんもな」ネギシ
は喜一の答えを待たずに先に立って歩き出した。六月初めのあの電話以来声も聞いてい
なかった麻紀に会えるかもしれないという淡い期待が、喜一を従わせた。
 まだ時間が早いためか、『光』の店内に知った顔はいなかった。客といえば黒い髪を
束ねた女子学生が一人、コーヒーを飲みながら本を読んでいるだけで、とても酒を飲む
雰囲気ではない。
「中山君、久しぶりやなァ」マスターがもう何年も会っていない友人を懐かしむような
口調で言った。
「ビールでええか」
 まだ夕方だからと断ろうとする喜一を目くばせで制して、ネギシが、
「特大ジョッキで」と言った。カウンターの端に座る女子学生が、一瞬本から目を話し
てちらりとこちらを見た。
「おい・・・」喜一はネギシの脇腹を肘で小突いた。
「ええから」とネギシが強く言った。
 ほどなく、喜一達の前に高さ三十センチはあろうかと思われる陶製のジョッキが二つ
置かれた。全体的に茶系の色使いで、酒を飲みながら歓談する人々の絵がルネッサンス
風のタッチで彫られた巨大ジョッキは、ドイツやベルギーを旅した友人達が買ってくる
おみやげとして、また繁華街のバーのカウンターに並べられた飾りとして、喜一も何度
か目にしたことがあるものだった。実際にビアジョッキとして使うところを見るのは勿
論初めてである。
「マスター、こ、これ・・・」
 戸惑うように問う喜一に、マスターは茶目っ気たっぷりに答えた。
「ええねん、今日は特別サービスや。君もどう、一杯」マスターは不意の乱入舎に集中
を乱されて迷惑そうにため息をつく女子学生に向かって言った。女子学生は首を横に振
り、不思議そうに喜一達を眺めながら、本を閉じて出ていった。
「ま、そういうことや」とネギシが言った。
 幾分強張ったネギシの表情を見て、喜一はやっと今日が何の日であったかを思い出し
た。
「あ・・・」喜一は言葉をつまらせた。
「今まで、世話んなったなあ」とマスターが言った。「今日で終いやァ。なんや、肩の
荷が降りた気がするわ」
 喜一はマスターとネギシの顔を見比べた。
「まあ、飲もう飲もう。追悼の酒や」ネギシはそう言って、ジョッキを合わせてきた。
陶器同士がぶつかり合うゴツッという聞き慣れない音がした。
 最後の授業が終わる時刻を境に、次々に学生達が店内に入ってきた。いつもの仲間も
いれば、喜一の知らない顔もあった。マスターは、その一人一人と丁寧に挨拶を交わし
ながら、どこにしまってあったのか、喜一達のものと同じジョッキを次々と出してビー
ルを注いだ。
 次々と集結する学生達で、『バア 光』の店内はたちまち一杯になった。カウンター
席にあぶれた学生達は、空いているスペースに立って酒を飲んだ。満席だからといって
帰る者は誰一人としていなかった。『光』を愛する学生がこんなにもいたことに、喜一
はまず驚愕し、そして感動した。マスターはさすがに忙しそうに動き回っており、真剣
に汗を流す表情からはいかなる感情をも窺えなかった。
 夜九時を回り、場の盛り上がりが最高潮に達しても、麻紀が現れないのを喜一は不審
に思った。マスターも仲間達も皆、麻紀の不在には気付いているようだったが、落ち着
きなく辺りを見回す喜一に気を使ってか、誰もそのことについては口にしなかった。十
時を過ぎると、ぽつぽつと帰り支度を始める姿が目立ちだした。
 麻紀はまだ来ない。
「なあ、おい、喜一」ろれつの回らない口調でそう言うと、ネギシは喜一の肩を掴んだ
。
「なんや」と喜一は言った。
「あの、『ミッドセンチュリーの奇跡』なあ、昨日見つけたんや」
「ああ」
「探せばまだ見つかるって、店員が言うとったで」絡むような言い方だった。
「ふうん」喜一は意識的に素っ気なく言った。
 ネギシは二,三度苦しそうに息を吐いた。
「まあ、ええねんけどな」そう言って黙り込んだ。
 酒に酔った者独特の粘着質の話し方から逃れるように喜一は目を背けた。ネギシはそ
れきり何も言わなかった。
 終電に間に合うか間に合わないかの時間になって、喜一はやはり家に帰ろうと思い、
席を立った。
「中山君、帰るんか」とマスターが言った。
「はい」
「長い間、ありがとうな」
「いえ、こちらこそ、御世話になりました」
「麻紀ちゃん、来んかったなァ」
「用事でもあったんじゃないですか」
「そうか・・・まあ、よろしく言うといてくれ」
「はい。マスター、これからも頑張って下さいね」
 マスターは一瞬淋しそうに顔を歪め、笑った。
「どうした、また柄にもないこと言うて」
「いや・・・俺、この店好きやったから」喜一は店内をぐるりと見回した。
「そうか・・・ありがたいなあ。うん、そんな風に言うてもらえるのが、一番ありがたい」

「今日は、朝までですか?」
 みんなと一緒に朝までこれや、とマスターは片手でグラスを傾ける素振りをした。
 喜一はぺこりと礼をして、店を出た。
  校門を出る所で、喜一は誰かに呼ばれた気がして、後ろを振り向いた。誰の姿も見え
なかった。そのまま帰るのも何となくためらわれて、校門の脇にある木製のベンチに腰
を降ろした。すると『バア 光』に通った日々が脳裏を巡った。喜一の場合、それは仲
間と一緒になって騒いだ時間ではなく、麻紀と、またマスターと静かに会話を交わし合
った記憶だった。
 マスターは、『光』を経営することで、何を得たのだろうと喜一は思った。何故か、
母の顔が浮かんだ。あんなに活発で、エネルギーに満ち満ちていた母の人生には、どの
ような意義があったのか。正気を取り戻している時、一人では寝起きもままならない現
在の状態を彼女はいかに理解し、そしてそれにどう向かい合っていくのだろうか・・・
 風の吹かない、夏の夜だった。
 喜一は沈滞した空気のせいで体中がじっとりと汗ばむのを感じた。ふと顔をあげた喜
一の前に、闇をまとって黒々とした建物の群が西欧の古城のように聳えた。



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