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Date: Thu, 10 Jun 1999 18:58:04 +0900
From: "Atsushi.S" <a-shimo@sol.dti.ne.jp>
Subject: [bun 00285] 「陽炎の日」1
To: bun <bun@cre.ne.jp>
Message-Id: <375F8C2C8C.41F1A-SHIMO@smtp.sol.dti.ne.jp>
X-Mail-Count: 00285

あつしです。
投稿します。いわゆる一つの青春小説です。
400字詰め原稿用紙で93枚。ちょっと長めの短編です。
ばばばっと2週間くらいで書き上げたので、色々ダメな所
もあるとは思いますが、とりあえず読んで下さい。
93枚分一気に送るのもなんですから、いくつかのメールに分けて
送ります。3つくらい。
今回のはHじゃないので、そういうのが嫌いな人も安心して
読んで下さい。(笑)
それでは、よろしくお願いします。


     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「陽炎の日」


 ―雲が、襲ってくる。
 そう思った。
                         
 鬱蒼と繁茂する木々の緑を、初夏の白い入道雲が今まさに飲み込もうとしていた。喜
一の瞳には、盛り上がった入道雲が、巨大な津波の如く大地に降りかかってくるように
見えた。じっと注視していると、雲が右から左へとゆっくり流れているのが分かる。仄
かにくすんだブルーの空が、次第にその面積を広げていく。そよそよと頬を撫でる涼風
は、雨上がりの湿った大気を一瞬たりとも淀ませることはない。
 相当くたびれた木製のベンチに仰向けに身を横たえながら、喜一は目を閉じてみた。
枕代わりの両手を頭の下から抜いてだらりと下げてみる。指先は地には届かない。
 体を楽にすると、さわさわと木立がそよぐ音が聞こえた。四方から降りかかる鳥の鳴
き声が、ちょうど心地よい大きさで響く。
 このまま眠ってしまいたいと、喜一は思った。しかしそうする訳にはいかないことも
、彼には充分すぎるほど分かっていた。午後二時になったら、また大学へ戻らねばなら
ない。忌まわしきフランス語の授業が待っているのだ。喜一には、ほんのあと一回欠席
するだけの余裕も残されてはいなかった。全授業日数の三分の二。それが、学生達に課
せられた最低限の出席義務だった。
 喜一は諦めて起きあがった。脱ぎ散らかしてあった靴を履く。赤レザーのコンバース
。
「なんだ、今日はもう昼寝は終わりか」
 苔むした灯籠の周りを箒で掃いていた住職らしき男が、そう声をかけた。
 喜一はいつもと変わらぬ照れたような微笑みを投げ付けた。とりあえず爽やかに振る
まっておけば、大体の大人には受けがいいことを、喜一は経験的に知っていた。
「明日も来いや」と男は言った。
 授業には充分間に合う時間に寺を出たにもかかわらず、結局喜一は教師に嫌味を言わ
れる羽目になった。大学に向かう途中で本屋に寄り道をしていたためである。
「中山、また遅刻か」
「はい、どうも」
「どうもやあれへん。次遅刻したらほんま欠席扱いにするでえ。遅刻二回で欠席一回と
するっちゅうのは、しっかり大学要項にも載っとることやからのう。そしたらお前、留
年決定やぞ。分かっとんのか」
「すみません」
「すみません、ちゃうわ。今までどれだけ大目にみてきたか分かっとるんかゆうてんね
ん」
 授業は一時中断された。
「はい、それはもう。先生にはほんまにいつもお世話になって・・・」
「やかましいわ。ええか、ニコニコしても、次は絶対許さへんぞ。何があっても時間通
りに来い」
「はい、分かりました。ごめんなさい」
 フランス語教授の瀬川は、授業中も大阪弁丸出しで喋る。見てくれもいかにも骨太な
感じで、大柄な体のどこをどう押したらあんな流麗なフランス語が出てくるのか、喜一
は不思議で仕方がなかった。
「またか、お前。どうしようもないなあ」隣に座るネギシが話しかけてきた。
「寝とった」と喜一は言った。
「お不動さんか? お前も、毎日毎日飽きんのう」
「まあな。でもそれだけやないで。来る途中本屋に寄ってな」
「そんなん、終わってから行けばええのに」
「アホか、誰のためやと思っとんねん」喜一は本屋の紙袋をちらつかせた。
「なんや?」ネギシは瞳を輝かせた。
「焦るなって。後でな」と喜一は言った。
 ケスクセ、と瀬川が奏でた。本場仕込みだという瀬川教授の発音を聞くと喜一の頭は
激しく痛んだ。何がケスクセ、や。気取りやがって。こっちは世界の共通語も満足に話
せへんちゅうのに。退屈なのでぼうっと天井を眺めながら教科書を団扇がわりに涼んで
いると、ふいに目が合った瀬川が睨んだ。喜一は慌てて視線を逸らし、身を縮めた。
 授業が終わった後、喜一はネギシと共に学生食堂の一番奥に陣取った。
「ええモンってなんや?」
「まあ、ちょっと待てや」
 喜一は袋を探り、大げさな身振りで買ってきた本を出した。『ミッドセンチュリーの
奇跡』と題されたその分厚いB4版は、1950年代を中心に活躍したインテリアデザ
イナー達の生涯と作品を年譜形式でまとめたものだった。装幀がやたら豪華な本で、赤
い布地の表紙には金の刺繍が施されていた。ネギシは将来インテリアデザイナーを目指
しており、いつだったか本屋でこの本を見つけた時、彼はその法外な値段のために惜し
みながらその本屋を後にしたのだったが、最近になってその本が絶版になっていること
が分かり、しきりに悔しがっていたのを喜一は知っていたのである。
「おお! 『ミッドセンチュリーの奇跡』やないか。よう見つけたなあ。どこにあった
んや、これ」ネギシは大袈裟に驚く仕草をした。
「坂んとこのブックスMや。偶然見つけたんやけどな。まあ、灯台下暗しっちゅうやつ
や」
 既にネギシは目をぎらつかせながら素早くページを捲っている。
「これこれ。俺がこの前買った椅子や。前に話したやろ?」ネギシは本の中のあるペー
ジを喜一に見せた。そこには、カラフルなおもちゃのような椅子の写真があった。
「イームスのシェルチェアって言ってなあ、まあ色とかによっても変わるけど、この肘
掛け付きのやつで七万から十万、肘掛けなしでも三、四万はする代物や」
「ふーん・・・そんなプラスチックの駅のベンチみたいなやつが?」
「アホ。この人工力学に基づいた造形美が分からんかなァ。それにプラスチックやのう
てグラスファイバーや。この椅子の足もなァ、座る人の体重が重ければ重いほど安定す
るっちゅう仕組みになっとるんやで。イームスっていうデザイナーがすごいのはな、ポ
ップモダン全盛の時代に、単に見た目だけにとどまらない機能的な家具をしっかり作っ
とったちゅうことやな。そや、喜一も今度ウチに来るか? 座らせてやらんこともない
でェ」
「アホはお前じゃ。誰がわざわざ椅子に座るために家まで行くねん」喜一は呆れたよう
に言った。
 しばらく本に見入った後、
「ええなあ・・・」とネギシは本当に羨ましそうに言った。
「欲しいか」と喜一は訊いた。
「うん、欲しい欲しい」
 食い付いてきやがった、と喜一は心の中でほくそ笑んだ。
「そうか・・・そしたらこれ、やるわ、っちゅうか、まあ、やらんこともない」
「え? ほんまに? でも、この本高かったんやろ? そんなん、貰えんわあ・・・でも、
くれるっちゅうんやったら・・・」遠慮するようなことを言いながらも、既にネギシの視
線は『ミッドセンチュリーの奇跡』の上に釘付けになっていた。喜一は、ネギシの耳元
に口を寄せて言った。
「その代わりと言っちゃなんやけど、お願いがあるんや」
「え・・・何?」
 ネギシは戸惑いを隠せない様子だった。
「この前な、借りた金あるやろ、あれな、チャラってことで」
「ええ? それはエグいで、お前。だってあん時俺幾ら貸したと思ってんねん」
 ネギシはそう言ったが、喜一はひるまなかった。喜一には、ネギシはもう絶対にこの
本の誘惑から逃れることはできないという確信があった。
「そんなこと言うてもな、お前、よう考えてみいや。これは見つからんぞォ。さっき本
屋の兄ちゃんに訊いてきたんやけどな、何でもこの本実は限定発売やったらしいねん。
絶版ゆう話はあら嘘や。それに高いって、お前、プレミアっちゅうもんがあるやろ。俺
の提案受けておとなしく本を受け取った方が、結局は後悔せんで済むと俺は思うけどな
あ」
「けどなあ・・・」ネギシはまだ踏ん切りがつかないようだった。「この本の値段が九千
四百円で、この前貸したのが・・・」ぶつぶつ呟きながら指を折っている。
 喜一は『ミッドセンチュリーの奇跡』をネギシの手から奪い取った。
「ほんならええわ。別に無理にとは言わんしな」
「ちょっと待ってや。大体喜一ってインテリアなんか好きやったっけ」とネギシは訊い
た。
 喜一はどきりとした。
「アホか、家具マニアの大学生なんか、学生会館辺りに行けば幾らでもおるわい。そい
つらに話持っていったら一発やで。頭でっかちの奴らはとにかくレアっちゅう言葉に弱
いからのお」
 学生会館には映研や写真部など文化系の部室があり、本やらカメラやらを手にした部
員達はいつもその周辺にたむろしているのだった。
「ちょ、ちょっと待って・・・」
 妥協案に耳を貸すつもりはなかった。すがろうとするネギシを無視して、喜一は立ち
上がって学食を出た。追いかけてくる気配があった。喜一はネギシが自分を見失わない
程度の早足で歩いた。実のところ、その気になって専門書街を探せば、『ミッドセンチ
ュリーの奇跡』は決して珍しい本ではないことを喜一は知っていたのだった。

 人のいいネギシから首尾良く金を受け取った後、喜一は群を成して歩く学生達の間を
すり抜けて中央芝生へ行き、木陰に寝そべった。喜一にとって陽光に包まれたまどろみ
はこれ以上ない最高の悦楽だった。目をつむって自然に五感を傾ける行為は何よりの贅
沢だった。短く刈り込んである芝の上で、幾つかのグループがフリスビーやキャッチボ
ールなどをしていたが、喜一が決まって昼寝をする所は、絶対に無計画な遊技の犠牲に
はならない外れの場所であった。
 喜一は今年の九月で二十歳になる。周りからは進学校とされていた高校を出て、現役
で第一志望の大学に受かったのは、運よりも努力のおかげだと彼は考えていた。高校時
代の喜一は、とにかく今の大学で四年間を過ごしたくて、親から見れば現代っ子には珍
しく自発的に、しかし本人はあくまで憧れの地へと至るパスポートを得るための義務的
労働として勉学に励んだ。勉強が苦ではないと真顔で言う喜一を、誰もがまるで未知の
物体を見る目で眺めたが、彼自身は自分の行動を特異なものとは捉えていなかった。あ
ることを為そうと目論む人間は、すべからく個人的ではあるが実際的なビジョンを持っ
て行動するものだと父親から教わっていたからだ。そして彼には、人々の行動の裏には
例外なくその人を突き動かす内的要因が存在していると思えたのである。加えて、目的
を達成するために心を砕くことが即ち人生なのだと彼は確信していた。
 だが、希望していた大学に入学した途端に、喜一の心を奇妙な虚しさが満たした。大
学という目標に向かって邁進してきた青年達が、目的を達した途端に「張り」を失って
いわゆる五月病に悩むという話は良くあった。喜一は己の胸にぽっかり空いた空洞を他
人のそれと同一視することを嫌悪した。大学は目的ではない、単なる手段に過ぎなかっ
たのだと自分自身に言い聞かせた。そして問うた。では、俺は何のために大学に入った
のだ? 俺は一体何がしたい? 思いつく答えは、いつもろくでもないもの、茫漠胡乱
なものでしかなかった。時折、自分の後を小判鮫のように付いて回るネギシを羨ましく
思うことがあった。何と言っても、奴にはインテリアデザイナーになりたいという確固
たる目標があるのだ。そしてそのために複数のアルバイトを掛け持ちしてバカ高い家具
をせっせと買っている。優れた家具に触れることは、感性を養う意味で最良の勉強にな
るのだとネギシは信じている。二本の足で力強く屹立する意志に対して、喜一はある種
の畏怖すら感じていた。
 しかし、大学そのものは嫌いではなかった。構内を闊歩する学生達、その独特の文化
、そこかしこに漂う嘘っぽい平和、―つまり「大学」という虚構―を喜一はこよなく愛
していた。そこにいる時は不思議に心が凪いだ。ただ、目先の安穏に生きるには、喜一
はまだ若すぎたのだ。
 喜一の心には常に焦燥があった。己の為すべきこと、為さねばならぬことを、その影
だけでも手にしたかった。しかし、のんびりと疾走し続ける現実世界の中で、現在のと
ころ彼にできるのは、チャールズ・イームスとバーナー・パントンを敬愛する世間知ら
ずの友人を騙して狡猾に小金をせしめることくらいだった。
 ―空は、広いなァ・・・
 思い切り深呼吸をしてみる。   
  仰向けに寝転がって、無限に広がる穹蓋に向かうと、自分の矮小さがぼやけるような
感じがして、落ち着いた心地になれた。だから喜一は日中野外で昼寝をするのが好きだ
った。頬に当たる太陽の感触はこの上もないものだったし、吸い込む大気さえも、普段
と比べて清らかに感ぜられた。何より、広がる空には下界の濁りがなかった。

 阪急電車を乗り継いで大阪の家に帰ると、母が魚を焼いていた。玄関の扉を開けると
、廊下まで立ちこめた煙が瞳を刺し、生臭い匂いが鼻腔をついた。喜一の家の玄関から
台所の間には仕切りがなかった。
「なんやこの煙、ちゃんと換気扇つけてるんかいな」喜一はそう叫び、靴を脱ぐやいな
や台所へ向かった。
「あらキーちゃん、お帰り。今ちょうどトビウオ焼いてるんよ。トビウオの干物、好き
やろ。なあ、あんたが好きな、トビウオ」母の祐子は呑気にそう言った。
「おかえりやのうて、換気扇は?」
「魚焼いとったら、そら匂いも出るわ。何言うてんのこの子は」
 喜一は左手を帽子のつばのようにかざし、右手で煙を払う真似をした。
「か、換気扇」
「あらあら、この子はまた大袈裟に」
 これ以上母に何を言っても無駄だと思い、喜一はもうもうと渦巻く煙をかいくぐって
自分で換気扇のスイッチをつけ、そのまま隣室へ向かった。隣室は居間になっている。

 居間のロングソファの上では、父の寛二と姉のユウがそれぞれ体を不自然に曲げて眠
っていた。
「どないなっとんねん、この家は」喜一はため息をついた。すぐさま怒鳴り声を二人に
浴びせる。
「起・き・ろ!!」
 二人とも弾かれた弓弦の如き勢いで起きあがった。
「なんやなんや、どないした」
「はーびっくりしたびっくりしたびっくりしたあ」
「どないしたやあらへんわ、ほんま」喜一は力無く呟いた。
 ユウがまず喜一の存在に気付いた。
「あ、キーちゃん、帰ってたん」
「ああ」
「帰ったらまず、ただいま、やろう」続いて寛二も目を擦りながら言う。
「よう言うわ。オカンが火ぃ使っとるっちゅうのに、何をお気楽に寝とんねん」
「何? うん、そう言えば魚臭いなあ。煙もこもっとる」寛二はよっこらせっと身を起
こし、億劫そうに台所へ向かった。
「大体姉ちゃんも姉ちゃんやで。あんだけオカンのことには気ぃつけなって言うとった
のに」
「そんなん言うても、私も仕事で疲れてんねんから、お母さんのことばっかり見てられ
へんもん。学生と違って暇ちゃうの」
「それにしても、オヤジと二人してガアガア寝てるっちゅうのはどういうことや。いつ
火事になってもおかしくないんやで」
「はいはい。ごめんなさいね」とユウは鬱陶しそうに言った。次の瞬間にはもう鏡を覗
き込んで髪をいじくっている。喜一は姉の態度が無性に腹立たしく思えた。いつもこの
姉は喜一を小馬鹿にしたように扱う。たった二歳しか離れていないのに、やたらと大人
ぶる。姉によると、同年代でも女の方が精神年齢が高いのだから、二歳の差は喜一が考
えるよりもずっと大きいのだそうだ。どこがだよ、と喜一は思う。セックスとダイエッ
トとケーキのことしか頭にないくせに。確かにユウは、すっきりと小さい顔をしていて
、切れ長の目はいかにも男受けが良さそうだった。しかし、常に人を見下しているよう
な高飛車な素振りがどうも喜一の気に食わないのだ。ユウが現在親しく付き合っている
という二十六歳の商社マンは、よっぽど女を見る目のない男に違いないと喜一は思って
いる。
 二階の奥にある自分の六畳間に引きこもると、喜一はようやく安堵した。リモコンの
スイッチを押してテレビをつける。ブラウン管が一瞬唸り、女性キャスターの顔が現れ
た。我が家はくつろげる場所であるべきです、と彼女は言っていた。喜一はチャンネル
を一通り変えて、スイッチを切った。
 CDプレーヤーにマイルス・デイビスをセットして、ベッドに飛び込む。何ヶ月も干
していない布団は、かすかに垢の匂いがした。 母親がまだ元気だった頃は、喜一が嫌
がって文句を言っても、週末になると決まって布団は太陽の香りを一杯に孕んでいた。
すべての洗濯物にはきちんとアイロンがかけられ、食卓には毎日食べきれないほどの皿
が並んだ。ほんの三ヶ月前までは、喜一の家はどこにでもある平凡だがそれなりに幸せ
な中流家庭だったのだ。しかし、少なくとも、今自分にとって家庭はくつろげる場所な
どではないと、喜一は思った。
 では自分を満たしてくれる場所は一体どこにあるのか。家庭ではないとすれば、大学
か。確かに大学の芝生で寝転がっている時は、安らかな心地になれた。しかし、喜一は
単に昼寝という行為によって安楽を得ているだけであり、そこが大学であることにさほ
ど意味があるとも思えなかった。まさかその辺の道端に横になるわけにもいかないから
、大学や寺の境内でまどろんでいるに過ぎなかったのである。
 ―結局俺は自意識の内部にしか居場所を見出せない人間なのかもしれないな・・・
 そんなことを考えているうちに、喜一は知らず眠りかけていた。朦朧とする意識の外
側で、マイルスが叫んでいた。ネギシに押し付けた『ミッドセンチュリーの奇跡』の赤
い表紙が、脳裏にちらついていた。

       ※

 次の日は日曜日だった。 
 寛二は、祐子を病院に連れていくために、朝早くに家を出た。その折に寛二が発した
どなり声が、喜一を覚醒させた。夜更かし癖のあるユウは、いつものように昼過ぎまで
眠っており、おかげで喜一は自分で朝食を作らねばならなかった。
 午後二時を少しすぎた頃になってようやく、ユウが起きてきた。
 彼女は居間に姿を表すなり、
「はあ、お腹空いた。何かないのん?」と喜一に訊いた。
 喜一は冷蔵庫を指さして答えた。
「納豆」
「納豆なんか嫌や。キーちゃん、何か作って」
「なんで俺が」
「ええやん、お願い。キーちゃんの方が料理上手いし」とユウは甘えた声を出した。
 しぶしぶ喜一は、二人分の食事を作って食卓に並べた。
 ユウが待ってましたばかりにと箸を出すのを、喜一は制した。
「なんで? はよ食べさせてえな。お腹空いてんねん」当然ユウは抗議の声をあげた。
「ちょっと待って。食べんのはええけど、交換条件があんねん」
「交換条件?」
「そや。俺は今日の夕方に大学に行く用事があんねん。でも、休日に電車乗るのは憂鬱
でなあ。もし送ってくれるんやったら、この飯食うてもええわ。どう?」
「大学? なんでよ、日曜日やのに」
「友達と約束があんねや。どうすんの、送ってくれるんかくれへんのか」
 喜一の大学は西宮にあり、家からは車で四十分はかかる。たちまちユウの表情が曇っ
た。「でも、神戸やろ、遠いなあ・・・」
「神戸ちゃうわ、西宮や」
「同じやん、そんなん」
「全然ちゃうわ」
「まあ、ご飯は食べたいしなあ・・・」
 結局ユウは目先の食事を選んだ。

 しかしユウは、出発間際になって行きたくないと言い出した。やっぱり面倒くさいん
だもん、と口を尖らせる姉を殴りつけたいのを我慢して、喜一は慌ててユウをおだてた
りなだめたりして再度頼み込んだ。喜一達がようやく家を出たのは、五月の太陽が今ま
さに沈もうとしている時刻だった。
 大学へと向かう車の中で、ハンドルを握る姉の指に光る指輪を、喜一は見つめながら
言った。
「その指輪、彼氏からか」
「うん、そう。羨ましい?」
 ユウはおどけた声で言った。
「何で俺が羨ましがらなあかんねん」
「これねえ、高かったんよ。でも、あの人全然迷う様子もなく買ってくれてん。やっぱ
社会人は違うわあ。キーちゃんなんか、まだ彼女もおらんのやろ?」
「関係ないやろ、別に」
「またあ、何照れてんの」と言ってユウは低く笑った。
「アホか。大体なあ、彼氏もええけど、少しは家のことも考えてくれ。オカンのことと
か」喜一はあえて攻撃的に言った。
「何言うてんの。私はちゃんと就職も決めたし、お金の面でもお父さん達には全然迷惑
かけてへんやん。親のすねかじってるだけのくせして偉そうなこと言わんといて。キー
ちゃんこそ、男なんやから、もっとしっかりしたらどう?」
 ユウの語調はいつになく厳しいものだった。その言葉に対して、喜一は一言の反論も
できなかった。彼女は昨年短大を卒業して地元の地方銀行に勤めている。長引く不況に
よる就職難の中で、学歴のおぼつかない女子大生が堅実に就職するのは決して容易なこ
とではなかった。
「それにお母さんのこととかも・・・毎週病院まで送り迎えしてんのは、お父さんと私や
ねんで」ユウはぼそりと呟くように言った。
「分かってるよ」
 吐き捨てるようにそう言うと、喜一は車窓の外側に目を向けた。道路は珍しく空いて
いて、見慣れた光景がせわしなく行き過ぎていった。
「もう、ふらふらしてばっかりで」とユウは小さなため息を漏らした。
 それまで平和だった家庭に突然異変が訪れたのは、ほんの三ヶ月前のことだった。そ
の日、いつものように夕刻に帰宅した喜一は、玄関先の植え込みに薄いセーター一枚で
呆然と座り込むユウを見た。まだ寒い二月のことである。更に彼女は、遠目からでもは
っきりと分かるほど震えていた。
「お母さんが・・・」強く問いかける喜一に、ユウはそう答えた。
 喜一は姉に自分の上着をかぶせると、躓きながら家の戸を開けた。エアコンがついて
いないのか、戸外と変わらぬほどの寒さが、トレーナー一枚の喜一の肌を刺した。だが
身にまとわりつく悪寒は、気温のせいだけではなかった。喜一は靴を無造作に脱ぎ捨て
て台所へと向かった。そこに母の姿はなかった。続いて居間の扉を開ける。部屋の隅に
祐子の背中があった。祐子は膝を抱えた体勢で、壁に向かって座っていた。
「母ちゃん!」とっさに喜一は、中学校時代から使っていなかった呼び名を口にした。
 祐子は振り向いて顔を引きつらせた。それはとても息子の呼びかけに対する表情とは
思えなかった。落ち窪んだ眼窩は大きく開かれ、紫色にひび割れた唇は醜く歪んでいた
。すぐさま母の異常を察知した喜一は、彼女のもとに駆け寄った。
 ひいっと、声にならぬ叫びをあげて、祐子は喜一から逃れるように体をよじり、壁に
すがりついて呟き出した。来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ない
で来ないで来ないで。喜一はしばし慄然として立ち竦み、祐子の様子が少しおさまった
頃合いを見計らって、その細い肩に手を置いた。力を込めて引き寄せると、祐子は小刻
みに震えながらまるで幼子のように喜一にしがみついてきた。何よりも喜一を驚かせた
のは、首もとに回された母の手の尋常ならぬ冷たさだった。
 翌日連れていった病院の心療内科で、祐子は鬱病と診断された。よくあることなんで
す、と医者は言った。
「日々の安穏とした生活にふと疑問を抱いた時なんかにね。いや平和であればあるほど
、その平和さが首をしめると言うか。現代病ってやつです。まあでも奥さんの場合は、
年齢的に多少アルツハイマーの気配もありますね。アルツハイマーの場合は、知的能力
が低下するのと前後して、軽度の人格変化が見られることが多いんです。もし今後健忘
なんかの症状が出てきたら、それはまずアルツハイマーと考えて間違いないでしょう」

「その、治るものなんでしょうか」と寛二が訊くと、医者は、鬱病の方は薬さえ飲めば
大丈夫なんですが、アルツハイマー性痴呆の方は現代医学ではちょっと・・・と口ごもっ
た。その時の肩を落として憔悴し切った父の様子を、喜一は忘れることができない。今
まで一家の中心として家族四人を養ってきた父もやはり一人の人間に過ぎなかったこと
を、喜一はこの時初めて知ったのだった。
 祐子の症状は、薬の効いている時はまったく問題のないものだった。しかし、歯車は
徐々に、確かに狂い始めていた。今呑気に雑誌などを読んでいたと思ったら急に布団に
もぐり込んでしまう母の様子は、何か触れてはいけないもののような印象を喜一に与え
た。とにかく深刻にならないことです、と医者は言った。病気だ病気だと、変に構えな
いこと、病人に対する特別な扱いをなるべく避けること、つまり何らかの意図的な手段
で「治そう」としないこと、それが一番の特効薬なのだと。気長に、のんびりと腰を据
えて、ちゃんと薬を飲んでいれば問題ないですよ。
 しかし、喜一には物事がそんなに簡単に解決するとは思えなかった。実際、祐子の病
状は回復に向かうどころかむしろますます悪化しているとさえ言えた。幾ら寛二が訴え
ても、医者は決まり文句と共に、新しく別の薬を出し続けるだけである。 
 頼りがいのあった寛二はまるで精気が抜けたように背を丸めることが多くなった。さ
すがにユウも戸惑いを隠せないようだった。もともと自閉症ぎみだった喜一は、この時
を境に更に深く内に隠るようになった。
 何よりの問題は、誰も狂った歯車を修正しようとしないことだった。家族は皆それに
気付きながら、それぞれが抱える諸問題に尻を叩かれる日々を送っていた。
「お母さん、これからどうなるんやろ」
 ユウの一言は重く響いた。
「そんなん知るか」と喜一はぶっきらぼうに言った。


""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
A.Shimoura creats some culture. Shall we play and pray?
Everybody Go,,,,,,,,Ahead!!!!
e-mail:::a-shimo@sol.dti.ne.jp .............OK??
ICQ number:::31267295 ............Check it out!!

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