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Date: Wed, 9 Jun 1999 18:42:12 +0900
From: "=?ISO-2022-JP?B?GyRCJC0kayQ3JCcbKEIg?=" <sakura_o@ma3.justnet.ne.jp>
Subject: [bun 00281] Re: [works]  丘へ上る道
To: bun@cre.ne.jp
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こんにちは


> 何人かの方は気づいていらっしゃるようですが、あれは小説ではありません。
> だって、事実そのままですから。
> ただ作者の方からは小説ではないものを投げたつもりが、皆様これを小説と
> してお読み遊ばされたようで、小説が書けない文芸小僧としては頭の痛いと
> ころです。

流さんの口上だと、「これは小説のつもりだった」に読めましたが、
違うのですか。
うーん。
でも、散文詩でもないですね、あれは。
そこまで象徴的でもないですし。

> 小学2年生当時の姿で呼び出された友人には悪いのですが、僕は彼についての
> 物語を書くつもりはありません。それよりは、風景の描写を通じて、社会批
> 判ができたらと思っています。

社会批判ねえ・・・
あれだけでは、単なる「昔は良かった」というノスタルジーでしょう。
個人的には、わたしは、「昔の風景が壊されるから開発は反対」みた
いな主張は好きではないですが、それだったらそれでもう少し描写を
考えていただきたいのです。
(京都の景観論争とか・・・そんなに景観が大切なら、光源氏の時代
の牛車で生活すればいい、と京都人に言いたくなるときがあります。
そして、そういう人に限って、個々の建物等ばかり気を遣っていて、
全体の景色には無頓着なんです。あの京都タワーの「景観ぶちこわし
度」はかなり高いと思う・・・。話がそれました。)

> どなたか『ドラマ』という言い方をなさってましたが、古代ギリシャ演劇以
> 来の『悲劇/喜劇』の二分法が、はたして今の世の中に意味を持つのでしょう
> か?

古代ギリシャの「悲劇/喜劇」という意味でのドラマではありません。
「人間の心の動き」という意味に於いてです。わたしはそう書いたつ
もりですが。
(古代ギリシャのドラマ、という意味でしたら、梶井基次郎の短編
など、ドラマには入らないでしょう。個人のモノローグなんですし。)

古典的ですが(古典、というのは、古代ギリシャ的、という意味では
ありません)、「人間不信にこりかたまっていた人間が、ある人間と
ふれあうことによって少しだけ人間不信がなおっていく」とか、
「自分はブス、と思ってかたくなになっていた少女が、恋をすること
でだんたんそういうひがみをなくして、美しくなってゆく」とか、
梶井基次郎ほどの描写力があれば、檸檬とか自然とかに接して、
「憂鬱な心がすこしだけなぐさむ」という状態でもいいと思うのです。

「人間の心が、ある事件/人物/事象に接して、少し、最初と変化
する」
わたしが定義する「ドラマ」とは、こういうものです。
そして、こういうものがないと、「小説」としておもしろくないよう
な気がします。

芥川龍之介は、晩年、「小説」を書くことができなくなったそうです。
確かに、わたしが考えているようなものが「小説」であるとしたら、
それは大変わざとらしいので、「書けなくなる」気持ちが理解でき
ます。(芥川の晩年の作品は、ぜんぜんそういうものがありません。)

何か事件に遭遇したり、人物とふれあったり、事象に接したりしても、
そうそう人間の心は、小説になりそうなモデル的な動きをするわけで
はないですから。それをそう書いてしまうと、一種のわざとらしさが、
常に伴います。

ありていに言ってしまえば、「スカーレット・オハラみたいに考え、
行動する女が現実にいたら、たいへん気持ち悪い」ということです。

現実を完全に記録するだけでは、小説にならない
小説は、ちょっと考えてみれば絶対現実にはならない

> 僕としては、このろくでもない世界に生きていくことが、そのまま地獄でも
> あり天国でもあるような、そういう生き方もあるのではないかと思っている
> のです。

それが、ふつーに生活してる人間の人生じゃないでしょうか。
そして、それはいちばん小説にはしにくい、たぶん、流さんが
「小説を書けない」というのはそこに起因するのではないでしょうか。

とにかく流さんの『丘へ上がる道』でも、もっと、「昔の風景を失っ
た淡い悲しみ」とか「ノスタルジー」とかはっきり表現してほしかっ
たです。(別に「彼」との関わりでなくても、ドラマは書けます。)

> どうも小説以外は歓迎されていないようなので

そんなことはないです。

> 詩でよければ、新作もあるのですけれどね。

詩はねえ。評価しにくいです。
もちろん、わたしの目から見て「いい詩だなあ」と思う詩もあるし、
「ダメだこりゃ」と思う詩もあるし。
それから、わたしが「ダメだこりゃ」と思う詩でも、人様が好きな
こともありますからね。
(たとえば俵万智。
わたしは「カドカワが この歌いいねと言ったから それから短歌は
ダメダ記念日」と言ってますけど、彼女の短歌が好きな人は多いで
すから・・・。どこがいいのかさっぱり分からないけど。)

で、小説や評論と違って、具体的に「どこが悪い」を言いにくいん
です。(「どこがいい」というのも、感覚的な問題なので、言える
けれど、技術の向上という意味で論理的に指摘することができない
んです。)

流さんの今回の詩ですか?
残念だけど「ダメだこりゃ」ですね。わたしにとっては。

絵を描いていると、何人かの中には、かならず「いかにも抽象画
でござい」という絵を描く人がいるのですけど、そんな感じです。
独創性を感じない。
ただ、これはわたしの感覚なので、「いい」と言う人もいるかも
しれない。(実際、そういう「いかにも抽象画でござい」という
絵でも「市民展覧会」の上位に入賞してたりしますし。)

ただ、音韻のリズムは悪いですね。これははっきり言える。
詩には、独自のリズムが必要だと思うんですよ。
(何も、韻を踏め、という意味じゃなく。俵さんの短歌が嫌いな
理由も、その「リズム感のなさ」なんです
けどね。彼女、「サラダ」とか「テレホンカード」とか、カタカナ
語に対する音韻はすばらしくて、そこらへんが「新しい」のだろう
けれど、そのほかの日本語のリズムは・・・としか言いようがない。)

あるいは、ただ、わたしのリズムと合わないだけなのかもしれま
せんが。

以上、わたしの批評は、聞き流してくだされ。


  ∧ ∧  おおもり さくら
(≡^・^≡)sakura_o@ma3.justnet.ne.jp
    

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